第13回 北海道と東北の新たな絆へ

道新東北支局が開設

尾形 毅(平成元年卒)

あれほど集中した被災地報道攻勢の潮が引いていく。

大震災後、会社の広報担当である私のもとには、連日のように全国のマスコミ各社から震災取材の依頼が殺到した。

大手新聞はもちろんのこと、在京テレビ局、名古屋の新聞社、週刊誌、経済誌などあらゆる分野の記者がやってきた。私は記者一人ひとりにお願いをした。

「今は被災地に目を向けてくれているけれど、あなた達は半年も経てば被災地の ことは忘れてしまうだろう。でも、これだけの震災だ。簡単には街も人の心も 元には戻らない。だから取材を続けてほしい。被災地を伝え続けてほしい。」

7か月が過ぎた今、やはりというべきか。記事としての「旬」が過ぎたのだろう。あれだけ大騒ぎをしたマスコミは、二度と連絡をよこすこともなく、被災地の報道もすっかり縮小した。

同じ東北地区でもマスコミの震災報道への温度差は余りにも大きい。 地元の河北新報社は、今日も全社を挙げて紙面で震災報道を続ける。顔馴染みの経済担当記者たちも、被災地を歩き回り、精力的に記事を書いている。署名入り記事で知っている記者の名前を見つけると本当に嬉しくなる。

その一方、奥羽山脈をはさんだ隣県の新聞社は、県内被害がほとんどなかったこともあって震災報道はほんの一部だ。震災前の日常の平和な紙面構成が続いている。河北新報も震災前はこうだったなと思い出す。私は、毎朝この2つの県の新聞を読んでは、その落差にため息し悩む。互いに車でわずか1時間の距離にある街の地方新聞社である。都市間高速バスが10分間隔で運行し、多くの人々が行き来し、日常生活の一体性が年々強まっているではないか。それなのにこんなにも報道姿勢が違うものなのか。

でも、たまたま私は被災地に住んでいるからこのように違和感を感じるのであり、もし隣県や首都圏に住んでいれば同じ感覚になってしまうのだろうな、と。マスコミ報道の縮小とともに次第に被災地は取り残され、人々の記憶と関心は薄れていく。これは今回の震災に限らず、あらゆる被災地の避けられない宿命かもしれない。

北海道新聞社の勇断、東北支局を開設。北海道と東北との新たな絆へ

そのような中で震災報道に敢然と取り組む姿勢を示してくれた新聞社があった。北海道新聞社である。

この10月に震災報道の拠点となる臨時東北支局を仙台市に設置し、2名の記者が赴任された。東北支局は、東北6県全体をカバーされるそうだ。

支局の渡辺玲男記者にさっそく北海道と東北をつなぐご縁の一つとして、わが緑丘会宮城支部へ訪問いただいた。

渡辺記者によると「取材を通じて、北海道と東北・宮城のつながりの深さを改めて知った」とのことであり、担当された東北支局開設の特集紙面では、明治維新後の仙台伊達藩の北海道開拓移住の歴史をはじめとして、今回の震災での北海道各方面からの献身的なご支援が紹介されていた。

例えば、札幌市白石区は、仙台伊達藩の白石片倉家臣団(白石市)が維新後に移住して開拓した街であるが、今でも区役所食堂では白石名物の温麺(うーめん)をメニューに出していただいているという。

商大進学のさい、私は初めて札幌のJR白石駅に降り立ったが、白石を「しらいし」ではなく「しろいし」と読むところに、間違いなくここは仙台藩の先達が拓いた町であることを思い、深い感動に捉えられた記憶がある。このほかにも仙台藩の亘理伊達家、岩出山伊達家が開拓移住した伊達市や当別町なども仙台と極めて深いつながりがあるが、北海道新聞によると最近では、地方自治体の財政難などもあり交流活動が停滞し、若い世代ではその歴史を知らない者も多いという。

北海道新聞では、このように北海道と東北は地理的・歴史的な深い絆を持ちながらも、最近は互いに東京だけを意識する「近くて遠い隣人」であった。その隣人が今回の震災を機に、東北の復興のため「心を一つ」にして新たな絆を深めていると解説する。

渡辺記者は語る、「被災者の不安の声に腰を据えて向き合いたい」と。この北海道新聞の視座と支局開設の勇断は、最近の震災報道に失望しかけていた私に、強い理解者と支援者が登場してくれた安心感、そして震災復興に取り組む前向きの気持ちを再び呼び起こしてくれた。

惜しむらくは、この北海道新聞の勇断と取材記事がここ宮城では報道されていないことである。道民はもちろんだが、できれば被災地・宮城でも北海道新聞の取材記事を読んでいただければ、双方向の「北海道と東北の新たな絆づくり」への強い一助になるものと思う。