第09回 スキーのメッカ小樽を支えた

高商シャンツェ

平成元年卒 尾形 毅

スキー競技のメッカ・小樽

私は、ここ宮城県で高校まで競技スキー(ノルディック)を続けていた。競技大会に参加して間近にみる北海道勢、とりわけ小樽勢の滑りと飛距離のレベルは、全くの別次元の世界であり、とても同じ高校生とは思えず、むしろ憧れの存在ですらあった。

当時の北照高校には、高校生ながらワールドカップを転戦していたアルペン岡部哲也選手が在学していたし、レークプラシッド五輪でジャンプ・銀メダルを獲得した八木弘和選手(たくぎん)も同校の卒業生だった。

私は、小樽では天狗山スキー場の麓に下宿したが、北照高校が天狗山スキー場に近接しているのを初めて見たとき、「FIS公認コースが校庭にある」とその世界的な強さの訳をすぐに理解した。抜群の環境に加え、選手のトレーニングもすごかった。

たとえば、オフシーズン、スキー部の生徒は、歩くのもいやになる最上町のきつい坂道を自転車で涼しい顔してスイスイと通学していた。私も、小樽に自転車を持ち込んで坂道を走ってはいたが、自転車ギコギコ、息切れゼイゼイのありさまであり、とても「私は高校で競技スキーをしていました」と人前では言えないなと、すっかり観念してしまった!。

下宿のお孫さんは3歳になると、本物の競技用スキーを揃えて天狗山スキー教室に通いはじめたし、街中の急な坂道には「ここでスキー・ソリ遊びを禁じる」との看板が立っていた。

結局、私は、小樽でスキーを余り履かなかったが、それでも坂の町・小樽の日常生活は至るところでスキーが密着しており、そんな生活にとても満足していた。しかしながら、最近では小樽の町でさえ、スキー人口が大きく減少しているとのことである。(参考記事:小樽ジャーナル「スキー人口減に歯止めを」2009年)

第1回全日本スキー選手権を開いた小樽・緑ヶ丘

天狗山のゲレンデを登った商大1年生の時のことである。山頂にあるスキー資料館を見学した。そこにはスキーの町・小樽の輝かしい歴史が数々展示されており、国内最高峰の全日本スキー選手権大会もここ小樽で第1回大会が大正時代に開催されたと説明されていた。

その時に気になったのは、その会場が自分が登ってきた天狗山ではなく、緑ヶ丘と説明されていたことである。いったい緑町のどこでスキー大会を行ったのか、これはとても気になった。

その後、最上町の下宿から商大まで「けもの道」を歩いて通っているうち、緑町住宅の山頂から小樽商業高校へ降りて行く住宅地の斜面が非常に急で、しかもそれなりの距離があり、スキーに適しているのではないかと直感した。

実際に自分の足で急坂のまっすぐな小道を下っていくと、自然とスキーのターンを意識しはじめ、滑るように楽しく駆け降り、商業高校に到着したときは「ゴール!」と叫びたくなる場所だった。

もう一つ気になる場所があった。それは商大研究棟の裏山である。「けもの道」から緑丘戦没者慰霊塔に抜けて、研究棟の裏山を見上げてみると、ジャンプ台のランディングバーン(着地するところ)にぴったりの斜面となっているのに気付いた。「いい山だなあ、40メートル級だったらジャンプ台を作れるな」と思ったりした。

これ以外にも地獄坂はもちろん、商大緑町周辺は、いたるところがスキーの適地であったが、結局、在学中はどこで全日本スキー選手権が開かれたかは特定できなかった。

ジャンプ競技・初代全日本王者は小樽高商・讃岐梅二選手

それから20年以上たった、最近の出来事である。全日本スキー連盟の資料を読んでいると、第1回の全日本スキー選手権が1923年(大正12年)に小樽で開催され、初代のジャンプ優勝者は小樽高商の讃岐梅二選手であるとの公式記録があった。

栄光の初代全日本ジャンプ王者が小樽高商の大先輩であることに心動かされ、また、第1回大会の会場は緑ヶ丘であったことも思い出し、いろいろ調べてみることにした。

第1回全日本スキー選手権が小樽で開催された大正12年2月は、まさに伊藤整の「若い詩人の肖像」の時代そのものであり、伊藤整が1年生、小林多喜二が2年生、讃岐梅二選手が3年生に在学している。

「緑丘アーカイブス」の1923年卒業アルバム(大正12年)によると、讃岐梅二選手は小樽市富岡の出身である。伊藤整によれば「上級生の殆どは髪を伸ばし、ポマードをつけていた」(若い詩人の肖像)なかで、讃岐選手は運動部らしく少数派の坊主頭であったが、日焼けして引き締まった凛々しい表情は、まさに初代全日本ジャンプ王者にふさわしい風格である。

日本のジャンプ競技やジャンプ台の歴史については、石狩市のスキー史家・中浦皓至さんが、北大大学院で研究され、非常に興味深い論文を発表されている。

中浦さんの研究によると、北大の遠藤吉三郎先生が、ノルウェイから本格的なジャンプ技術を持ち帰り、日本で最初の木造の小さな仮設ジャンプ台を作ったのが1917年(大正6年)とのことであり、その場所は小樽高商の裏山であると記録されている。(同年に北大にも仮設台が設置された)。

この仮設台で、小樽高商、北大、小樽中学、小樽商業の生徒が練習に励み、学校のそばにジャンプ台があるという絶対的な地の利を生かし、小樽高商の讃岐梅二選手がのちに北大勢を抑えて初代の全日本ジャンプ王者の栄冠をつかむことになる。

中浦さんによると、北大では「小樽のように学校の近くに良好なシャンツェがあれば」と嘆き、その後、理系・北大は札幌三角山等に本格的な固定式のジャンプ台を設計・設置し、第2回大会以降のジャンプ王者のタイトルを独占していくことになる。

なみに讃岐選手の優勝記録は16.1メートルであり、当時、既にジャンプ台の設計技術が進んでいた北欧では60メートルを飛んでいたという。いずれにしても小樽高商の讃岐選手が栄光の初代全日本ジャンプ王者であることは、全日本スキー連盟のホームページにも載っている公式記録であり、今後も末代まで語り継がれていく偉大な記録である。

しかしながら、商大公式ホームページの大学沿革には、讃岐選手の栄冠が記載されていない。理由はわからないが、実に残念で仕方がない。

緑ヶ丘周辺は畑地が広がり、格好のスキー場であった

さて、第1回全日本スキー選手権の会場となった当時の緑ヶ丘はどのような状況であったのか。「緑丘アーカイブス」で当時の卒業アルバムを確認すると、小樽高商の下方、つまり小樽商業の南側一帯は、まだ畑地や丘、山の斜面が続き、冬は格好のスキー場となっていたようである。

ここが宅地開発されるのは、緑丘新聞(1931年9月)によると昭和6年ごろであり、「丘が、畑地が、山が住宅地に変わりつつある。スキー場として有名であった『緑ヶ丘』の名前が人々から忘れられていく」と惜しんでいる。実はこの場所こそは、20年以上前に、私が急坂を駆け降りながら、ここはスキーに適していると直感した場所であった。

今になって、当時の私の競技者としての勘は合っていたのだと証明された感じがして、なぜか安堵した。

商大キャンパスに競技用ジャンプ台があった!

「緑丘アーカイブス」で卒業アルバムを見ながら、その後のスキーの変遷を調べていたとき、1935年(昭和10年)の卒業アルバムに思いがけない写真を発見した。

それは小樽高商の緑丘キャンパス全体の写真であるが、突如、その年から写真の左上の図書館の裏側に固定式の立派なジャンプ台が毎年写りはじめるのである。冬場だけの小さな仮設台ならまだしも、キャンパス内に競技用の固定式のジャンプ台がある。これは私の想像をはるかに越えた驚きであった。

調べると当時の小樽には、小樽高商を含め、天狗山、小樽中学(潮見台)など、市内5ヵ所にジャンプ台があり、スキー王国・小樽の底力を改めて思い知らされた。さすがに商大公式ホームページにもこれは残っており、「昭和6年12月、図書館裏にシャンツェ竣工」と記録されている。

当時、卒業アルバムの緑丘キャンパス写真は、校舎中心の写真を使っており、1935年(昭和10年)になって初めてシャンツェを含んだ写真に更新されたようである。このジャンプ台は「高商シャンツェ」と呼ばれたが、現在、果たしてどの程度の緑丘関係者がこのことを記憶されているのであろうか。

このジャンプ台のキャンパス写真は、戦後の1947年(昭和22年)の卒業アルバムまで続くのだが、この昭和22年の写真を見るとこのジャンプ台の位置関係がよく分かる。ジャンプ台は、現在の研究棟の裏山に作られていた。木製のアプローチから助走し、裏山がランディングバーンとなり、研究棟の敷地がブレーキングトラックとなっているではないか・・・・。

20年前に、私は商大でジャンプ台にぴったりだなと裏山を見上げていたことが、ここでもまたその勘が当たっていたのである。これには私自身も本当に驚いてしまった。

高商シャンツェからオリンピック選手が誕生

このジャンプ台は、高商学生の勤労奉仕によって造成されたとのことである。その後、このジャンプ台で練習した在校生の中から、1936年(昭和11年)に宮島巌選手が第4回 オリンピック(独ガルミッシュ・パルテンキルヒェン)に出場、1940年(昭和15年)には菅野駿一選手が全日本ジャンプのタイトルを獲得するという輝かしい栄光につながっていく。

だが、戦時中、ジャンプ台周辺は開墾地となり、戦後、商大昇格後の卒業アルバムからは、 その姿を消している。 浜林正夫先生の回顧談によると、当時、壊れていて使えなくなっていた高商シャンツェは、燃料不足のため、壊してまきにして燃やされたそうである。

このジャンプ台の設計については、前述の中浦さんが詳しく研究されている。

「高商シャンツェは、「小樽高商付近に好適なシャンツェを発見 ヘルセット中尉※の選定にて理想的なスロープ」と小樽新聞に報じられていたが、ヘルセットの検分によって高商グランドの背面で長橋方面に32度位の傾斜スロープが高商シャンツェ地として選定された。

その年の暮れに第一期工事が終わり、未完成ながら新年早々から練習用として使用した。翌31(昭和6)年10月14日から第二期工事を開始して合宿所、観覧席、着陸面の一部が完成し、12月13日に落成式並びにシャンツェ開きが行われた。

このシャンツェは、(北大スキー部)先輩の岡田三郎が設計し、工事監督にあたった。アプローチが50メートルで幅4~5メートル、最大傾斜20度、シャンツェの高さは32.5メートル、傾斜5度の木造、ランディングバーンは幅7~15メートル、傾斜32度、長さ40メートル、圏外幅20メートルの25~39メートル級であった。」

現在と規格が違うので一概に言えないが、多分、現在でいうスモールヒルぐらい(中学生向き)であろうか。

そもそも小樽にスキーを伝えたのは、上越高田から3台のスキーを持ち帰った小樽高商の苫米地校長だと伝えられているが、こうしたスキージャンプの記録・歴史も、小樽の町とともに歩んできた商大100年の重要な歴史としてしっかり残されるべき事実だと思う。

※セルセット中尉は、サンモリッツ五輪(1928年・スイス)ノルウェーチームの監督である。大倉山や荒井山などのジャンプ場設置にあたり数多くの助言・尽力をされた。

<追記> 小樽高商・伴校長のご子息はオリンピック選手

私がスキー競技をしていた昭和50年代、全日本スキー連盟の会長は伴素彦さん(日本製粉社長・会長)であった。

伴さんは、小樽出身で北大スキー部で第4回全日本ジャンプ王者(1926年)となり、日本初のオリンピック・ジャンプ代表(1928年サンモリッツ五輪)となられた方である。一度だけ、大倉山ジャンプ競技場で遠くからお見かけしたことがあるが、いつもスキー競技大会パンフレットには温厚な伴さんの顔写真が載っており、なぜかホッとした記憶がある。

伊藤整「若い詩人の肖像」に登場する小樽高商・伴校長と、苗字が同じだから、何か関係があるのかと思っていたら、最近になってわかったが、やはり伴校長のご子息であった。

ちなみに、私は当然ながらもらったことがないが、伴さんが会長にあったときの、全日本スキー選手権の表彰状の文言は、厳しい冬の練習に打ち込んできた選手を心から称える詩情あふれてるものであり、私は好きだった。

第○回全日本スキー選手権大会ジャンプ競技優勝○○ ○○

しろがねの 山野に挑む 君が 技と力を発揮し 燦然として その栄誉に輝く

ここに名誉ある雪の覇者の 栄光に心から祝福と賛辞を贈る

全日本スキー連盟会長 伴素彦

伴さんの後任は某鉄道グループの総帥や某建設会社の社長様だったが、表彰状はお決まりの 「○○は表記の成績をおさめたので、ここに表彰します」になったようである。

<参考文献>

小樽商科大学「緑丘アーカイブス」卒業アルバム、緑丘新聞

中浦皓至稿 「日本におけるジャンプスキーの発達に関する歴史的研究:黎明期における北大スキー部の活動を中心に」北海道大学大学院教育学研究科 紀要第89号2003年3月

中浦皓至稿 「日本における飛躍台(シャンツェ)の発祥史について」北海道大学大学院教育学研究科 紀要第101号2007年3月

全日本スキー連盟「SAJ公式大会歴代優勝者一覧」「記録に見る日本スキー競技史」