第01回 「待つ」ことではなく

「立ち向かう」ことを選択したい

高橋志朗(昭和50年卒)

一昨日(3月29日)、石巻の親戚宅へ、ガソリン等の支援物資を届けに行ってきました。石巻までは、三陸道も開通しているため、車を運転して行きました。石巻が近づくにつれ、道路の地割れ箇所は目に見えて増加し、津波で破壊された家屋や放置されたままの車などが目に飛び込んでくるようになりました。

今回は市の中心部には入らなかったため、被害の最も深刻な地域の状況は判りませんが、南三陸町や気仙沼等の惨憺たる状況は察するに余りあるものがありました。石巻の親戚宅は、床上浸水はしたものの、幸いにも人的被害を免れ、家屋も原形をとどめていました。

短い滞在のあと、この春から長女が住む予定にしているアパートの方にも回ってみました。ちなみに、長女は、石巻の地元企業である「ヤマニシ」という造船会社に内定が決まっていました。

「ヤマニシ」は、ニュース等であるいはご存じかも知れませんが、今回の震災直後に、建造中の船舶3隻を津波で、作業員数十名を乗せたまま流された会社です。作業員は、幸運にも全員が救助されましたが、造船所や社屋が全壊するなど、文字通り、壊滅的な被害を被りました。

アパートのある地域は、東松島市の一角にあるため、復旧も未だままならない状況でした。道路に沿った家屋の中には、津波で流された車が突っ込んだままになっているものも、車窓から散見され、娘の部屋の状況が心配されたのですが、こちらの方も幸運にも、二階だったせいもあって、大きなダメージを受けず、被害は最小限で済みました。もっとも、アパート周辺にも津波は押し寄せたようで、一階の部屋は床上浸水した様子でした。もしも、一階の部屋を借りていれば、娘も相当の被害を免れなかったハズで、津波の恐ろしさを実感させられた次第です。

話が前後しますが、石巻は、実は私の出生地で、小学校の5年までの期間を過ごしました。石巻には多くの楽しい思い出があり、今なお多くの友人が住んでいます。その街が、一瞬にして瓦礫の山と化してしまいました。人生の不条理を感じざるをえません。今の私に出来ることは、ただ祈ることだけです。

もっとも、朗報もあります。先日、長女のところ に「ヤマニシ」から連絡があり、会社の事業継続が決定されたとのことでした。半ば覚悟していた内定取り消しは無い模様で、とりあえずは、「自宅待機」となりました。この「自宅待機」は、恐らくは、石巻の再生に社運をかけようとする「ヤマニシ」の経営陣の英断の現れであろうと推察しています。我が家としても、「ヤマニシ」の再建を祈ることは勿論ですが、石巻の治安が回復され次第、長女には「ボランティアとしての出社」を促し、会社の再建に微力ながら協力させてを貰いたいと願っています。

「就職」という人生の節目にこうした大災害に見舞われた事実から、今後の人生の教訓を学び取るためにも、「待つ」ことではなく、「立ち向かう」ことを選択すべきだというのが、私達の考え方です。

以上、雑文ですが、近況報告に代えさせていただきます。

津波で被災した石巻市

石巻市中心部