作家・渡辺淳一が語る小樽商大

  • 作家・渡辺淳一氏は、昭和40年に新潮同人雑誌賞を受賞し、その後札幌医大整形外科医から 作家に転身しました。渡辺淳一氏の文壇デビューを強く推したのは、小樽商大出身の作家・伊藤整でした。
  • 渡辺淳一氏が昭和40年代後半の緑丘祭で講演会を行った様子が、エッセー集『北国通信』(昭和56年・集英社)に「小樽の人」として収録されています。伊藤整と小樽商科大学の記述部分の一部をご紹介します。

渡辺淳一著

「小樽の人」より

(文庫本『北国通信』)

6月末に、北海道へ行ったのは、小樽商大の大学祭に招かれたからである。この大学は、北大と並んで、北海道では最も古い大学である。

春秋、この両大学のあいだでスポーツの対抗戦がおこなわれるが、それに先立つ対面式には、両行の応援団長がマントに朴歯の下駄をはき、2、3メートルはある挑戦状を読み上げる。

それが両市民の喝采を浴び、北の早慶戦とも呼ばれてきた。

早稲田に擬せられたのは、総合大学の北大のほうで、小樽商大は慶応といった感じである。

勝負は大体、学生数が圧倒的に多い北大のほうが優勢だったが、商大のほうは単科大学でも、まとまりとファイトがあって、かなりいいところまでいく。

入試の難しさも、両大学ともほぼ同程度で、かつて小樽商大が二期校だったころは、北大に入っていながら、商大へ移る者もいた。

理系はともかく、経済や商業関係なら小樽のほうがいいという考え方が一般的であった。

大学の規模は小さいが、かつては横浜、神戸商大と並び、実業界に多くの人材を輩出したところである。

近年、いずれも総合大学になり、特色が失われてきたなかで、小樽商大は、カレッジとしてのユニークさを保ってきたが、それも少しずつ薄れてきたらしい。

「やっぱり、大きいところにはかないません」学生の一人が苦笑いしながらいっていたが、最近はいささか北大におされ気味らしい。

それでも古い港町の海の見える丘で小樽商大はなお孤高を保っている。

小樽商大ときいて、すぐに思い出したのは、伊藤整先生のことである。

昭和40年に、僕が新潮同人雑誌賞をもらったとき、熱心に推してくれたのが伊藤先生であった。

もし先生がいなかったら、僕は作家になっていなかったかもしれない。書いたものの批評から、作家としての身の処し方まで、先生からはいろいろ教わることが多かった。その先生の卒業された大学へ、行ってみたいと思った。

(文庫版 222~225ページ)