作家・小林多喜二が語る小樽商大

  • 平成の「蟹工船ブーム」で再び光を受けた小林多喜二は、旧制小樽高等商業学校で学び、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務し、プロレタリア作家としての人生を駆けぬけました。

  • 小樽市の旭展望台にある小林多喜二文学碑には、治安維持法違反の罪で起訴され獄中にあった多喜二が、彼への支援活動をしてくれていた村山氏へ送った書簡の一部が記されています。

  • 北海道放送制作の芸術祭大賞受賞の「いのちの記憶- 小林多喜二・二十九年の人生-」(DVD)が発売中です。

旭展望台 小林多喜二文学碑より

冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、

深い感動に捉えられている。

そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。

そこでは人は重っ苦しい空の下を、どれも背を曲げて歩いている。

ぼくは何処をあるいていようが、どの人も知っている。

赤い断層を処々に見せている階段のようにせり上がっている街を、

ぼくはどんなに愛しているか分からない。


作家の小林多喜二が、戦前、故郷の北海道小樽に心を寄せ、東京の獄中から知人に宛てた手紙の一節です。小樽は、明治開拓期から戦前にかけて石炭積出や樺太貿易などで全国4位の荷物取扱量を誇った港町。多喜二が育った頃、小樽は繁栄の頂点にあり、石造りの日銀や都市銀行、大手商社が軒を並べていました。

それから半世紀の時が移り、私は、昭和の終わりに多喜二や伊藤整が学んだ小樽商科大学に進みました。明治・大正期の面影を色濃く残す古い街並み。坂道から眺める日本海。深雪に半年も埋もれる厳冬の日々。北辺の小さな学校に全国から集った同窓生、そして私たち学生を大事にしてくれる街の人々との出会い。

多喜二が綴った手紙の世界は、ずっとそのまま小樽の街に息づいていました。いまでもこの手紙を読むたびに、若き日のわが記憶と重なり、遠い北国を思うと自然に涙が浮かんできます。 

おおげさだと思うかもしれません。でも、母校で教鞭をとった歴史学者の阿部謹也先生(元一橋大学学長)も、「ひとたび住んだ人が何処にいこうとも常にあそここそが私の故郷だという思いを抱かせる街がある。小樽はそういう街である」と回顧されています。母校の同窓会に参加すると、この思いは世代を越えて流れていて、強いきずなを育んでいます。

今夏、小樽の下宿や母校を訪ねると「おかえりなさい」と言ってくれた人がいました。この街の人々も、ひとたび住んだ人はいつまでも自分の街の住人だと考えているように思えるのです。小樽はそういう街なのです。