第04回 写真が語る津波被災地の町

尾形 毅(平成元年卒)

その1.大震災が発生、携帯ラジオだけが頼りだった

3月11日(金)午後2時46分、私は仙台市中心部のオフィスで、激しい巨大地震に襲われた。「ついに来た!」。直ぐに発生確率99%といわれていた宮城県沖地震だと皆が言い合った。

しかし、揺れの激しさに加え、異様なまでに揺れの時間が長い。本当に長い。3年前に経験した岩手・宮城内陸地震もビリビリとくる強烈さだったが、それを優に越えている。もうとっくに揺れは終わっていいはずだった。

数分たってようやく終息しかけ安堵した。その瞬間、信じられないことに、さらに一層激しい揺れが襲ってきたのである。後からの報道によれば、茨城沖のプレートが跳ね上がった瞬間だそうだ。

一体この地震は何なんだ。ついにオフィスの電気が一斉に消える。悲鳴があがる。数年前に数億円をかけて耐震工事をした壁にさえ亀裂が入る。天井が崩壊してこないか、このまま死ぬのではないかと心底恐ろしかった。とくかく、ありとあらゆるものが延々と大きく揺れ続くのである。

結局、何分間揺れていたのだろうか。後の報道で知ることになる国内最大のマグニチュード9.0の巨大地震がようやく終わった。室内の壁が剥離し、パーテーションなどが倒れはしたが、幸いにもフロアーの全員がケガもなく無事だった。

外を見ると、青葉通りは百貨店やオフィスビルから避難した人々であふれている。近くの小学校校庭が緊急避難所であり、人々があるれるばかりに集まった。そこに無常にも雪が降ってきた。天気予報どおりとはいえ、その天の仕打ちはあまりにも残酷だった。

会社内に緊急対策本部が設置され、私はメンバーとして、そのまま会社に2週間寝泊まりした。

「これはとんでもない津波がくるぞ」

昨年の冬、チリ沖地震で津波の恐怖を経験した私達は、地震直後にそれを直感した。その時点では まだ利用できた電話で沿岸部の営業所へ連絡を入れたが、すぐに通信手段がマヒしてしまった。停電のなか最初の情報源は、小さな携帯ラジオだけだった。ラジオは、仙台港へ10メートル、三陸海岸に数十メートルの津波が来るといってる。私達の最初の直感どおりとなった。

震災後1時間を過ぎたころであろうか。ラジオは、「仙台空港に津波がきた」「チリ地震津波の高さを越えた」「沿岸部で多数の犠牲者が出ている」と伝えた。

会社の外で一体何が起きているのか、ラジオの情報は現実のものとは到底思えなかった。ある職員が、たまたま携帯ワンセグで仙台空港周辺を襲う黒い大津波の映像を確認した。私もわずかな時間ではあるがそれを見た。

その瞬間、私は、地元新聞の河北新報が1カ月程前に報じた、千年前の貞観地震津波(869年)のことを思い出した。その記事は、研究機関の地層調査の結果、千年前に仙台平野一帯を襲った大津波があったことが判明したという内容であった。それを朝食をとりながら読んだ時、私は「へぇ、平安時代には、そんな大津波もあったのだな」とはるか遠い日本昔話を聞いた気分であり、源氏物語に出てくる「須磨の大嵐」のようなことと軽く思っていた。

しかし、まさに今、その新聞記事の昔話は現実のものとなり、千年前の大津波が再襲来していた。とんでもない事態だ、沿岸部の営業所は、もう完全に駄目だろうと悲痛な気持ちになった。

震災の当夜、100万都市・仙台の街は、停電で真っ暗な世界となった。後で聞くと、その夜は美しい星空だったというが、ビルが立ち並ぶ中心部では見えなかった。何か得体の知れないものが、暗やみから出てきて、襲われるのはでないかとかとさえ思った。田舎育ちの私でさえ、都会のこの深い暗やみには、底知れない恐怖感を感じた。

その2 大津波を逃れた職員が無事に帰還してくる

私の対策本部での役割は、刻々とかわる職員の安否確認、会社施設の被害状況をまとめること、 ラジオ、テレビ、新聞等の災害ライフライン情報へ営業状況の情報を流すこと、関係当局への対応・報告などであった。

私は、次々に寄せられる大量の情報に囲まれ、それを整理し、内外へ発信する中で、またたく間に毎日が過ぎていった。一日の行動範囲は、自分の机の周囲だけだった。

他の職員は食料やガソリンの確保に奔走した。職員救出に沿岸部へ昼夜を問わず出動した。交通手段とガソリン事情が混迷するなか、各営業所への物資搬送も困難を極めた。

職員は、震災直後から各地の営業所に釘付けとなっており、食料も確保できていない。直ぐに本部で精米を数トン調達し、女子職員が毎日千個のおにぎりを作り、全店に配送した。私も自分の机でおにぎりを食べ、そして夜は応接室のソファーで寝た。最初の数日は資料保管用のダンボールをフロアーに敷いて、コートを被ってそのまま寝た。空調施設が壊れており、朝方の寒さはきつかった。一度目がさめるともう眠れないので、そのまま仕事をした。

数日後、大津波から間一髪で逃れた沿岸部の職員が次々に帰還してくる。そのたびに職場で大きな拍手が沸いた。みんな戦場から帰ってきた兵士のような顔をしていた。「ああ、生きていてくれた」と心から安堵した。

新聞やテレビの写真・映像もたしかに衝撃的だったが、私には帰還した顔なじみの職員が語る生死をかけた大津波からの避難の顛末が現実そのものであった。

ある者は、営業所の裏山に必死に駆け上がり、その直後に営業所が津波に呑まれた。そのまま山中で数日を過ごし、その後、自宅まで15時間をかけて山道を歩いて自宅へ戻った。

ある者は、職員全員で国道の歩道橋にあがり、津波が高さを増して足元に近づく恐怖のなか、雪の降る中を一晩中を全員で身を寄せ合って過ごした。

ある者は、街が津波と火災で地獄図と化するなか、避難できる道路を一晩中必死になって探し続けた。

本部にいる私にできることは、彼らの話をしっかり聞き、心から労をねぎらうことだった。

その3 太平洋戦争後の廃墟化した日本を思わせる光景

震災から数日後、水位が下がった沿岸部へ本部職員が出動し、ガレキの中から重要物の回収作業を開始した。既に、この機に乗じて被災地を荒らす不届き者が出現していたからである。

本部職員が撮影した被災地の写真を見た。焼け野原のなか、軍用車が土ホコリをあげながら走っている。どこかで見たことがあった。それは幼い頃から何度も見せられた、太平洋戦争後の廃墟の日本の姿であった。ある職員は、広島原爆の写真のようだともいった。そのとおりだと思った。

しかし、これは先日まで営業所のあった三陸のある町の姿であった。会社の営業所は建物躯体だけを残して全く無残な姿になっていた。海釣りに出かけたさい、朝方に寄っていたセブン・イレブンは跡形もなかった。全てを奪った海だけは、いつものように穏やかであった。写真を直視できなかった。なんと言えばいいのかわからなかった。

その4 奥羽山脈の風雪が私を日常に戻してくれた

震災から2週間後、私は出張で山形へ出かけ、久しぶりに外に出て太陽の光を浴びた。車の窓越しの太陽は春の日差しの強さを少しだけ増しており、私の体にしみた。

ガソリンスタンドやスーパーに並ぶたくさんの人々。

リュックサックを背負って自転車で移動する人々。

壊れた建物、そして波打つ高速道路。

私のやっている仕事が、被災地の写真が、津波から逃れた仲間の顔、街の様子すべてが、現実とは思えなかった。

高速道路で笹谷峠に近づき、見慣れた奥羽山脈の雪山にはまだ風雪が舞っていた。ここまで来て、ようやくこれが本当の日常の姿だと安堵を覚えた。

いつもは行く手をさえぎる邪魔な風と雪でさえ、その日は、私を震災の異常事態から日常生活に呼び戻してくれるありがたい存在であった。

宮城県南三陸町

宮城県南三陸町