第75回 書評「文系学部解体」

札幌支部・小西一郎氏寄稿(昭57入学)

事務局

日本の大学教育は崩壊の危機に瀕して居る。

現役の国立大学教授にして管理職(課程長)である著者の報告なだけに、其の切実さは筆舌に尽くし難い。多くの方は、昨年6月8日付の文科省からの通達、いわゆる国立大学での人文社会科学系不要論で大学の異変に気付かれたかも知れない。しかし、此の流れが今に始まったものではなく、又、日本に留まるものではないと著者は言う。

1991年「大学設置基準の大綱化」が実行された。一時期、大学が激増したのと教養部が廃止されたことを覚えて居られるだろうか。大綱化=自由化によって、大学に競争原理を導入することが目的であった。次に現れたのが2001年、小泉政権下での遠山プランである。①国立大学の再編統合 ②国立大学への経営手法導入 ③国立大学への第三者評価による競争原理の導入を主な柱とし、当初は国立大学を99校から60校程度に削減しようとした此の政策がベースとなり、2004年の国立大学の法人化、2013年の国立大学改革プランに繋がっていくとする。

著者は更に、1919年の大学令以前にまで遡って検証する。当時、五つあった帝国大学(設置順に東京、京都、東北、九州、北海道)は、東京と京都を除けば文科を持って居る帝国大学はなく、東北と九州が法文学部を持って居ただけであった、つまり、帝国大学は勝れて理系の大学だったということだ。一方、大学令以降に昇格した私立大学の多くは、法文商経等といった文系が中心であった。 著者は、国立大学から文系を排する動きに戦前回帰のにおいを嗅ぎとるのである。

国立大学改革プランでは、旧帝国大学や其れに次ぐ国立大学を世界最高水準の教育研究グループに分類して居る。著者はそこにも一期校・二期校制度や予算配分の相違、博士課程設置の制限等、戦前回帰の流れを認め、且つ明治以来続く格差の再来を指摘するのである。

「役に立たない」哲学や人文学を大学のカリキュラムから削減しようという動きは、世界的に広がって居るらしい。著者は、社会的有用性を指向する学部(国家に奉仕する学部)と自由な理性にのみ従う哲学(人文学)の弁証法的葛藤が大学であるとしたカントの大学モデルが、危機に瀕して居ると考える。其の原因は様々であり複雑だ。アメリカの進歩主義の影響もある。ポストモダンからの捉え方も出来る。進歩史観の終焉、普遍的真理探究の為の知から、断片化され情報と化した知への変容、そして歴史意識の喪失。グローバル化した経済が其れ等に拍車をかけて居るとする。そして、世界史的に近代型の大学は、今や転機を迎えて居ると結論付ける。

単純な戦前回帰では済まないところに、日本の知の惨状が見てとれる。戦前の旧制高等学校では、理系志望の学生達でも「デカンショ節」に代表されるドイツ哲学に親しんだ。しかし、今の日本の国立大学では教養は軽視されるばかりである。

私達の母校、小樽商科大学は、国立で唯一の社会科学系の単科大学である。又、創立以来、文学、歴史、化学等、幅広い教養教育を其の特色としてきた。故に、経済人だけではなく、作家、俳人、邦楽家、画家、歴史学者、言語研究者等、幅広い人材を輩出してきたし、GHQによる一県一大学の政策の圧力に抗し、単独での存続と大学昇格という快挙を成し遂げることが出来た。

商大OBは、此の本を母校への警鐘、木鐸とすべきではないだろうか。