第15回 気仙沼から届いた八木下さんの朗報

尾形 毅(平成元年卒)

例年より、手元に届いた喪中のはがきが多い。

東日本大震災で家族や身内を失った会社の同僚や知人からの知らせである。ただ、その知らせは内陸部に住む方々からのものだ。沿岸部の知人たちからは来ていない。喪中の知らせがないことは、無事だったということか、知らせをよこす余裕もないということか、あるいは住所録を津波で失ったということか。

年末・年始の時季を迎えたが、どうも胸に引っかかるものがある。あの大震災で、沿岸部の同僚一人が津波に尊い命を奪われた。また、自らは無事だったが、両親を亡くし、兄弟・息子・孫を亡くした方が職場にはたくさんいる。津波や地震で自宅や実家を失ったり、大きな被害を受けた職員は数知れない。

これまで身近な周囲に惨禍が及ぶと、「メリークリスマス」とか「明けましておめでとう」とは素直にいえない。そんな言葉を使っていいのかとも思ってしまう。仙台の夜は復興需要でおおいに盛り上がっており、別に自粛ムードということではないが、周囲の同僚もそのように感じているようだ。

先週末に、海外メディアが制作した東日本大震災の特集番組をいくつか見た。日本メディアに比べて被災者の感情露出を抑えてはいたが、最後には見るのも辛くなった。書店に行けば、店頭に新聞各社やテレビ局が発刊した東日本大震災の報道写真集やDVDが山積みにされている。ページをめくると、震災直後の現場での生々しい記憶や感情がよみがえり、自然に涙が出る。馴染みの新聞記者が「被災地を1週間取材すると、本当にまいってしまう」と言っていたがその心境は本当に良く分かる。

私は、職場で「復興支援に全力で頑張ろう」と先頭に立って檄を飛ばし、マスコミの取材を受けて、当然のように津波現場にも行く。でも、心の奥深くでは出来れば足を運びたくないという感情も根強いのが本音だ。

震災はまだまだ生々しい。被災地の表面は穏やかになりつつあるように見えるが、内面では無数の深い傷が未だに癒えずいる。この傷が治癒し、震災を客観的に受け入れるには相当の年月がかかる。

でも、このような惨禍の中でさえ、嬉しいことはたくさんある。わが緑丘会宮城支部の八木下三輪子さん(平成20年卒)が、出身地の気仙沼で頑張っているという知らせが最近入ったのである。

八木下さんは今春、仙台の大学院を修了し、故郷・気仙沼の信用金庫に入庫しスタートを切ろうとしていた矢先に震災にあった。震災後に、八木下さんが家族も自宅も無事であることを確認でき、5月末には電話で本人の声を聞くことができていたが、信用金庫は大きな被害を受け、八木下さんを含む新入社員は自宅待機を余儀なくされていた。

しかし、10月1日をもって5名の新規採用者の自宅待機がようやく解け、内3名が他の信用金庫に出向になり、男1名と八木下さんがそのまま地元の信用金庫に勤務。八木下さんのみが本店総務部に配属になったという。 この知らせに宮城支部事務局は沸いた。将来の初の女性信金理事長誕生への第一歩であると!!しかも、この情報を気仙沼で直接入手されたのは、大手生保会社に勤める当宮城支部の岩朝先輩(昭和46年)である。

岩朝先輩は、先ごろ気仙沼の信用金庫を仕事で訪れたさいに、小樽商大の後輩・八木下さんの消息を真っ先に尋ねられたという。「八木下は私の後輩だが、大丈夫か!」と。この岩朝先輩の行動こそが、緑丘会宮城支部が誇る年代を超えた強い結束力である。