第05回 高校生に小樽商大を熱く語った

宮城の英語教師

平成元年卒 尾形 毅

松井英語で鍛えられ小樽へ

私が小樽商科大学の存在を初めて知ったのは、宮城県古川市(現大崎市)にある宮城県古川高等学校(当時は男子校)に入学した1年生の春、英語教師の一言であった。

英語教師は、松井弘樹さんといい、群馬県沼田高校から東北大学文学部へ進み、長らく古川高校で英語を教えておられた。松井先生の授業は「松井英語」と代々の生徒に呼ばれ、その授業の厳しさと怖さは他に類を見ないものであった。

松井英語では、授業の予習準備をしていかないことは地獄を意味する。怠けたことが発覚した生徒には、先生からものすごい罵声が1時間にわたってお見舞いされる。

これが半端ではない。先生のぎろっとした大きな目で睨まれ、身動きがとれなくなった生徒は、次々に発せられる先生の厳しい言葉によって、跡形もなく打ちのめされる。生徒に対してまったく容赦がなかった。

私も松井先生の薫陶を受ける多くの生徒の一人になった。予習をサボった日に限って指されるのである。当然、調べていない単語のところでつまずく。こうなると観念しなければならない。松井先生からの厳しいお説教が火を吹く。

「尾形あぁ、お前なにやってんだあぁ~ (略) お前には授業を受ける資格なんかない!!そのまま立ってろー。馬鹿やろ!!」私は、余りにもの悔しさと情けなさに、席に立ちながら授業中に大粒の涙を流した。

後年、同じ松井英語の薫陶を受けた後輩は、「せいぜい学校での恐怖感といっても授業の1時間程度だが、松井英語は毎日授業があるので1年単位で恐怖感が連続した」と語っている。

のんびりした田舎の中学校から進んできた新入生たちには、大きな試練であった。よって松井英語の3クラスの生徒は猛烈に勉強する。授業の直前の休み時間は、クラス40人の誰もが机に向かい、会話一つなく、静粛の異様な雰囲気の中で必死に英文と格闘していた。

私が小樽商大へ進んで英語や語学を学ぶために必要となる根本的な基礎力や学習態度を培ったのは、この厳しい松井英語のおかげである。それは実感した。私だけではない。高校3年生ごろになると、不思議と多くの生徒が松井先生の授業に感謝した。

新入生に小樽商大を語る英語教師

松井先生は、専門の英語の分野だけではなく、人生の急所を知っている方であった。

1年生の春、この恐怖の松井英語はいきなりは幕を開けない。入学してから最初の1週間、松井先生は高校生活や人生を生きていくうえで大切なことを毎日、合計6時間もかけて授業で話をされた。

それは「人の話をよく聞いていないと自分の命を失うこともあること」「運動部に入り体を鍛え、インターハイを目指し部活動を続けること」「毎日しっかり勉強をして将来に備えること」の3点であったと思う。

その中で運動部と勉強を両立させた先輩の例として先生が語ったのは、ラグビー部から小樽商大へ進学した先輩の話であった。このとき、私は生まれて初めて小樽商大という言葉を聞いた。

「彼は、毎日、家から学校まで片道10キロを自転車で通い、放課後はラグビー部で一生懸命頑張った。フラフラになった体で家に帰り、余りに疲れて夕食の味噌汁に顔を突っ込みながらも、必死に勉強を続けて、見事に小樽商科大学へ入学した。たいした根性と努力だと思う。」

古川高校の大半の生徒は、仙台や首都圏の大学に進学する。小樽商大へは2、3年に一人が進む程度であったが、東北大学を出たこの英語教師は、この話をきっかけに小樽商大の魅力と将来の生き方を新入生の私たちの前で、言い聞かせるように語りはじめた。

「みなさんは知らないだろうが、小樽商科大学は、北海道の小さな国立大学だが、実にいい大学だ。大企業への就職率もよくて、私の母校の東北大学や北大へ進学するよりもいいと思う。でもね、大企業で働くということはそれは大変なことだ。君達には想像がつかないだろうが、 朝早くから夜中まで働き、体力的にも本当に厳しい世界だ。しかし、そうしたところに行って頑張ってこそ、人生や世の中を高いところから広く見渡すこともできるんだ。高校生の君達は、まだ人生の地表近くにしかいない。ぜひ、その高台を目指して階段を登っていってほしい。そのためには運動部で体を鍛え、しっかり勉強することが必要だ。お姉ちゃんのお尻を追っかけて『あんちゃん小僧ごっこ』(松井造語:フラフラ遊び歩くこと)に時間を潰している暇はないんだよ。東北大学もいいが、小樽商大へ進んだら、それはたいしたものだよ。みんな小樽商大を覚えておきなさい。」

ごく最近になって後輩から聞いた話によると、松井先生は大学のときに体を壊して、長い間厳しい療養生活を余儀なくされたという。病床ではニーチェを好んで読まれていたという。

そうしたご自身の経験と哲学があって、授業では生徒に全力で厳しく接しながらも、人生を切り開く道筋も示されていたのだと今になって思う。この小樽商大の話が終わって、古川高校では冒頭の厳しい松井英語がいよいよ開幕するのである。

かつての松井さんの話が私を小樽へ向かわせた

松井先生の小樽商大の話は高校1年生の私に強烈に印象に残ったが、入学当時の私は教員志望であったため、当初は小樽商大を目指す気持ちや関心は全くなかった。

だが私は、古川高校でスキー部に所属したことなどが影響し、学年が進むにつれ、進路先として教員養成系に限らずに北の大学、できれば北海道に行きたいという気持が次第に強くなっていった。

そうしたことも重なり、私は、後々に自分の進路を決めるさい、松井先生の小樽商大の話をふと思い出し、結果として小樽へ進むことになったのである。

はずかしながら商学や簿記とは何を学ぶのか、そして小樽商大の特色などはほとんどわかっていなかった。ただ、北の大学へ行きたい、それなら松井さんが薦める小樽商大なら間違いないだろうという程度の考えだけだった。しかし、それが私にとっては人生の正解となった。

同じ古川高校からは、私のほかに同級生一人(阿部くん)が小樽商大へ進んだが、彼もまたクラスは違ったが松井英語を学んだ仲間であり、数年前に再会したときも「高校1年の春に聞いた松井先生の小樽商大の話は鮮明に覚えている」と語っていた。

ちなみに味噌汁に顔を突っ込んで勉強して小樽商大へ進んだラグビー部の先輩は、実は阿部くんのお兄さんであり、同じく古川高校で松井英語を学んだそうである。阿部くんによれば、お兄さんは確かにラグビー部だったが、味噌汁の部分の話は、間違いなく松井さんの創作だと言っていた。

今から30年も前に、宮城県古川市という小樽から遠く離れた町の高校で、なぜ、英語教師の松井先生が、自分の母校である東北大学以上にあれほど熱心に小樽商大を語られたのかは、今となってはわからない。多分英語教師として、北の外国語学校と称された小樽商大の英語教育とその評判は、十分にご理解はされていただろう。

何れにしても、松井先生が古川高校にいたからこそ、結果として阿部くんご兄弟と私の3人が、あの時期に道外の宮城県から小樽商大で学ぶことになったことは事実である。

小樽商大の名声を知っていた田舎の魚屋の爺さん

余談ではあるが、私が小樽へ進み、夏に奥羽山脈の懐にある私の片田舎に帰省したさい、その小さなさびれた商店街で、小学校の年配の女性恩師と偶然に再会したことがある。

私が小樽商大へ進んだことを話すと、先生は「えぇ-小樽商大に入ったの!たいしたもんだねぇ」と驚きとともに満面の笑みを浮かべてくれ、「小樽商大ねぇ、たいしたもんだ、たいしたもんだ」とつぶやきながら家路を歩いていかれたことがあった。

また、その商店街にある魚屋の爺さんに会ったとき、「おぉ尾形くん、小樽高商に入ったんだってね。小樽高商はね、長崎高商と横浜高商と並んで三大高商と呼ばれてね・・・・」と小樽高商が どのような学校なのかを私に熱く語り始めた。

小さいころからよく知っている小学校の先生や魚屋の爺さんが、なぜ、小樽高商をそんなに詳しく知っていたのかは理由がわからないが、非常に驚いたことは確かである。

「おれは東北大学出身だが、実は小樽商大が憧れだった」という中学校の恩師もいて、私が小樽で学ぶことをあたかも自分の夢を実現したかのように喜んでくれた。

私の実家は、小樽から遠く離れた、宮城県の奥羽山脈の懐にある人口7千人の過疎の町である。しかし、この田舎町の教師や魚屋の爺さん達は、確かに小樽商大・小樽高商を相当詳しく知って おり、その名声を理解していた。知らなかったのは私の方であった。

かつて小樽商大には全国の学生が集い、半数が道外出身者であったというが、それを支えた一因は、全国各地にいた松井先生や小学校教師、魚屋の爺さんのような小樽商大を高く評価する教育界や実務界の方々の存在であり、それが生徒や子弟の進路に大きな影響を与えていたのかもしれない。

今、私の母校・古川高校や宮城県内の高校で、松井先生のように生徒に対して、人生の生き方と 合わせて小樽商大を語ってくれる先生はいるのであろうか。

仙台の私の職場には、毎年たくさんの中学・高校の生徒さんが職場見学に訪問してくれている。その際、私は必ず松井先生の思い出を語り、短い時間だが、母校・小樽商大の魅力を伝えている。

私は最初の目標であった教師にはならなかったが、ここ仙台の地で、緑丘で学んだ誇りを人に語ることで、一人でも小樽商大を目指す生徒さんがこの宮城から誕生すれば、少しは松井先生へ恩返しができるのではないかと思っている。

後日談 縁は続くもの

私が小樽商大へ進むきっかけを作ってくれた古川高校・松井先生は、その後転任され、長らく教壇に立った古川高校を離れられた。ある生徒からは「向こうの高校ではあまり怒らないほうがいいですよ」と言われ、先生は大笑いしながら「君の忠告は聞いとくよ」と語ったそうだ。

そして、松井さん後任の英語教師となったのは、なんと小樽商大の私の恩師である久野光朗先生のご次女・千枝さんであった!卒業後の久野ゼミの会合で、久野先生とお会いしたさいに「娘が君の母校・古川高校の英語教師になったんだよ。いい高校らしいねえ」とお話をいただいたときは本当に驚いてしまった。

千枝さんは、小樽潮陵高校から上智大学へ進学され、卒業後、宮城県の高校教員になられたが、最初の赴任先が私の母校・古川高校だった。ちなみに千枝さんは、古川高校がはじまって以来の初の女性教師でもあったそうだ。

松井先生から始まった私と小樽商大と古川高校を結ぶ一筋の縁が、千枝さんの登場によって、さらに途切れることなく、私の中で続いている不思議さを改めて感じずにはいられなかった。