第16回 南三陸町、気仙沼を訪れて

富山在住 八尾 稔啓(昭和56年卒)

今回、宮城支部が企画した「気仙沼支局を訪ねる会」(平成24年3月24日~25日)に、富山在住の八尾稔啓さん(昭和56年卒)が参加いただき、東日本大震災の被災地を訪問しての感想をお寄せいただきましたのでご紹介します。

3月20日に札幌入りした。その後22日に小樽で仕事をして、23日に東京経由で深夜バスに乗りで富山に戻る予定だった。

ちょうど切符手配をしていたら、宮城支部のOB会から表記の場所への支援ツアーの案内が来た。以前から、機会があれば是非現地を見てみたいと考えていたため、すぐに参加を申し込んだ。

東京から4名、地元5名、富山の私。気仙沼で頑張っている仲間2名が現地で合流。仙台から、まず3台の車に分かれて、海岸沿いの道を約3時間かけて現地へと向かった。市街地から抜け、海岸に近付くと車窓が一変した。海岸が入り組んでいるうえに、結構高低差のある道が延々と続く。少し、低い所へは、津波が暴れた跡がはっきりと見て取れる。わずか何メートルの差で、片方は全く無傷で残っている民家も数多くあった。

特にひどかったのは、海岸を縫うように走る鉄道だ。陸橋から線路まで、全く見る影もないありさまだった。この路線の復興には、相当の時間がかかるかのはまず間違いはない。同じ場所に線路を引けるかどうかも怪しいぐらいの様だった。まさに、息をのむ光景だった。

と思っていたら、南三陸町に入って、鳥肌がたつほどの衝撃的な光景が。おりしも震災から一年後、お彼岸、土日も重なり、かなり大勢の方々が、線香を手向けておられた。

TVの画像とは全く違う迫力と恐怖の風景が全体に広がる。

当日は暴風警報も出ており、強風と寒さの中で線香の煙が余計に悲しさを倍増させる。マスコミでは、復興、復興と言ってはいるが、つい先ほど津波が来たような様が延々と続いていた。あの有名になった防災庁舎では、思わず皆様合掌され、涙を浮かべる人が大半である。

気仙沼に近付くと、さらに驚く光景が。これもよく画面に映る大型漁船が道路のそばに鎮座している。漁港の地盤沈下もすごく、うっかり港沿いを歩いていたら海に落ちそうな光景だ。

高台にあるホテルにはTV局が常駐し、地元の復興に携わる方々でごった返していた。朝や夜には、本当に美しい風景が余計に悲惨さと悲しみを増幅させる。

壊滅状況のあちこちに、仮小屋で営業している店舗も目立つ。かつて、自宅が建っていた場所であろう。そのすぐそばでは、親子連れが自宅であったであろう場所にたたずみ手を合わされていた。あの状況をみると、本当に一年もたっているとは到底思えない。まだまだスピードアップが必要に感じた。

カウンセラーのはしくれとして、個人的には大したことはできないが、やはり目をそむけてはいけない現実を改めて肌身で感じた。

とにかく、現地で心に受け止めたことを意識しながら前を向いて生きていきたい。合掌。

宮城県南三陸町志津川地区

宮城県気仙沼市鹿折地区