第17回 久野ゼミ伝説の地獄坂ジンギスカン

平成元年卒 尾形 毅

仙台・宮城のジンギスカンご事情

道内各地のスーパーで当たり前のように売られている「ジンギスカン」も、ここ仙台・宮城でそれを見かけるのはごくごく稀である。

数年前に全国的にジンギスカンブームが到来し、仙台でも勢いに乗って数カ店が開店したが、やはり仙台市民には定着しないのか、あえなく閉店の憂き目にあっている。私も同僚と会社近くに開店したジンギスカン店に行ってみたが、味も悪くなく値段も良心的で、私としては十分に及第点なのだが、焼肉好きの同僚でさえ、また行こうという雰囲気ではなかった。はやり羊特有の匂いがダメだという。

緑丘会宮城支部会員が足しげく通うホームグランドのサッポロビール園仙台工場にしても、ほかの仙台市民にとっては「数年に1回、わざわざジンギスカンを食べいく」といった程度であり、地域の食生活にジンギスカンが浸透しているとはいえない。

しかし、そんな宮城県でも、私の実家である県北・加美町では広くジンギスカンを食べる習慣が定着している。

この習慣が定着したのは昭和40年代中頃である。当時、加美町薬莱山周辺は、農林水産省の酪農開拓事業が大規模に進み、それまで原野であった奥羽山脈の高台は、一面が広大な牧場に様変わりし、乳牛や綿羊が飼育されはじめた。だが、梅雨が長く・夏寒い気候条件のせいか、肝心の採草事業がうまくいかず、設立した酪農組合の資金繰りは事業開始早々から逼迫しはじめた。

追い詰められた酪農組合は一計を案じた。見てみよ、この牧場の風景。羊がいるではないか、まるで北海道ではないか、じゃあ、北海道を真似てジンギスカンを食べさせて商売をしよう。酪農組合は、古川女子高校の旧木造校舎を譲りうけ、それを大崎平野を見下ろす見晴らしの良い高原の牧草地のど真ん中に立てて、ジンギスカンとビールをセットで売り出した。

酪農組合の思惑は的中した。それまで観光施設と呼べるものがなく、もの珍しさもあったのだろうが、地元住民は北海道を思わせる牧場でジンギスカンを食べるという身近で新しい楽しみに夢中になった。家族連れで、遠来の客を連れて、町工場の接待で、休日は待ち時間ができるほどの客が、ジンギスカンを目当てに薬莱山麓へかけつけた。

春から秋までは牧歌的なのどかさを売り物とし、また、冬になると酪農組合は牧草地をスキー場へかえ、スキー客のお昼にジンギスカンを提供した。酪農組合はこのジンギスカンのおかげで見事に息を吹き返し、本業の酪農事業で生まれる赤字を長年にわたって補填し続けた。

その後、高原周辺には、二匹目のドジョウを狙う町営・民営の数件のジンギスカン屋が開店し、小さな田舎町で客の奪い合いまで起きた。平成に入り、先鞭をつけた酪農組合のお店は残念ながら解散したが、今でも町営のレストハウスが営業を続けている。

また、町中の肉屋も、豚・鶏に加えて、マトン・ラムを扱うようになり、電気ホットプレートの普及もあり、この地区の住民の食生活にジンギスカンが深く浸透していった。だから、私は宮城県民にしては珍しく、幼少から焼肉といえばジンギスカンで育った。同じようにジンギスカンを食べる習慣は、岩手県遠野市でも古くから盛んだといい、やはり綿羊を飼育していたことが契機だという。

雨の中、地獄坂の車庫での久野ゼミ・ジンギスカン大会決行

さて、私は商大に進み、ジンギスカンの本場で、花見、海水浴、コンパなど、何かあるたびにマトン・ラムを食べ、サッポロビール(サッポロ・ジャイアント)を味わった。やはりジンギスカン特有の匂いが駄目だという道外勢もいたが、幼少のことから食べなれていた私にとっては、この食習慣はまったく問題なかった。

当時、小樽の精肉店ではジンギスカンセット(肉、七輪、木炭、ベルのたれ)を軽トラックで小樽公園などの指定場所まで運んでくれて、終わったら回収してくれるという画期的なサービスもあった。さすが本場の北海道である。北海道をパクったわが故郷とは力の入れようがまったく違うものだと感心した。

今も私の手元には、小樽でのジンギスカン宴のたくさん写真が残っている。場所は小樽公園朝里川温泉、蘭島海水浴場、花園のお店であったり、サッポロビール片手にジンギスカン鍋を囲んでいる楽しかった二十歳前後の姿がたくさんある。そんな中で1枚だけ、まったく不思議で異質な写真がある。真っ暗な倉庫のような建物の中で ジンギスカンを食べている写真である。ここは一体どこか・・・・・・。実は商大テニスコートの入口、地獄坂の途中にある商大所有の車庫(国有財産)の中である。なぜ、こんなところでジンギスカンを食べているのか・・・・

顛末はこうである。大学4年生の5月、恒例の久野ゼミのジンギスカン大会を小樽公園でやろうとなった。場所とりの先発隊が地獄坂を下り、精肉屋から注文したジンギスカンセットを予定どおり受けとり、サッポロビールを仕入れて準備は万端。あとは後発部隊が久野先生をお連れするのを待っていた。

ところが朝から怪しかった空模様が昼過ぎから一気に崩れて、ついに大雨となってしまった。先発隊はあわててジンギスカン一式を撤収し、タクシーで地獄坂を登り、商大に戻ってくる羽目となった。商大に戻ってはきたものの、雨は止みそうにもなく、久野ゼミ生は管理棟の軒先で、七輪を前に途方に暮れた。他のゼミやサークルは早々に中止を決定していた。

しかしながら当ゼミ生には「どうにかして、ジンギスカンをやりたい」という表情がありありであり、それを察せられた久野先生は学生部長という肩書きをフルに生かされ、施設係と交渉し、地獄坂の車庫を使うことを了承を得てくださった。「あそこでやるんですかあ」ゼミ生は驚きつつも、早速七輪と肉をもって地獄坂を下った。

テニスコート入口の車庫は毎日見ているが、入るのは初めてであり、天井の裸電球をともすと、車2台分のスペースがあり、ゼミ生14名が十分に入れるスペースであった。すぐさま七輪で火を起こし、鉄鍋を敷き、あきらめかけていたジンギスカンをはじめた。雨天のなか、全く想定外の「車庫」でのジンギスカン大会に、ゼミ生は異様に盛り上がった。結局、雨の中、ジンギスカンを決行したのは私達だけであり、地獄坂を下り家路に急ぐ商大生が、車庫で盛り上がっているわれわれを不思議そうに見ていた。

宴は途中からゼミ生の歌の披露となった。久野先生が「みんなの出身高校の校歌を歌いなさい!」と言い出されたのである。当時、久野ゼミの道外勢は、栃木・宇都宮高校、新潟・新潟高校、山形・米沢興譲館高校、そして私の宮城・古川高校の4人であり、道内勢を含めて、それぞれが母校の校歌を車庫の中で高らかに歌い、歌声が地獄坂に響き渡った。私は古川高校の応援団凱歌「われらの夢は古高の庭に芽生えて育ち行く♪」と歌った。久野先生も、母校・一橋大学の寮歌を歌われた。先生の歌を初めて聞いた。

桜が散る雨の地獄坂の車庫で、ゼミ生がジンギスカンを囲み、みんなで食べて飲んで歌った。最後は焼くものがなくなって、酔った勢いで誰かが「あれは食べれるぞ」と地獄坂の道端に生えていた草を摘んできて七輪で焼いて食べた。その後2次会は、坂を下りて花園町へ繰り出したが、商大・車庫での「地獄坂ジンギスカン」の思い出は、雨とその場所の意外さ、宴の歌の盛り上がりも加わり、20年以上を経た今でも鮮明な楽しい記憶として残っている。

今日、8月27日、宮城支部のジンギスカン友の会「夏の集い」がサッポロビール園で開催される。地獄坂ジンギスカンの思い出も振り返りながら、存分に楽しんでこようと思う。