ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第10講

投稿日: 2014/09/05 5:15:26

精神現象学⑩ 「D 精神」③

自己疎外的精神は、現実の世界から純粋意識(宗教)の世界へ向かう。宗教としての純粋意識は、権力と癒着したカトリック教会を絶対視する「信仰」と、神を自分自身のうちに見る「純粋透見」の意識とに分かれる。信仰する意識は、三位一体の神はカトリック教会として現実のものとなっており、教団への奉仕によって神と一体化しうるとする。これに対し、純粋透見の意識は、自己の内なる神のみが真理であるとして、カトリック教会を批判し、すべての人々に「理性的であれ」と呼びかける啓蒙思想である。

こうして、「啓蒙と迷信の戦」としての宗教改革が始まる。啓蒙は、信仰のもつ矛盾をとらえて信仰を追放する。すなわち、信仰は、一方で神を彼岸のものとしながら、他方で教会への服従と奉仕によって神と一体化しうるといったり、彼岸にあるはずの神を石や木の偶像とみなしたり、あるいは神は実在するというが、その証拠はない、などと批判する。しかし、信仰から言わせれば、神は彼岸と此岸とにまたがって存在していると考えるのであるから、こうした矛盾も当然のことに過ぎない。結局啓蒙とは、「理性的であれ」とはいうものの、信仰のいう無限な神を認めないところから、信仰とは現世的御利益をもたらす「最も有益なもの」という愚論に落ち着くことになる。

コラムでは、まず史的唯物論は啓蒙思想を、台頭するブルジョワジーの封建制に対する戦いの思想であること、それは近代の唯物論として誕生し、社会主義思想から科学的社会主義に発展していったこと、啓蒙思想は近代哲学の土台となる合理主義と同時に、理性にもとづく世界創造論という観念論にもつながっていったこと、という3点を指摘。また史的唯物論は、ヘーゲルは宗教改革によりカトリック教会は追放されたというが、宗教改革の本質はブルジョワジーの封建制へのたたかいというところにあり、したがって封建制打倒後はプロテスタントもカトリックもブルジョワ的宗教の枠内にとどまって共存していることを明らかにした。