NO.261 反骨爺のつぶやき 高村よしあつ

投稿日: 2018/03/27 9:07:01

1970年代の初頭は、東京・神奈川・京都・大阪などでの革新自治体の誕生を機に、日本共産党の民主連合政府綱領の提案で、自共対決の激しいたたかいが展開された時期である。それは同時に司法反動が本格的に始まった時期でもあった。

69年1月、佐藤首相は「生理的アカぎらい」の石田和外を最高裁長官に任命する。石田は「日本会議」の前身、「日本を守る国民会議」の議長をした人物である。石田は、青年法律家協会に属する裁判官への攻撃を始め、71年、宮本裁判官の再任拒否事件を引き起こした。宮本裁判官は全国の青法協裁判官会員のまとめ役であったから、以後青法協修習生会員は、再任拒否をおそれて、裁判官を目指さなくなっていった。

宮本氏は、その後の裁判所の脱退工作で、翌年までに裁判官会員は350人から200人となったと伝え、以後次第に減少して、青法協裁判官部会の活動も84年に解散したと語っている(ひめしゃら法律事務所出版「あのとき裁判所は?」)。残った会員裁判官への嫌がらせは続き、昇給制限、支部のたらい回し等が続いている。「しぶしぶと、支部から支部へと回されて、四分の虫にも五分の魂」との狂歌が残されている。この事件を機に、全逓中郵事件、都教組事件、公安条例など、次々に違憲判決が逆転され、わが国の司法は暗黒時代に入ったと言われている。

青年法律家協会とは、「憲法を擁護し、平和と民主主義を守る」法律家団体であり、憲法擁護尊重義務(憲法99条)を負う裁判官が入会するのも当然の団体であった。最高裁は、一方で自ら憲法を踏みにじって脱会工作をしながら、他方で宮本氏が青法協会員であることを理由に再任拒否したことを公然とは認めず、理由曖昧のままにしている。これでは裁判を受ける国民の側は、たまったものではない。憲法を擁護・尊重しない裁判所を放置してはならない。アベ暴走政治を許さない今回の総選挙は、個人の尊厳と民主主義を守るたたかいでもある。