「一粒の麦」NO.243号 会長エッセイ「音痴の話」 重村幸司

 音痴とは字のごとしで、音程やリズムがはずれて巧く歌えないことをいうが、方向音痴や機械音痴などともいう。他のことでも感覚の鈍いことをいうようである。
 私はこの三つとも音痴なのである。歌は歌わなければ知られることはないが、方向音痴は隠すことはできず随所に表れてしまう。そのため結構知られてしまっている。致命的な人格欠損ではないし、おかしみがあるのか、みんなが平気で他人に言いふらすから、初めてあった人さえ知っていることがある。誰に聞いたか?とも聞けないし、静かに笑っているしかない。
 娘も方向音痴である。遺伝に違いなく、すまなく思うが意図したことではないし「許せ」というべき性質のものでもない。二人が、中途半端にしか知らないところを運転すると奇妙な雰囲気になる。お互いが東西南北の感覚が鈍く、真反対の方向を進んでしまうから迷路でさまようような案配になる。お互いが(やはり方向音痴だなあ)と思うが、それを口に出さないから、奇妙な雰囲気になるのである。相手へのいたわりの気分もあり、そのうちおかしさに変わって笑いあったりする。娘は方向音痴のくせに車の運転が好きだから事故が心配である。

    一枚上手の先輩
 先輩にひどい方向音痴の人がいる。私と張り合うところがある。自分の方がまだましだという具合にである。ところがある時、決定的な場面に出くわして立場が明確になった。長崎に行った帰りに広島駅で降りた時、ホームを反対側に歩きはじめたのである。鉄道マンで、車両の整備などが仕事だったから、ホームの反対側から降りる出口を知っているのかと思ったがそうでなく、ただ左右を間違ったのである。方向音痴の特徴でもある。
 しまったと思ったようだが、時は遅しである。私は、いたわりの気持ちで知らぬ顔をするつもりだったが、おかしくて笑ってしまった。
 それから先輩は、会うたびに方向音痴の失敗談を誇るがごとく語るようになった。「この前のう・・」と始まれば必ず方向音痴ぶりの話である。罪のない話であるから、屈託なくつきあう。話し終わって帰る時に満面の笑顔になるのだが、弱点が誇りになるのは幸せなことに違いない。こちらも次はどんな話がきけるか楽しみである。落語の名人芸を楽しむようなものである。

 許されない政治音痴 
 許されない音痴がある。政治音痴である。それが国のトップとなると、笑ってはいられない。経済関係は成熟している隣国と話しあうことすらできない状況をつくるのはどういうことであろうか。憲法が何たるかを知らないのもひどい話である。
 多くの人が、その政治音痴ぶりに気づいた。早々に舞台から退陣の幕を引かねばならない。

「一粒の麦」NO.248号 会長エッセイ「広島での来し方」 重村幸司

2016/10/25 1:34 に 山根岩男 が投稿

 広島で働き活動して29年になる。1987年・36歳の時に国鉄の分割・民営化攻撃により、国鉄労働組合は大分裂させられた。その年の10月、再建された国労広島地方本部の大会で副委員長に就任し、翌年8月の大会では書記長に推挙された。末端組織である分会の副分会長から、地方本部の三役とは仰天の人事であった。
 87年4月にJRが発足し大混乱の中での船出だった。情勢が情勢だけに、結果として仲間の人生を背負う立場になった。

 国労組合員の多くは、売店や喫茶店、果てはスッポンの養殖場やたこ焼き屋などに不当配転されていた。私も一時、広島駅の陸橋に設置されたケーキ屋に配転されたことがある。ケーキを入れた箱を、不器用極まる手で結んだ後、ヒモの結び目がくるう~っと半周するのには往生した。結び方が間違っているのだ。あのシーンをお客はどう見ていたのだろうか?こうして思い出すと、いまでも汗が出る。
 不当配転された組合員は、培った技術や仕事を奪われ慣れない職場で怒りや屈辱にまみれていたであろう。その組合員たちを元職場に復帰させる闘いが大きな仕事になった。
 また、JRへの採用を希望しながら不採用になった8000人近い仲間たちのJR採用・職場復帰も大きな課題であった。不当配転に関する労働委員会闘争はあいついで救済命令を勝ち取っていったが、全面解決には時間がかかった。1047名の不採用事件にいたっては24年の歳月を要したのである。組合員は一人あたり、カンパと物資販売などで60万円前後の支援をしただけに、解決の時はことのほか喜びあった。 

 組織問題ではいち早く弁証法的に対応した。「国労から離れた人を恨まない、国労攻撃は全労働者への攻撃だ。職場の全ての仲間を対象にした要求運動を展開しよう」が合い言葉になった。弁証法の「固定した境界線や『不動の対立』にとらわれない。対立物の相互浸透を視野に入れる」を当てはめたのである。労働者の多くは、労働者性と反労働者性の間で揺らいでいた。そして、300人を超える仲間が国労へ復帰・加入してくれた。一方では、民営化による解雇攻撃の恐怖を乗り越えた者でも国労から抜ける者もいた。資本の側からの力も働き、労働者は揺らいでいることを実感する日々であった。

 その後、地域の活動にも関わるようになった。働くもののいのちと健康を守る広島県センターの事務局を請け負った。荷は増えたが、多くの財産も得た。まず、楽に禁煙をした。また、山歩きの素晴らしさを知った。島巡りや桜ウオークも思い出の宝だ。そして、多くの魅力的な人々にも会え、労働安全衛生に関する知見を得ることができた。週刊のニュース発行には少々くたびれたが、パソコン技術の向上も財産のうちに違いない。
 4年前からは、畏れ多くも労働者学習協議会の会長である。高村元会長が、巻頭言をお書きになっていたので「会長エッセイ」を書くことにした。そもそもエッセイとは何かも知らぬままの書き殴りで、「一粒の麦」の権威を損ねたに違いない。29年の来し方に悔いも恥も多いが、喜びもまた多い日々であった。 

「一粒の麦」NO.247 会長エッセイ「お見送りの話」重村幸司

2016/08/22 1:09 に 山根岩男 が投稿

 自分が高齢者の仲間入りをしたのだから、先輩諸氏が次々と鬼籍に入るのは自然なことだ。訃報のたびに時の流れを思い知る。

  恩師の思い出
 原田譲次さんという国鉄労働組合の活動家に出会ったのは、岩国駅に転勤し操車場で働いている時だった。原田さんは生粋の日本人であるが、アメリカ生まれのアメリカ育ちだったとかで、名前の譲次はジョージであろう。アメリカでは、ジョージ・ハラダで通っていた事と思う。帰国して国鉄に入社し、米軍基地のある岩国の駅で通訳として働いていた。出会った頃は、通訳兼案内放送係だった。300人を擁する国労岩国分会の分会長でもあった。この原田さんに労働組合運動のイロハを教わった。いわば、師である。所属する政党が違っていたが、頓着なくかわいがってくれた。
 原田さんは、退職してからは退職者組合の組合員として総会などに参加していた。私も現役の役員として参加していたから、一年に一度の語り合いが楽しみだった。
 91歳になられた昨年も参加してくれた。昨年は私も退職者組合員として参加した。(さすがにお老けになったな)と少し寂しい思いがしていた。懇親会になって原田さんは私の所にきてくれて呑みながら語り合うことになった。最初は静かな話しぶりだったが、現役時代の話になるつれて話しぶりが変わってきた。がぜん生気が戻ってきたのだ。顔色だけでなく目の色も表情も変わった。不思議な現象だった。闘士の時代を語るうちに、年齢さえも現役時代に戻った。こんな不思議な事もあるんだとうれしくなった。
 7月の参議院選挙のさ中に訃報を聞いた。選挙のさ中という事情もあり、葬儀への参列はご遠慮させて頂いた。思い浮かべるのはエネルギッシュな原田さんの姿だけでいい。昨年の奇跡の現象、60代の生気溢れる原田さんの姿を心に刻むことにした。

  痛恨のお見送り 
 青年時代、民主商工会で働いていた心の通じる友人がいた。豊頬で笑顔の似合う快男児だった。明るく優しい性格で、誰からも好かれた。
 その彼が病に冒された。肝臓がやられた。見舞いに行った時はまだ豊頬の面差しを残し、「まもなく良くなるから、また一緒にがんばろうね」といった。病状の深刻さを知らなかったから、相づちをうって励ました。
 それから幾日経ったか記憶にないが、突然の訃報だった。あまり良くないという噂は聞いていたが、それほどとは思っていなかったから衝撃だった。
 見送る時、花を添えようとお棺の中の彼を見た。そこにいたのは「彼」ではなかった。豊頬の面影はなく病魔そのものが横たわっているかのようだった。病というもの残酷さを思い知らされた。彼の笑顔が消えそうで、痛恨のお見送りになった。

 元気な時の笑顔こそ思い出の宝だ。ある知人は病院への見舞いも厳しく拒絶した。優しい人だと思った。自分の元気な時の顔だけを覚えておいてもらいたかったのだろう。その方の優しい笑顔が浮かんでくる。だから今でも、生きていらっしゃる。

「一粒の麦」NO.246 会長エッセイ「ファン気質の話」 重村幸司

2016/07/23 1:44 に 山根岩男 が投稿

 ファン気質というのは可笑しくもあり悲しくもある。
 40年以上前になろうか。職場の先輩に強烈なカープファンがいた。カープも今ほどファンの胸をこがすようなチームではなかった。その年も、首位からはかなり差をつけられ、この日の試合で負ければ自力優勝がなくなるという時でも先輩は「まだしゃあないよ、これからよ」と祈るような目つきで気炎を吐いた。その試合に負けた明くる日、少ししょげた風はあるが「今日から連勝すればしゃあないよ」と高らかに言った。笑えるような雰囲気ではなく「そういねえ」と相づちをうった。
 その後もずっとカープ一筋であろう。今頃、満面の笑顔で鼻をふくらませ高笑いをしていることは疑いない。
                   
 単に「ファン気質」というのではなく、コーチ役をかってでるファンもいる。その人自身、70歳近くなってもソフトボールのピッチャーをやっている。ウインドミルという投法で投げるのだから相当の体力である。年齢を克服するには相応の鍛錬と勉強が必要らしい。その勉強ぶりが高じて、今ではプロ野球の選手に手紙でアドバイスを送るのである。
 ピッチャーには、ボールを握る時縫い目をよく見るようにアドバイスをしたという。縫い目が風ををうけるとかすかに変化を起こすからだという。プロの選手なら当然そんなことは知っているだろうと思うが、そのアドバイスを送ったピッチャーが、その後投げる前に縫い目を見るようになったといい、しかも好調だというから「そうか、えかったねえ」というしかない。 
 中村剛也という球界ナンバーワンのホームランバッターには、バットを握る時の指の扱いについてアドバイスを送ったという。そのアドバイスが効いたかどうか不明だが、怪我さえなければ毎年50本前後のホームランを打つだろう。
 会うたびに、このまえ○○に手紙を送ったというから驚きである。それを実践して成績があがればこれに越したことはない。そして、感謝の返事の一つでもくれば宝物になるであろう。
 自分自身は、昨年は一勝もできなかったと嘆いていたが、今年もまだ投げているようだから、これも怪物といえる。西武ファンの兄貴の話である。

 私のファン気質を笑う人は多い。なにしろ横浜ベイスターズのファンだからである。まず、なぜカープファンではないのか?というのと、あの弱いチームのファンでは応援のし甲斐がなかろうというものらしい。9歳のときからファンだが、56年間で優勝は一回きりである。たいがいBクラスで、見切りをつければよかろうに思うが、そうもいかないから不思議なものである。10連敗ののちに1勝すれば喜ぶのだから、ファン気質とは可笑しく悲しいものである。いつも、これから連勝すれば・・・。

無題

2016/06/30 1:40 に 山根岩男 が投稿   [ 2016/06/30 1:43 に更新しました ]

「一粒の麦」NO.245号 会長エッセイ 信念の人 重村幸司

2016/06/30 1:36 に 山根岩男 が投稿

 1974年10月30日。ザイール(現コンゴ共和国)の首都・キンシャサの夜。
   独裁者モブツ大統領が国威発揚と、国名を世界に宣伝するために企画したプロボクシング・ヘビー級世界戦が行われた。世界が注目し日本でも実況中継された。
 チャンピオン=ジョージ・フォアマン対挑戦者モハメド・アリの一戦だった。その日は有給休暇をとって、独身寮でひとりジリジリしながら試合開始を待った。
 ボクシングの試合観戦を楽しむためだけではない。ベトナム戦争のただ中、「ベトナム人を殺す理由はない」と兵役を拒否して5年の禁固刑を受け、ボクサーライセンスとチャンピオンベルトを奪われたモハメド・アリ。その美しい信念に感動していた。信念の人の、ボクサーとしての最期の姿を正座しながら敬意を払って見送るつもりだった。
 アリが勝てる可能性はゼロのように思えたからだ。

 ジョージフォアマンは、彗星のごとく現れた怪物だった。アリに初めて黒星をつけた「スモーキン・ジョー」ことジョー・フレイジャーを2ラウンドでノックアウトした。その戦慄のシーンは忘れられない。アッパーカットでチン(あご)をはねあげると100㎏を超えるジョーの身体が浮いた。スモーキン(機関車)と呼ばれた屈強な大男がひざをガクガクさせながら倒れた。なんという・・・。アリを散々苦しめたケン・ノートンも子どものようにあしらわれた。

 アリは現役時代、「蝶のように舞い蜂のように刺す」と自分のボクシングスタイルを吹聴した。実際そのように美しく闘い相手をマットに沈めた。ヘビー級ボクシングの変革だった。しかし、5年の禁固刑(3年7ヶ月で復帰)を受けて往年の動きは失われていた。兵役拒否のツケは補いようものない。フォアマンに2回でノックアウトされたフレイジャーに敗北した。フォアマンに対抗できるとは思えなかった。
 何ラウンドにどんなパンチでアリは砕けるのか?

 試合が始まると、予想通りフォアマンの怒濤の攻撃だった。フォアマンはボディーへ顔面へパンチを振るった。アリはロープに身体をあずけてガードを固めた。そして、わずかな緩みを逃さずワンツーを叩いた。叩いては亀になった。その繰り返しだった。
 打っても打っても決定的ダメージを与えられないフォアマンの心身は疲れた。そして8回、アリは残り10秒のとき渾身のワンツーパンチを打ち込んだ。蜂のように刺したのだ。フォアマンは現実が信じられないかのようにゆるやかにマットに沈んだ。そのままテンカウントを聞いた。なんという・・・。「キンシャサの奇跡」が起こった。

 アリは人生をかけてベトナム反戦を貫いた。人種差別に怒りをぶつけた。
 アメリカはベトナム戦争に敗北し撤退した。黒人のオバマ氏が大統領になった。アリの信念は形になって実を結んだ。アリの生き方に世界は称賛した。
 6月3日、アリは逝った。世界が泣いた。ありがとう信念の人。

「一粒の麦」NO.244号 会長エッセイ 「働くものの文化」の話 重村幸司

2016/06/01 0:27 に 山根岩男 が投稿

 職場における文化サークルはすっかり影を潜めてしまった。労働者らしい思想・文化運動が廃れた分だけ、エロ・グロ・ナンセンス文化が幅を利かせている。その結果、おぞましいほどの退廃文化が労働者の心身を侵食している。

 かって職場では無数の文化・スポーツサークルが活動していた。労働組合のナショナルセンター・総評は、あらゆる文化部門のコンクールを催していた。各労働組合から、玄人はだしの作品が応募されていた。その創作活動は労働者の思想や人格形成、そして運動に大きな影響を与えていた。
 所属していた国鉄労働組合も思想・文化運動に力を入れ、各サークルの自主性を尊重しながら奨励・援助をしていた。中央本部も地方本部も文化誌を発行して、文化活動を紹介し普及に努めていた。
 サークルは、職場男声合唱団・国鉄広島ナッパーズ、作家集団、写真家集団、漫画集団、演劇集団、コント集団、詩人会議らが組織され活動していた。歌人や俳人もいた。大衆性・階級性・芸術性を併せもち、働くものの悲喜こもごもを謳いあげ、生きる希望を語り労働の誇りを讃え闘う勇気を鼓舞した。
 また、職場新聞作りの講座を開き発行を促した。職場新聞が仲間の心をつないでいった。プロのアナウンサーを講師に招いて「話し方教室」も開いた。各人に備わっている能力の発掘や表現力の育成・向上をめざしたものだ。自分を知り、磨き、自己変革をし、その能力が社会進歩と結びつく時、真の生き甲斐のある人生を得ることになる。そこに労働者の思想・文化運動の深い意義と重要性がある。

 いうまでもなく現代社会は資本主義という階級社会である。搾取をめぐり厳しい対立関係にある。だからこそ、資本の側からの思想攻撃はマスメディアや社内報によって一秒たりともやむことはない。未来を担う青年が結婚すらできない状況に追い込まれながら、「自己責任」といわれ、出口のない闇の中をさまようことになる。
 マルクス曰く、「一方の側に冨が、搾取される側には、貧困・労働苦・奴隷状態・無知・粗暴・道徳的堕落が蓄積される」という。無惨にもまさに現実である。  
 労働者文化の再興が求められている。
 労働者文化とは何かと問われれば、その形の一つは男声合唱団・国鉄広島ナッパーズとこたえる。「一粒の麦」の読者の方は、一度は聴かれたことがあるのではないだろうか。高田龍治・山上茂典・くまがいゆうじなど自前の有能な作詞家や作曲家がおり、自前の創作曲も多い。美しく力強いハーモーニーで聴くものの心を揺さぶる。
 彼らの歌声によって、感動の涙をふく聴衆の姿を何度もみた。心に清々しい風が吹き渡り、労働者としのて誇りと連帯がよみがえる。      
 働くことで社会を発展させ、闘うことを通じて社会を進歩させる労働者の崇高さを描き出し確認しあいたいものである。

「一粒の麦」NO.242号 会長エッセイ「小旅行の話」 重村幸司

2016/04/03 1:54 に 山根岩男 が投稿

 ひょんな事から中国地方を小旅行する機会を得た。15年以上に亘る年間10回前後の小旅行の思い出は人生の宝物になっている。いつもほかほか感に充たされているのは、美しい風景が心の中に棲みついているからに違いない。
 「ひょんな事」というのは、仕事などの兼ね合いで三パターンの日帰りバスツアーを企画することになったからである。
 JRで働いていた時の「花紀行」、日本共産党広島県後援会の「広島県探訪ツアー」、働くものの命と健康を守る広島県センターの健康企画「山・島・桜を歩く」の3種類である。「花紀行」は年間10回前後、「広島県探訪ツアー」は年間2回、いの健センターの「ウオークツアー」年間2・3回。この3旅行が重なっている時期は、月平均1回以上の小旅行である。常連の方は「添乗員が同じ人だから、どのツアーに参加しているのか分からない」と笑った。

 一石二鳥の旅
 小旅行とはいえ、これだけの旅を自腹で行くとなると金と時間が馬鹿にならない。が、営業の一環だった「花紀行」はわずかとはいえ添乗手当をもらい、時間も勤務時間での旅だから誰からも後ろ指を指されることのない、いわゆる一石二鳥であった。。
 中国新聞文芸欄の俳句の撰者である木村里風子さんが、同人の吟行旅行として「花紀行」を利用してくださった。NHK広島の俳句協会の会長でもあった木村先生は温厚な方で、多くの生徒や俳人から慕われていた。そのため百人以上の会員が入れ替わり立ち替わりの参加だったので、バスはいつも満杯、人気の企画だとバス二台ということもあった。水仙から紅葉のころまで毎月中国地方各地の花を求めて出かけた。
 水仙・梅・桜・藤・花菖蒲・ユリ・シャクナゲ・ひまわり・野草・銀杏・楓など身近な所に素敵な花処があった。リピーターが多く、そのうち気心も知れて、添乗員といっても楽しい語らいの輪の中に入れてもらって一緒に花を楽しむことができた。幸せな時間だった。

 「広島県探訪ツアー」は、広島県の風土・名所・歴史を探訪した。地域で活躍する活動家との交流も楽しみの一つだった。高村よしあつ弁護士を会長に得てからは、広島県の人民の闘いの歴史を目的にして探訪した。江戸期に起こった日本での最初のストライキといわれる竹原の塩田労働者の闘い。完全勝利のうえ一人の犠牲者も出さなかった為、珍しい一揆といわれた福山藩神辺を舞台の「天明の一揆」。歴史に埋もれさせてはならないと、ツアー直前に地元の方によって顕彰碑が建立された世羅の「勘三一揆」。明治に入った直後の「武一騒動」。これらの広島県探訪ツアーも感動の旅であった。

 「いの健・ウオークツアー」は幾度も紹介させていただいた。心も身体も健康をねがう旅である。これらの小旅行は、与えられた機会を活かしての我田引水であったが、きっと許していただける旅だったと一人確信している。

「一粒の麦」NO.241号 会長エッセイ「前期高齢者のはなし」 重村幸司

2016/02/21 0:34 に 山根岩男 が投稿

  誕生日前に2通の封書が送られてきた。一通目は、介護保険料の金額と支払い方法の通知、そして保険制度のあらましだった。わずかな年金ながら、年間9万円もの保険料が記されていた。家の者が「もう旅行にも行けないね」とつぶやく。
  誕生当日に送られてきたのは、年金の支払い請求の申込み書だった。これまでの年金は「特別支給」だったのが、65才からの制度本来の適用になるからだという。
  社会制度の前期高齢者の仲間入りを通告された。 

  「老い」に抗して60才までは野球のピッチングが出来るようにと、幻の目標をもって体力作りにいそしんできた。幻というのは、チームに所属しているわけではないので、試合に参加できる環境にないからである。それでも早朝や、時間を見つけては坂道を走って下半身を鍛えた。駅の階段は必ず走って昇った。腹筋や腕立て伏せや股わりもやり、ピッチングができるよう強くしなやかな体を保つよう心がけた。
 2年前、かっての職場のチームでバッテリーを組んでいた先輩から「人が足りないので」と試合に誘われた。還暦過ぎても投げれるか試したい思いが募っていたので、万障を繰り合わせていそいそと出掛けた。
  ピッチャーは高校野球あがりの若手がいて、残念なことに内野での出場であった。試合前に先輩は、リリーフが必要な時の用心として「いちおう準備しておこうか」と受けてくれた。もともと球威や切れはなく、「走らない直球、曲がらないカーブ、落ちないナックル」で、バッターの打ち損じが頼みの投手だった。ただ制球はまずまずだった。狙ったところに行くという本当の制球ではないが、ストライクゾーンには入った。このウオームアップでも、ほとんどストライクだった。安堵した。(まだまだいけるじゃん)。
  先輩も「シニアの練習試合くらいなら投げられるなあ」とお墨付きを与えてくれた。もっとも「シニアの練習試合くらい」だから、薄いお墨付きではあったが。
  不思議に思うことがある。それは、プロ野球の歴々のOBが行なう「マスターリーグ」を観ると自分より若いはずの元選手が、走り方も投げ方もおぼつかないない。腹もせり出し、明らかにトレーニングはしてないようだ。若い頃の厳しいトレーニングに倦んで、今やいたわっているのだろうか。

  今でも幻の目標で運動をしている。目標は70才で投げられる身体だ。しかしこれまでのように坂道をダッシュすると足腰が悲鳴をあげるようになった。なるほど、競技者が引退するのは競技がうまくできなくなるからではなく、それを支えるトレーニングが出来なくなるからだと悟った。傷めないように身体と相談しながらすることにした。

  前期高齢者の仲間入りしたのだ、ますます健康第一である。自身いつも朗らかでありたいし、病気になって周りにめいわくを掛けることだけはしたくない。厳寒でも表に飛び出して運動を続けるには、幻であろうと目標が必要だ。選挙のない来年は、シニアのチームに入れて貰おう。現実の夢ならもっと確かな張りあいになるはずだ。  

「一粒の麦」NO.240号 会長エッセイ「判官びいきの話」 重村幸司

2016/02/10 3:44 に 山根岩男 が投稿

 「判官びいき」という言葉がよく使われる。九男だった源義経は「判官」の官職を得ていたので「九郎判官」と呼ばれていた。その九郎判官が、兄・頼朝との確執で自刃という悲劇的な最後を遂げた。その末路に同情し心を寄せることを「判官びいき」というのだという。弱者をいたわり応援する心情といえる。
 例えば大相撲で、体重が100㎏に充たない舞の海が、2倍以上の小錦や曙と取り組むと、館内はこぞって舞の海に声援を送る。自分の腹回りほどありそうな相手の足にしがみついて奮闘すれば館内は大騒ぎになり、勝てば狂喜乱舞の有様になる。弱小なものへの「判官びいき」である。

 レーニンだったか、はっきりとは覚えていないが「弱小な者たちの闘いに同情し心を寄せるのは、それは弱いからではない。信念を通し果敢に闘うから同情するのだ」という趣旨の言葉がある。この言葉に触れた時、なるほどと思った
 上関原発建設に反対する祝島の島民は、中国電力という巨大企業や行政の圧力に負けず、文字どおり人生をかけて30年間闘い続けている。だから多くの人々が共感し支援する。感動が広がり闘いはますます高揚することになる。
 「辺野古の海を汚すな。戦争の島にするな」と、連日座り込むおばあやおじい。長い闘いの中で、少しずつ闘いの意義が広がっていく。「判官びいき」がいつの間にか、国を脅かす巨大な力になっていく。
                      
 ベトナム戦争の頃、ベトコンという名前をよく聞いた。ニュースなどでも普通に使われていたように記憶する。ベトコンとは、アメリカ軍などが使っていたもので、南ベトナム解放のレジスタンス兵士への蔑称だと知ったのは、ベトナム反戦の運動を知ってからであった。巨大なアメリカ軍と戦うにはゲリラ戦しかなかった。最初はゲリラという言葉ともあいまってベトコンとは悪い人達というイメージで捉えていた。攻める側から見る風景なのである。
 アメリカのベトナム侵略で、ベトナム人は300万人死亡、400万人が負傷したといわれている。アメリカ軍はダイオキシンを含む枯れ葉剤まで撒いた。ベトコン(解放戦線兵士)が潜むジャングルを枯らす事と、農作物を枯渇させることが目的だったといわれる。民族皆殺し作戦といってもいい。攻められる側から見る惨劇の風景である。
 どれほどの悲劇が生まれたろう。いかほどの血と涙が流れたか?それでも負けずに闘い抜くなかで、世界で、そしてアメリカ本国でも反戦運動がうねりになっていった。世界中の多くの人達が、ベトナム人の「独立を」という崇高な闘いに同調した。最初は「判官びいき」のひとつであったろうか?いつしかそれを遙かに超えていた。

 今年のNHKの大河ドラマは真田幸村だ。「判官びいき」族はたまらないであろう。 劣勢を覚悟で死力を尽くし血路を開く姿。池波正太郎の「真田太平記」11巻を2回読んだ者としては、日曜日の夜は至福に時間になる。

「一粒の麦」NO.238号 会長エッセイ「似島を歩く」 重村幸司

2015/12/23 15:51 に 山根岩男 が投稿

11月30日似島を訪ねた。広島市宇品港からわずか4㎞の沖合にある周囲16㎞の小さな島である。宇品から富士山のような山容を持つ「安芸小富士」と呼ばれる山が見える。これが目印で似島の位置はすぐわかる。
 この小旅行は、「働くものの命と健康をまもる広島県センター」のイベントだ。今回は、「島を歩くシリーズ7」として、戦争遺跡巡りと山歩きを合体させたものであった。
 戦争遺跡巡りの案内は、広島県平和委員会の事務局次長の仁方越郁夫さんにお願いした。小学校の教諭で、似島好きが高じて似島小学校に5年勤めたという。長年平和運動に取り組み、戦争に関する似島の歴史にも詳しい。最強の案内人である
 島巡りの15人は宇品港を9時30分のフェリーに乗り、戦争遺跡の多い似島学園港に到着した。戦争遺跡巡りは似島学園から始まった。

 「軍都廣島」としての加害の島
 1894年(明治27年)に日清戦争が始まり、広島に大本営が置かれ「軍都廣島」になったという。宇品港からアジア大陸へ兵士や物資を送る兵站基地の役割を担った。
 戦役が終わった兵士が戦場から戻ってくる。この兵士たちによって、国内に伝染病が持ち込まれることを防ぐために似島に巨大な検疫所が設けられたのだという。1904年に日露戦争が始まると、日清戦争の時の10倍の兵士が戻ってくるようになり第二検疫所も設けられた。ロシア人の捕虜もここで検疫を受けた。第一次世界大戦以降はドイツ人の捕虜も収容された。この捕虜の一人がバームクーヘンを焼いたという。これが今のユーハイム・バームクーヘンにつながっているというから数奇なものである。 

  阿鼻叫喚の島へ
 敗戦近くになると戻ってくる兵士はいなくなり、ほとんど無用の長物になっていたが、1945年8月6日を境にして、似島は阿鼻叫喚の島になった。原爆投下による被災者が似島に運ばれてきた。その数1万人以上。これだけの被爆者を治療する設備も薬品もなく6000人以上が息絶えた。火葬もままならず何体もの遺体を折り重ねて埋める土葬に切り替えられたという。もはや人間社会ではない。話を聴きながら胸が詰まる。戦争とはなんと酷いことであろうか。仁方越さんは「加害と被害を見てきた島なのです」と語った。

  平和でこそ山歩きの幸せ
 戦争遺跡巡りを終えた後、下高山に登った。登山道は穏やかでゆるやかな昇りと平坦が交互に現れる。道すがらのミカン畑のおばちゃんは「3歳の子どもでも登る。へっちゃらだよ」と笑顔で励ましてくれた。登るにつれて瀬戸内の風景が眼下に広がる。陽光にきらめく海面と多島美が美しい。頂上に着くと360度のパノラマが開けた。島の山から見える瀬戸内の海は本当に素晴らしい。幸福感に充たされる。しかしこの似島は、70年前まで戦争に翻弄され、さらに無惨な島にされた。頂上で手を合わした。
 安倍政権が進める戦争国家への道は必ず止める。戦争なんてさせない。追憶と祈り、そして光あふれる似島で決意を新たにした。  

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