日々



無題

2015/01/27 18:36 に 山根岩男 が投稿

ヘーゲル「小論理学」に学ぶ・第15講

1 分前2015/01/27 18:34 に 山根岩男 が投稿

精神現象学⑮ 「『現象学』から何を学ぶのか
 第1講で、『現象学』を①科学的社会主義をより豊かにする、②ヘーゲル哲学の出発点として学ぶ、③現在の自然科学、社会科学の到達点から学ぶ、という3つの見地から学ぶことを指摘した。
 この見地からするとき、第1に指摘したいことは、『現象学』の認識論は弁証法的唯物論の認識論であることである。個人の意識の発展を、感覚、知覚、悟性、理性という、発展する一連の意識形態としてとらえ、理性を意識の最高形態としての変革の意識としているのは、現代の認知心理学からしても正しい。また対象意識と自己意識を区別し、人間の類本質としての共同社会性の意識を自己意識としてとらえたのも、現代科学と一致している。これに対し現代のあらゆる観念論は、この一連の意識を分断することで観念論におちいっている。
 第2に、『現象学』は、変革の立場にたっている。それは知の目標を、概念(真にあるべき姿)と存在の統一、つまり理想と現実の統一としているところに象徴的に示されている。特に『現象学』が「概念はいかにして認識されるか」を明確にしているのは、後に弾圧回避のためにその点を曖昧にしている『小論理学』と異なるところ。またヘーゲルが変革の立場から、真理には事実の真理と当為の真理があることを指摘しているのも重要である。
 しかし、変革の立場に立ちながらも、宗教改革とフランス革命について消極的評価しか与えていないこと、資本主義を美化していることは、その後のヘーゲル哲学の発展からすれば、『現象学』体系を放棄する原因になったものと思われる。
 第3に、ヘーゲルが道徳、宗教を正面から論じていることは、「全一的世界観」としての史的唯物論に反省を迫るものとなっている。道徳、宗教の二面性をふまえ、人民の道徳、宗教の探究が求められている。
 最後に、これまで誰一人ヘーゲルのいう理性と概念の意味を正確に理解しなかったために、『現象学』が全体として何を言いたいのかを明らかにしえなかった。その真意は「すべての事物は、その事物の本質の認識を通じて概念を認識することにより、合法則的に発展しうる」としたところにある。この点を解明したところに本講座の意義がある。color="#000000" size="3" face="MS Pゴシック">

ヘーゲル「小論理学」に学ぶ・第14講

6 分前2015/01/27 18:29 に 山根岩男 が投稿 [ 6 分前2015/01/27 18:29 に更新しました]

精神現象学⑭ 「F絶対知」
 『精神現象学』は、「知の生成」、つまり認識の弁証法的発展をつうじて、真理に到達する過程を論じているが、「F絶対知」はその結論部分であり、真理とは「概念と存在の統一」であるとしている。
 『現象学』を読み解くカギは、へーゲルのいう「概念」が「真にあるべき姿(イデア)」を意味していることを理解することにある。ヘーゲルは、真理とはたんに事物の真の姿(本質)をとらえるだけではなくて、その本質を対立・矛盾するものとしてとらえ、その矛盾を揚棄するものとして事物の真にあるべき姿としての概念を認識することにあるとする。そのうえで、主観のうちにとらえた概念を実践することをつうじて現実化し、事物を合法則的に発展させること、つまり事物を真にあるべき姿に変革することが真理であるという、実践的真理観にたっている。言い換えると、ヘーゲルのいう真理とは理想と現実の統一であり、ヘーゲルはそれを「概念と存在の統一」としての「絶対知」であると表現している。この真理観は、変革の立場にたった真理観として、科学的社会主義にも継承されねばならない。
 ヘーゲルは、この概念の運動はすでにこれまで学んできたところに現れているという。すなわち、概念を認識する運動は、良心が行動することをつうじて善と悪、個人と共同体の対立・矛盾に陥り、その矛盾を解決する相互承認の「赦し」の世界において「一人は皆のために、皆は一人のために」という「概念」の認識に達することを学んだ。他方概念が外化して、現実となる運動は、キリスト教の三位一体論で学んだ。われわれは、この概念の二つの運動を一つに結びつけることによって、「概念と存在の統一」という真理を実現しなければならない。
 つまり「絶対知」とは「概念把握する知」(P446)である。したがって永遠の真理である概念は、時空を超えた存在であり。この概念を取り扱う学問が「論理学」に他ならない。「論理学」もまた「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(P27)のであり、自らを外化して「精神哲学」となり、「自然哲学」は自己に回帰して「精神哲学」となる。こうして「学の体系第1部」が「精神現象学」であるのに対し、「学の体系第2部」は、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」として構成されることになる。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第13講

2014/11/10 1:08 に 山根岩男 が投稿

         精神現象学⑬ 「E宗教」
宗教とは、絶対者=人間とする民族特有の精神。その民族精神は、自然宗教、芸術宗教、啓示宗教の歴史ということができる。
 自然宗教とは、東方の民族精神としての宗教であり、光(ゾロアスター教)花、動物(インド)、工作物(ピラミッド、スフィンクス)など特定の自然物を絶対者とする。
 芸術宗教とは、ギリシャの民族精神としての芸術と一体化した宗教。それは、芸術作品のうちに絶対者を見るのであり、その作品とは神託、賛歌、礼拝の「抽象的芸術品」、オリンピック選手の「生きた芸術品」、叙事詩、悲劇、喜劇を絶対者とする「精神的芸術品」の3つに分かれ、精神的芸術品にギリシャの「人倫的精神」が顕著に表れている。
 啓示宗教とは、キリストゲルマン的精神としての、絶対者を父と子と聖霊の三位一体としてとらえるキリスト教のことである。ここにおいて神=人間であると同時に、自己(神)から他在(イエス)へ、他在から自己(聖霊)への復帰という精神の運動そのものが示されている。それは神の本性が絶対的精神であることが人間に示されているという意味で、啓示宗教であり、絶対宗教である。
 しかし、啓示宗教もまだ現実の衣をまとった「表象」にすぎないところから、純粋な精神である絶対知に前進しなければならない。
 コラムは、まず前回の史的唯物論と道徳論の続き。科学的社会主義の一般的道徳法則の基本は、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズム」にある。人間らしく「生きる」ためには、まず生命の尊厳が求められ、戦争、暴力は否定される。また「人間らしく」生きるためには「自由な精神」と「共同社会性」が求められる。自由な精神は、真理と正義を愛し、虚偽や不正を許さない。また共同社会性は、個人と国家ないし社会との一体化を求める民主主義的道徳である。こうした一般的道徳法則の展開として、具体的道徳法則が求められることになる。
 コラムの2つ目は、史的唯物論と宗教の問題。科学的社会主義と宗教とは世界観を異にし、共通する理念は存在しないかのように思われているが、国家の2面性を反映し、宗教にも階級支配のための宗教と人民の宗教の2つの側面がある。人民の宗教は、人民の「なやみ」を精神的に解決しようとするヒューマニズムという
 本質的理念をもっている。人民の宗教と、科学的社会主義とは、この点で共通する理念を持っており、この土台の上での共同行動が求められている。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第12講

2014/10/27 17:26 に 山根岩男 が投稿

     精神現象学⑫ 「D 精神」④

 カントの道徳的世界観は、道徳性と自然(幸福)、理性と感性、多くの義務と純粋義務という3つの対立を調和させようとするものであるが、ヘーゲルはそれを「思想なき矛盾の全巣窟」であると批判する。つまり、カントはこの対立を概念に統一しようとしないため、1つの契機から他の契機へ、他の契機から元の契機へという「おきかえ」に終始し、結局道徳的意識は存在すると同時に存在しないことになってしまう。
 したがって、道徳的意識は自己のうちの対立を廃棄し、「自己確信的精神」としての良心に立ち返らねばならない。良心による行動は、自己のうちに真理があるとする信念にもとづく行動として、「絶対至上の独裁権」である。言い換えれば、良心は独裁権にもとづき、どんな内容をも自己のうちに取り込む特殊性であるから、良心による行動は善であることも悪であることもある。それを恐れて行動に出ない良心が、「美しき魂」とよばれる。
 しかし良心は行動してこその良心であり、その行動が悪にならないためには、自己の一面性を認めて他者との間に「赦し」による和らぎが必要となる。この和らぎによって特殊と一般の統一が実現し、理性的かつ普遍的個人を基礎とする個人と社会共同体とが一体化したより高度の人倫的世界が回復することになる。つまり、ここに自己疎外的精神は克服され、ここに絶対精神が登場することになる。
 コラムでは、まず史的唯物論が、ヘーゲルの疎外論にもとづく即自、対自、即対自の3段階歴史観に学んで、原始共同体、疎外された階級社会、疎外から解放された社会主義・共産主義という歴史観が展開されていること、社会主義論の中心的概念としての「人間解放」とは、人間の類本質の疎外を止揚する人間の類本質の全面回復を意味していること、をつうじて、ヘーゲルの疎外論を発展的に継承されていることを指摘した。
 次いで科学的社会主義の学説においては、「真に人間的な道徳」(全集20 P98)論は未解明であり、現代の課題となっていること、その一般的道徳法則は、カント、ヘーゲルなどの道徳論を発展的に継承して、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズムと理性の道徳論であり、人間の生命の尊厳と自由な精神を尊重すると同時に、個と普遍の統一による人間解放を求める民主主義的かつ変革の立場にたった人道的道徳」として規定しうるのではないか、との問題提起がなされた。

2014年度日本共産党広島県後援会総会・記念講演

2014/10/27 17:14 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/10/27 17:16 に更新しました ]

〈広島県労働者学習協議会・常任理事、哲学講座講師でもある高村よしあつ県後援会会長の記念講演を起こしたものです〉 
1,科学的社会主義と出会って約半世紀
 最初にこういう場を与えていただいて感謝をしております。私は科学的社会主義とふれあって約半世紀になりますが、なぜか科学的社会主義の哲学に魅力を感じて、その研究に深入りして、果ては源泉としてのヘーゲルまでいってしまいました。
 本来、科学的社会主義の哲学というのは出来上がった教条ではないわけでして、歴史とともに不断に進歩し発展する学説です。「この学説は、それまでに人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的継承者であると同時に、歴史とともに進行する不断の進歩と発展を特徴としている」(13回臨時大会)。そいう不断に進歩し発展する学説ですから、哲学といえども不動の出来上がった体系として学ぶことは、それ自体が間違いだと私は思います。
 とりわけソ連や東欧の崩壊によりまして「社会主義は自由と民主主義の対極にある体制だ。だからこんなモノはもう過去のモノになってしまったし、これからは資本主義の勝利の時代だ」と言われていたことがあります。今から約30年近く前です。
 これに対して正面から答えなくてはいけないということで、自由と民主主義の問題に本格的に立ち入った研究をして出版したのがお手元にある『人間解放の哲学』です。これは10年前に出した、ある意味で私の模索中の著作です。最近では2011年に『21世紀の科学的社会主義を考える』を更に発展したものとして出していますので、お暇があれば買って読んでいただければと思います。
 今日は、科学的社会主義の哲学を勉強する中で、もう少し発展させなくてはいけないのではないかと考えた2つの問題に絞ってお話をします。

2,変革の立場(問題提起①)
① まず「変革の立場」とは何かということです。私もロンドン郊外にあるマルクスの墓に行きました。非常に大きい、高さ4㍍ぐらいの墓ですが、そこに2つの文句が掘ってある。1つは「万国の労働者、団結せよ」、もう1つは「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである」(マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」)。この文章が1つの根拠になって科学的社会主義の哲学は「変革の哲学である」と言われております。
 変革するということは、将来の「あるべき姿」を考え、実践するということです。それで、この問題に関連して、実は私はソ連・東欧の崩壊の時に、非常に疑問に感じたことがあるのです。これまでのソ連・東欧は社会主義の看板は掲げていたけれども社会主義ではなかったという議論が行われました。となると、本当の社会主義、あるいは真にあるべき社会主義とは何なのかという問いが出てくることになります。
② 私はその問題を考えていく中で、「真にあるべき社会主義」を問題にするのは、頭の中で考える課題だから観念論ではないのかと疑問が浮かんだのです。そのために何人かの哲学関係の友人と話をしたのですが、なかなかはっきりした答えが聞かれませんでした。それで、自分なりに考えていく中で、ここには2つの哲学的問題があると気づきました。1つは唯物論の認識論の問題です。もう1つは認識論の中心をなす真理観の問題であります。

こういうときは辞書を引くに限ります。そのために『社会科学総合辞典』があります。ソ連崩壊直後の1992年5月に出されました。そこで唯物論の認識論とは何かと引いてみると、それは反映論だということで反映論の説明が出ています。この根拠となったのは「経済学批判序言」に出てくるマルクスの言葉であって、「存在が意識を規定する」あるいは「社会的存在が社会的意識を規定する」という言葉で、それを客観的実在が人間の意識に反映するものが認識であるととらえるのが反映論といっております。
 そうなると真にあるべき社会主義というのは客観的な存在ではないわけです。言葉のなかで考える理想社会ではないですか。そうすると、反映論の定義からいうと、それは観念論ではないのかという問題になって参ります。観念論はいうまでもなく人間の思考、あるいは精神こそが世界の中で根本的な存在であると考えて、精神第一、意識第一と考えるわけですから、真にあるべき社会を頭の中で考えると観念論というふうに考えてもおかしくないわけです。
 もう1つは、唯物論の真理観の問題です。唯物論において真理とは何かを社会科学総合辞典でひいてみますと、そこには「真理とは認識の中心的な問題で、唯物論では認識の対象たる客観的実在と一致する観念、判断」を真理という、言い換えれば客観的実在に一致する認識だということになります。しかし「真にあるべき社会主義」は現実には存在しないわけですから、それに一致する認識はありえないことになってきて、それを論議することは、真理の問題ではないのではないのか、ということになってきそうな感じがします。みなさんもそういう疑問をお持ちになったことはありませんか。私はこの問題で相当悩みました。社会科学総合辞典をひかなければよかったのに、ひいたばかりによけいに悩むことになりました。
 つまり「真にあるべき社会主義」という世界のあるべき姿の真理を問題にすることは、唯物論的認識論からいっても唯物論的真理観からいっても、許されないのではないかという問題意識がおきたのです。
③ では世界のあるべき姿を論じること自体が間違いなのかといえば、そうではありません。なぜかといえば、変革の立場というのは世界のあるべき姿を論じるべきものだからです。現にある姿を論じるのは変革の立場とはいいません。それはいわゆる解釈の立場であります。世界のあるべき姿を論じないといけないけれども、それを論じることは観念論になったり、そこには真理はないということになったりするのか、ということになったりする。そんなことはないだろうということにならざるをえないわけです。
 この矛盾に悩まされた結果、これまでの唯物論的認識論を反映論としてとらえること、真理を客観的実在に一致する認識だととらえること、このとらえ方が間違っているとはいわないけれども、これだけでは狭いのではないかというのが現在の私の見解です。なぜそうなるのかをお話ししたいと思います。
④ 人間の認識は反映に始まって創造へと弁証法的に発展し、変革の立場へつながっていく。人間の意識が反映に始まることは間違いありません。何のために目があるのかといえば、これは外部の情報に目を通して自己のうちに取り込むための情報処理器官として目がある。目があり、鼻があり、手足があり、口がある。これは全部感覚器官です。これらの感覚器官は外部の情報を自己のうちに取り入れるために存在する器官です。
 しかし人間は外部の情報を自己のうちに取り入れるだけの受動的な働き方しかしないのか。そうではありません。いま私はヘーゲルの『精神現象学』の講義をしているのですが、ヘーゲルという人はすごい人で、いまから200年前の人でありながら人間の脳の働きをかなり唯物論的にみています。脳科学の問題を少し勉強しまして、当たり前だけれども大事なことに気がつきました。人間の脳の働き、つまり思考の働き、認識といいますけど、それは、「感じる」に始まって、感じることから「知る」につながる。知るということは感じたものを脳の中に蓄積する、知識を蓄えることを知るといいます。「感じる」から「知る」にいき、そしてその知識を使って「考える」ことにいき、「考える」ことの頂点に達するのが「創造する」という機能であることです。だから他の動物と違って、人間の脳は創造するという機能をもっている。そこに動物と人間とを区別する境目があります。自然や社会を変革する力をもっているところに、人間と動物の違いがある。
 ただ人間の頭の中では、感じる、考える、創造するは一連の作業として行われている。バラバラに行われているのではありません。しかし機能的にみて決定的に違うのは、「感じる」とか「知る」は外部の情報を受け止めるという反映的な機能です。反映的な機能というのは受動的な機能ということができるでしょう。
 これに対し、考える,創造するという機能は受動的な作用ではなくて能動的な作用です。だからどちらかというと観念論的な側面だということになるでしょう。ですから重要なことは、反映の側面と創造の側面を切り離して創造の側面だけを論じた時に、その創造性は観念論になるわけです。
 それを社会主義の問題について考えてみるとどういうことになるか。エンゲルスの古典的な名著に『空想から科学へ』、正確には『空想から科学への社会主義の発展』という著作があります。エンゲルスのいっている空想的社会主義とは、現実の分析と切り離して、頭の中の創造性だけで社会主義を考えたものです。では科学的社会主義とは何なのか。科学的社会主義はまず反映からはじまります。何の反映かといえば資本主義という現実の反映であります。その反映を通じて資本主義の発展する真にあるべき姿としての社会主義をとらえる。これが科学的社会主義です。
 つまり未来のあるべき姿、真にあるべき姿を論じるにあたっても、唯物論的な土台の上に真にあるべき姿を論じるのか、それと切り離された形で論じるのかによって唯物論にも観念論にもなるということです。
⑤ 脳は実にすごい働きをしている。受動的な認識から能動的な認識にどのようにして発展するのでしょうか。それが弁証法なのです。科学的社会主義の哲学が弁証法的唯物論だといっているのは、弁証法と唯物論という別々の哲学があるのではないのです。弁証法的唯物論という哲学が1つあるだけなのです。弁証法的唯物論にもとづいて脳の働きを考えたとき初めて、反映から創造性という認識の発展をとらえることができます。
 具体的にいうと、どういうことなのか。反映の機能から生まれる現実の認識を、すべての現実の内には対立する2つの極が存在するととらえます。すべてのものは対立している。その対立は一定の段階で矛盾に転化しますが、その矛盾を解決するものとして未来のあるべき姿がとらえられることになってきます。つまり資本主義の矛盾とは、エンゲルスがいうように、生産は社会的だけれども取得は資本主義的取得だという矛盾。この矛盾を解決するものとして生産も社会的だけども、取得も社会的にするのが、社会主義ということになるのです。したがって、受動的なものから能動的な認識に発展させるものが、弁証法だということになるのです。
 その転化をとらえるためには、現実の中にある対立・矛盾をとらえないといけない。それをとらえれば未来の真にあるべき姿も、客観的実在に根ざした真にあるべき姿として唯物論的にとらえることができるのです。
⑥ そういう意味で唯物論的認識論はたんなる反映論というだけでは足りない。なかには、反映といってもいろいろある、単純な鏡のような機械的反映から、創造的反映まで含むのだといわれる人もいます。しかし、反映という言葉はもともと反射からきているのですから、たんに写すだけであり、別名で模写説ともいわれています。反映することと創造することは、反映は外側のものを人間の心の内に写しとる、創造は人間の心の内で新しいものを生み出すことですから、反映的創造というのは、ある意味で概念矛盾なのですね。そういう無理した反映論の使い方をするのではなくて、私は唯物論的な認識論は、反映に始まり、その弁証法的な発展を通じて創造性に至る、そういう変革の立場をふまえた認識論なのだと申し上げたいと思います。
⑦ もう1つは、真にあるべき社会主義を議論するのは、真理観からしておかしいと疑問が生じたという話しをしました。結論的にいうと、変革の立場にたって考えた真理観は、どうしても2つの真理観といわざるを得ないのではないかと思います。1つは事実の真の姿をとらえた真理です。もう1つは事物の真にあるべき姿をとらえた真理です。私は前の方の真理を「事実の真理」、後の方の真理を「当為の真理」と呼んでいます。この2つの真理の関係は、事実の真理の弁証法的発展を通じて当為の真理が生まれるという関係になってきます。これまでは、科学的社会主義の真理とは、事実の真理のみだとされてきました。しかし、もし真理が事実の真理しかないということになったらどうなるでしょうか。
 私たちが日常的に実践をしているということは、変革をしていることです。変革を伴わない、実践はありえません。だから最も大事な政治の問題は、すべて実践をつうじて、いかなる日本をつくるのかという未来の問題、当為の問題を論じているのです。もしそういうあるべき姿に真理がないことになれば、自民党政治も共産党政治も何ら変わるところはないし、どちらが正しいともいえないことになって、科学的社会主義の政党の存在意義そのものがなくなってしまうでしょう。
 ですから私たちは真理という言葉の中で社会科学総合辞典に書かれているような客観的実在に一致する実在だけをいうのではなく、真にあるべき姿という当為の真理をふまえて議論しています。それは、「真理は必ず勝利する」という命題にはっきり表れています。私たちはこの命題を掲げて、私たちのめざす政治革新の方向を実践しているわけです。
 だから社会変革の目標は、まさに当為の真理なのです。それは、まだ客観的実在にはなっていないけれども、真理だからこそすべての人々の共有財産になることができるのです。すべての人々の共有財産になることができるから統一戦線が生まれるのです。さまざまな価値観をもった人、さまざまな意見をもった人々を何で統一戦線に結集することが可能なのかというと、その目標とされる課題が「当為の真理」であることによってなのです。日本共産党はそういう「当為の真理」を打ち出し、国民の前に提起し、それでみんなが団結して世の中を変えることをめざしている政党だと思います。
 私としては「変革の立場」の正確な表現は、「科学的社会主義の哲学における変革の立場とは、対象のもつ対立・矛盾をとらえることをつうじて、その矛盾を解決、打開することによる対象の弁証法的発展をとらえる立場である」と同時に、「事実の真理の弁証法的発展としての当為の真理を認識し、それを、実践をつうじて現実化する立場である」というべきだと考えています。覚えやすい言葉でいうと「理想と現実の統一」です。現実から理想へ、理想から実践を通じて現実へということを反復することを通じて、人間は無限に客観的、絶対的真理に接近することができるのです。

  3.科学的社会主義の学説の本質(問題提起②)
① 2つ目の問題は科学的社会主義の学説の本質を、どうとらえるかの問題です。私は長いこと広島県労働者学習協議会の仕事にたずさわってきました。労働者学習協議会は科学的社会主義の基礎理論を普及することを規約に掲げています。
 みなさんも日常的に科学的社会主義という言葉を使われていますが、そのとき「科学的社会主義とは何ですか」と聞かれることはありませんか。そんな質問を全然受けたことがないという人は実践が弱いのではないかと思います。実践していると必ずこういう質問が出るわけです。その時、どう答えるのか。長い言葉で説明しようとすればできないことはないけれども、「ものごと」には本質があります。本質とは、そのものごとがもつ真の姿であり、端的に表現しうるものなのです。長ったらしい話はごまかしが多い。本質をとらえた話は短くてすむ。だから私は、演説は3分以上するなと言っているわけです。3分あれば本質をとらえた演説は必ずできる。
 「科学的社会主義とは、何ですか」と聞かれると、なかなか答えられない。「科学的社会主義とは科学の目で自然、社会をとらえる」という言い方もできないわけではありません。それなら自然をとらえる自然科学、社会をとらえる社会科学があればいいのであって、科学的社会主義がなぜ必要なのかという反論がはね返ってきます。
 また「資本主義の矛盾を解決して社会主義への必然的発展を示す学説」だということもできますけど、今日では社会主義はマイナス・イメージしでしか語られていませんから、そんなことを言っても「いい学説だな。私も仲間に入れてください」とはならない。
 つまり「科学的社会主義とは何ですか」を一言で説明するためには、科学的社会主義の学説の本質をとらえたものでなくてはならないと同時に、ソ連・東欧の崩壊をもふまえて、その教訓のうえにたった表現でなければならないと思います。
② ではソ連・東欧はなぜ崩壊したのか。崩壊してみると、崩壊したのは当たり前のようにいう人がいますが、私はとんでもないことだと思います。
 ソ連は社会主義の道を歩み始めたときに、その導きの糸となったのは何でしょうか? マルクス、エンゲルスの科学的社会主義の学説以外には存在しません。マルクス、エンゲルスの社会主義観を忠実に実行したはずの国がソ連だったのですね。エンゲルスは『空想から科学へ』で「社会主義の3つの基準」を提起しました。1つは生産手段の社会化であり、2つは社会主義的な計画経済であり、3つはプロレタリアートの執権です。
 ソ連ではこの3つを実践したはずです。しかし日本共産党の綱領をみますと、「スターリンをはじめとする歴代指導部が社会主義の原則を投げすて」誤った道を進んだ結果、「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会としてその解体を迎えた」と規定しています。その通りであって、正しい規定だと思います。
③ 問題はなぜ社会主義の方向をめざしながら、逆方向に転換したのか、そこには真にあるべき社会主義とは何かの問い直しがなされているのではないか。社会主義とは3つの基準に合致したものといってしまっていいのかという問題が含まれていると思います。
 そもそも科学的社会主義の原点は何かと考える機会がありまして、若いときのマルクスの出発点にさかのぼって考える必要があるのではないかと思い、マルクスの原点を探ってみました。
 彼はヘーゲル哲学から出発した人ですが、『ヘーゲル法哲学批判』(全集1巻)の中にマルクスの原点が出ています。「人間にとっての根本は人間そのもの」である。この言葉に私は震えました。あまりにも当然であると同時に、あまりにも真理をとらえていることに震えました。そのことにやっと気づいたのが、福井地裁の大飯原発差し止め裁判です。そこには人格権、それは「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益の総称」といっています。さらに人格権は憲法上の権利であり、「わが国の法制化ではこれを超える価値は他に見いだすことはできない」といっています。マルクスのいう「人間にとっての根本は人間そのもの」であるという言葉は、この大飯判決の土台になっているといってよいでしょう。ですから、この判決を覆すことは容易ではないだろうと思います。
 マルクスはそういう立場から革命的理論は「人間が人間にとって最高の存在」であり、「人間をいやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係をくつがえせ……という至上命令をもって終る」といっております。
 この「人間をいやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしてお」かれている状況をマルクスは「人間疎外」と言いました。そしてこの「疎外」から解放されて人間が「最高の存在」になることこそが、哲学の最高の問題であり、それを社会主義だととらえたわけです。
 では「人間とは何か」という質問は「その本質は何か」というのと同じ意味をもちます。「人間とは何か」というと、人間は他の動物と違って自然や社会を変革しうるという自由な意識をもっている。そして人間は社会とともに成長・発達してきたのであり、人間は社会的存在である。それを私は共同社会性という言葉で呼んでいます。マルクスは、この人間の2つの本質を「経・哲手稿」と「ミル評注」という別の論文で書いていますが、最近の研究でこの2つの論文は一体のものであることが判明しています。この2つはともに人間の本質をとらえたものとして重要であり、いち早く2つをくっつけて考えるべきだとした先輩がいます。愛媛大学の哲学の先生だった鈴木茂さんです。この人は若くして亡くなり、余り多くの論文を書く時間がなかったのですが、この人の論文は大変優れていると思います。
 鈴木茂さんのマルクスの人間の本質は自由な意識と共同社会性という2つでとらえたというのに学んだのが、私の書いた『人間解放の哲学』なんです。『人間解放の哲学』の20~21ページに紹介しています。
 ④ その後、いろいろ考えていく中で、人間の本質はこの2つだけでいいのかと思うようになりました。人間が自然や社会を変革する能力をもった動物だということを言い換えれば、変革するということは未来のあれこれの姿について価値を見いだすことです。変革するということは価値の問題と不可欠です。だからこの自由な意志から価値としての自由という概念が生まれ、そして共同社会性という存在から民主主義という価値観が生まれたと考えました。ということは自由と民主主義というのは人間の本質と不可分の、人間にとって本質的かつ普遍的な価値ということになってきます。こうして、現在では人間の本質の3つ目に、人間的価値をもつことを挙げたいと思っています。
 この点は大変大事なのでマルクス、エンゲルスが自由や民主主義から出発した民主主義者だったととらえることは、それはそれでいいのですが、ではなぜ自由や民主主義を人類にとって普遍的価値としてとらえるのかという問題を考えるには、人間の本質だということ抜きに論ずることはできません。人間の本質に根ざした価値だから普遍的な意義をもっているととらえられているのです。
⑤ 史的唯物論では人間論の立場にたって人間の歴史を大きくとらえております。マルクスはヘーゲルの疎外論に学んで、人間の歴史を大きく3段階に分けました。1つは人間の本質を獲得する歴史であり、それは約700万年続いた原始共同体の社会に対応するものです。次は階級に分裂した階級社会です。奴隷制、封建制、資本主義社会がそれに該当します。それをマルクスは「人間疎外の社会」ととらえました。
 そして最後に、今一度疎外から解放された人間の本質を全面的に回復する社会を社会主義、共産主義の社会としてとらえました。それを人間解放の社会としてとらえました。
 人間の本質という場合、本質はいわば不変なものです。現象は様々に移り変わりますけれども、本質は変わらないところに本質たる所以があるのです。では人間の本質が疎外されるとはどういうことでしょう。人間の本質そのものはなくなるわけではないけれども、社会の力によって本質が歪められ、押さえ込まれている状況を人間疎外と呼んでいるわけです。
 ですから疎外された階級社会の人間は常に矛盾に悩むのです。自由と民主主義が人間の本質だと気がつかなくても、これは大事にしなくてはいけないと思うと同時に、一方で自由と民主主義は様々な形で社会の力で抑圧されている。その矛盾が疎外からの解放を求める運動として突出するわけです。それが階級闘争ということではないかと思います。階級闘争は人間の疎外からの回復を求める人間の本質に根ざした運動です。だからどんなに弾圧されても絶対になくなることはない。
 科学的社会主義をいろいろ悪くいう人がいます。悪くいう1つに階級闘争論、あるいは階級的観点で社会を見る考えは「憎悪の哲学である」「階級敵を憎む哲学である」といっています。これはとんでもない間違いだと思います。階級闘争というのは人間が人間らしさを回復するための闘いですから、最もヒューマニズムに富んだ闘いであります。
 だから東北大震災の時に、最もヒューマニズムを発揮して現地の人に対して惜しみなくボランティアを発揮したのは、日本共産党の人たちだったわけでしょう。他の政党でヒューマニズムの活動をした政党は存在しません。だから我々は理論的につかんでいないにしても、科学的社会主義の運動は階級闘争を含めてヒューマニズムの運動であることを根本のところでしっかりつかんでいると思います。日本共産党の人間関係は未来を先取りしたヒューマニズムにあふれた人間関係で素晴らしいと思います。ヒューマニズムはわれわれの本質的な性格なのだときちんととらえる必要があると思います。
⑥ 階級闘争は疎外された人間性を回復するヒューマニズムの運動ですから、その階級闘争の産物として生まれる様々な闘いも、自由と民主主義という人間の本質的な欲求を掲げた人間解放をめざす運動になっているわけです。
 たとえば、近代を切り開いたフランス革命という歴史的な出来事がありますが、あの時のスローガンは「自由、平等、友愛」でした。なぜ「自由、平等、友愛」なのかというと、それこそが人間の本質に根ざしているからです。それが共通のスローガンになったのです。しかしフランス革命は途中で挫折いたしました。その挫折した運動を引き継いだのが社会主義の運動です。
 ここのところが大事です。社会主義の運動は生まれたときから自由と民主主義の全面開花を求めた運動なのです。それがソ連や東欧の場合、まるで逆になったのですから、大問題です。
 1848年にマルクスとエンゲルスによって出版された『共産党宣言』という有名な古典がありますが、その冒頭に「いまヨーロッパを一つの妖怪が徘徊している。共産主義の妖怪が」という文書があります。これはみなさん全員ご存じだと思います。なぜ1848年に全ヨーロッパに社会主義、共産主義の運動が広がったのかというと、それこそフランス革命の挫折した精神である「自由、平等、友愛」を引き継ぐものとしてヨーロッパの社会主義運動が発展したからです。
 ですからマルクスは『聖家族』という論文の中で、「フランス唯物論(フランス啓蒙思想のこと、フランス啓蒙思想が理論的に革命を誘導した)は直接社会主義に結びついている」という言葉があります。私は最近まで気づかなくてうっかりしていたのですが、本当は大切なことです。自由と民主主義を守り発展させる運動の延長線上に社会主義の運動が生まれてきました。
 この点はフランス、ヨーロッパだけではなくて日本でもそうであるところが実におもしろい。おもしろいというか本質をとらえている。日本の民主主義的な運動は、明治に入っての自由民権運動から出発しました。最初は憲法制定の要求も含んでいて、台頭するブルジョアジーの要求だったのですが、自由民権運動の旗頭だった板垣退助が政府に取り込まれてしまって、それ以後は貧しい人々、支配され抑圧された人々の運動になって展開します。その後半の自由民権運動の柱になったのが中江兆民の『社会契約論』です。中江兆民がルソーの本(日本では『民約訳解』)を訳して出しました。これが自由民権運動のバイブルになりました。
 その中江兆民の一番弟子だった人が幸徳秋水です。日本の社会主義、明治社会主義運動の筆頭にあげられる人物です。彼はもともと自由民権論者として出発しながら、その考えを進めていったら「社会主義の考えに進んでいくのは必然的な道程であった」と、盟友の堺利彦が語っています。日本でも自由と民主主義を守り発展させる運動として社会主義運動が成立し、そして日本共産党が1922年に誕生し、初代委員長にこの自由民権の精神を引き継いできた堺利彦がすわったのです。
 ですから社会主義の運動は人間解放を求める運動として、生まれながらにして人間の本質的価値である自由と民主主義を本質的構成要素としているということができると思います。

まとめ
 これまで社会主義はエンゲルスの『空想から科学へ』をもとにして3つの基準をもった国が社会主義だと、生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、プロレタリアートの執権の3つだといわれてきました。社会科学総合辞典をひいてもそう書いてあります。最近では4つの基準がいわれるようになったとも書いてあります。いずれにしても3つの基準がそのまま残っている感じです。大事なことは、確かに『空想から科学へ』にはそういう文書がありますが、その後にもう1つの文章が付け加わっているんです。それは簡単にいうと、「社会主義は必然の国から自由の国への人類の飛躍である」という文章につながる文章が残っています。そこが大事だと思います。
 つまりこれまでいわれてきた社会主義の3つの基準は、それ自体が目的ではないわけです。人間の本質の疎外からの全面解放を実現する社会こそが真にあるべき社会主義であって、3つの基準はそれを実現するための手段に過ぎないととらえないと、ソ連のようになってしまう。ソ連の場合、一番大事な人間解放の問題がどこかですっ飛んでしまって、人間の疎外からの解放を求めることに社会主義の原点があることを見失ってしまった。そこに最大の問題があると思います。
 ですから私はソ連・東欧の崩壊をふまえて、社会主義の本質は何かと聞かれたら、一言で言えば「真のヒューマニズムにたった人間解放の学説」と結論づけられると思います。
 こう定式化することはどんな意味があるのか。1つはマルクスの社会主義論の原点を生かすことになっていることです。先ほどヘーゲルの『法の哲学批判』の言葉を紹介しましたが、人間を人間にとっての最高の存在にするのは社会主義です。それは人間疎外からの解放です。疎外とは人間を軽蔑され、隷属させられ、見すてられるような状態をいうのであって、そういう一切の関係をひっくり返さないといけないのです。
 「真のヒューマニズムにたった人間解放の学説」ととらえることは、マルクスの原点を生かすことになると思います。
 2つめは真のヒューマニズムということで、社会主義をソ連の人間抑圧型の社会の対局に位置する社会としてとらえることができます。社会主義というと「ソ連だ、自由と民主主義がない」といわれますが、それに真正面から反論するためには、真にあるべき社会主義は真のヒューマニズムの社会だという必要があります。
 3つ目はヒューマニズムという言葉が出てきたのは、中世の暗黒時代からようやく抜け出して近代に移ってきたときです。いわゆるルネッサンスと宗教改革の時代です。この時にヒューマニズムという言葉が使われるようになりました。日本では人間主義とか、人道主義とか、人文主義とかに訳されています。どれも人間を最高の存在として考えるものです。
 しかしルネッサンス期のヒューマニズムは、搾取と階級の問題には一切触れていません。当時は封建制の社会ですから、封建的な階級、封建的な身分差別、封建的な不平等、封建的な搾取がありました。あったけれども一番大事な問題には触れないヒューマニズム、表面だけのヒューマニズムです。前の民主党の鳩山首相のヒューマニズムは、こんな感じかなと受け取っていました。
 真のヒューマニズムとは、搾取と抑圧の根源まで迫った闘う人間主義の意味が込められているのです。かつてはプロレタリア・ヒューマニズムという言い方をしていたこともあります。私は「真のヒューマニズム」でいいと思います。
 さらに4つ目でいうと、「真のヒューマニズムにたった人間解放の学説」といえば、「だったら人間解放とは何ですか」ということになります。それで人間解放とは人間の本質を全面的に開花することであり、いいかえれば自由と民主主義という価値を全面的に花開かせる社会を意味していると説明できることになります。
 お手元の『人間解放の哲学』のように、それに近い言葉が帯に書いてあるでしょう。近い言葉は、その当時はそういう認識だったのですが、後で考えるとこれだけでは不十分だということで、いまの言葉になったわけです。
 エンゲルスは『反デューリング論』の中で人間の真理が絶対的真理に到達しうるかという問題を提起していまして、人間は真理に対して無限に接近することはできるけれども、人類の無限の生を通じて到達できるという言い方をしています。それを受けてレーニンは「われわれの知識が客観的、絶対的真理を近づく限度は、歴史的に条件づけられている。しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがそれに近づきつつあることは無条件的である」(『唯物論と経験批判論』レーニン全集14 p.158)と述べています。
 それでヘーゲルは『法の哲学』の中で、これに関連した鋭い考察をしています。「どんな学問も知識も完全無欠ではありえない」、つまり完全無欠な知識は絶対的真理に到達したときにそうなるのです。しかし人間は絶対的真理に到達して「はい、これで世界のことはすべてを知り尽くしました。これ以上先はありません」ということにはなりえないのです。だから、どんな学説も、哲学も完全ではありえないと述べています。したがって、「それが完全なものにされてしまうまでわれわれは待たなくてはならない」という態度ではなにひとつ前進させられはしないのであって「哲学もそうである」といっています(『人間解放の哲学』p.249)。
 マルクス、エンゲルスの天才をもってしても、その認識は個人的にも歴史的に限界をもっているのであり、私たちの科学的社会主義の哲学もまた不断に歴史とともに前進と発展を遂げるべき学説であることはいうまでもありません。そのためにはみんながおおいに議論を出し合って、われわれの哲学に磨きをかけていくことが大事ではないかと思います。
 私は提起した幾つかの問題を十数冊の本にしました。提起した問題についておおいに議論していただくことが、科学的社会主義の哲学を活性化させることにつながるのではないかということを申し上げまして私の話を終わりたいと思います。
県後援会会長・高村よしあつ

第26回総会&記念講演

2014/09/24 16:28 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/09/28 19:13 に更新しました ]


 
  広島県労働者学習協議会は23日、第26回総会と記念講演会を広島ロードビルで開き60人が参加しました。総会では、100期の節目を迎える労働学校の成功に全力で取り組み世代継承の土台をつくる、「学習の友」と会員を拡大し安倍反動内閣への怒りを学習運動の飛躍にしていく運動方針を決めました。討論では講師活動をつうじて自らも深く学ぶことができた経験や、労働学校を成功させるためにも全県を視野に入れた活動をとの提起もありました。 
   三役は替わりませんが、常任理事には全教広島から新たに選出をお願いしています。理事には木下克巳さん、島本光さん、新宅のぞみさん、田中敬子さんが新たに加わり運動の発展を予感させる体制となりました。
   総会に先だっての記念講演では、労働者教育協会の山田敬男会長が「歴史的せめぎ合いの時代を生きる 一点共闘から統一戦線へ」と題して講演しました。
   貧困の拡大は民主主義・平和を危うくする。安倍政権は極右政権で、戦後の民主主義を根こそぎ壊す攻撃を仕掛けている。これに対する国民的共同、一点共闘が大きく前進している。その特徴は、これまでの垂直的な連合ではなく政党、労働組合、民主団体、市民層の対等平等の水平型の連合戦線がつくられていること。統一戦線の発展には団結力、闘争力を取り戻すことが大切。そのポイントは新自由主義、構造改革によって壊されてきた人々の集団的関係を、職場、地域に「まともな人間関係」を網の目のように組織する、魅力的な活動家集団をつくっていくことだと強調。そのために安保と憲法に強い活動家の育成、民主主義と権利学習・教育が必要と話しました。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第11講

2014/09/04 22:19 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/09/04 22:21 に更新しました ]

          精神現象学⑪「D 精神」④
 啓蒙は、宗教改革を経て無限の存在である神は追放したが、資本主義における商品生産という有限性のうちに無限性を見出すことで「啓蒙の真理」に到達する。
 つまり商品生産とは、自己にとって使用価値をもつ有用なものの生産であり、この有用なものは、使用価値を持っているから他者にとっても有用であり、したがって市場において流通しうることになる。こうして自己は無限に有用な商品を生産することにより、無限に商品の概念(真にあるべき姿)に接近することになる。これが「存在と概念の統一」、つまり「理想と現実の統一」としての「啓蒙の真理」である。
 この「啓蒙の真理」は、自己疎外精神からの回復を求めるフランス革命となって現れる。これが「絶対自由と恐怖」である。絶対自由の自己意識は、ルソーの「一般意志」(人民の真にあるべき意志)を理想にかかげてその実現を目指す。一般意志の行使が「主権」であり、この人民主権は「未分の実体」として「世界の王座」にのぼり、「いかなる威力もそれに対抗しえない」。したがって、ジャコバンの人民主権の政治は恐怖政治に転換してしまった。
 啓蒙から恐怖政治がうまれたことにより、絶対自由は現実世界から内面の世界に立ち返り、「道徳性」の世界に自己疎外からの回復を求める。ヘーゲルの道徳論は、カントの道徳論(「実践理性批判」)の批判として成立している。カントは、道徳的意識とは理性の命ずる純粋義務に自然的意識(感性)を従わせるところに生ずるととらえ、道徳性と自然性、理性と感性、純粋義務と多様な義務という3つの対立の調和の要請として、その道徳論を展開した。
 コラムでは、ヘーゲルのいう有用性理論とは、個人の利益追求が「予定調和」により全体の利益を実現するという資本主義美化論であり、その本質は搾取の隠ぺいにあることを史的唯物論は解明したこと、また史的唯物論は、フランス革命とはブルジョワジーの封建制に対する第3の蜂起であり、徹底的にたたかわれたところから社会主義思想、ひいては科学的社会主義に発展したことを明らかにした。さらにルソーの一般意志を高く評価するとともに、人民主権を実現するには、労働者階級の政党の主導性が必要であるとして「プロレタリアートの執権」論を確立した。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第10講

2014/09/04 22:15 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/09/04 22:18 に更新しました ]

精神現象学⑩ 「D 精神」③
 自己疎外的精神は、現実の世界から純粋意識(宗教)の世界へ向かう。宗教としての純粋意識は、権力と癒着したカトリック教会を絶対視する「信仰」と、神を自分自身のうちに見る「純粋透見」の意識とに分かれる。信仰する意識は、三位一体の神はカトリック教会として現実のものとなっており、教団への奉仕によって神と一体化しうるとする。これに対し、純粋透見の意識は、自己の内なる神のみが真理であるとして、カトリック教会を批判し、すべての人々に「理性的であれ」と呼びかける啓蒙思想である。
 こうして、「啓蒙と迷信の戦」としての宗教改革が始まる。啓蒙は、信仰のもつ矛盾をとらえて信仰を追放する。すなわち、信仰は、一方で神を彼岸のものとしながら、他方で教会への服従と奉仕によって神と一体化しうるといったり、彼岸にあるはずの神を石や木の偶像とみなしたり、あるいは神は実在するというが、その証拠はない、などと批判する。しかし、信仰から言わせれば、神は彼岸と此岸とにまたがって存在していると考えるのであるから、こうした矛盾も当然のことに過ぎない。結局啓蒙とは、「理性的であれ」とはいうものの、信仰のいう無限な神を認めないところから、信仰とは現世的御利益をもたらす「最も有益なもの」という愚論に落ち着くことになる。  
  コラムでは、まず史的唯物論は啓蒙思想を、台頭するブルジョワジーの封建制に対する戦いの思想であること、それは近代の唯物論として誕生し、社会主義思想から科学的社会主義に発展していったこと、啓蒙思想は近代哲学の土台となる合理主義と同時に、理性にもとづく世界創造論という観念論にもつながっていったこと、という3点を指摘。また史的唯物論は、ヘーゲルは宗教改革によりカトリック教会は追放されたというが、宗教改革の本質はブルジョワジーの封建制へのたたかいというところにあり、したがって封建制打倒後はプロテスタントもカトリックもブルジョワ的宗教の枠内にとどまって共存していることを明らかにした。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第9講

2014/07/16 19:15 に 山根岩男 が投稿

                精神現象学⑨ 「D 精神」②
 「A真の精神、人倫」の続き。人倫的実体は、自己矛盾により解体し、ローマの「法状態」に至る。法状態とは、自己疎外的精神を意味する。すなわち、近代民法の基礎を築づいたローマ法の下で、個人は所有権の平等な主体とされたものの、実際には何ら所有することのない名前だけの権利であり、社会から疎外され、社会的存在という人間の本質を奪われた多数のアトムにされてしまった。
 「B自己疎外精神、教養」では、人間疎外の生じた階級社会一般が論じられる。疎外された個人は、教養を積んで「純粋透見」(理性の力)を身に着け、疎外された社会――それは現実の国(絶対主義国家)と信仰の国(カトリック教会)とに分裂している――を人倫的実体に回復しようとする。  
  疎外された個人は、まず「現実の国」に立ち向かう。そこでは、「国家権力と財冨」が対立し、国家権力は「善」、財冨は「悪」とされる。こういう対立構造を是認するのが「高貴な意識」であり、否定するのが「下劣な意識」である。しかし教養を積んだ個人は、「国家権力と財冨」、「善と悪」、「高貴な意識と下劣な意識」などの対立する契機のいずれもが真理ではなく、真理はこの対立を揚棄した統一のうちにあることを知る。つまり、教養の世界とは、弁証法を身に着ける世界であるとして、ヘーゲルは弁証法の「無類の傑作」、ディドロの『ラモーの甥』を紹介。
 コラムは「史的唯物論と封建制社会、絶対主義(絶対君主制)」。古代社会が地中海社会だったのに対し、中世社会はゲルマン民族により建設されたヨーロッパの封建制社会。封建制とは、封建領主と臣下との間で封土付与と従軍義務との双務契約を中心とする身分制的主従制度。ゲルマン諸国家は、ローマ・カトリック教会と手を結び、強大かつ広大な封建制国家を樹立したところから、「キリスト教的=ゲルマン国家」とよばれる。その経済的基盤は、中世ヨーロッパを支配していた「三圃農法」による「マルク共同体」の形式は残しながらも、丸ごとゲルマン諸国家の支配下に置いて、これまでの自由農民を農奴に変えたもの。絶対主義とは、封建制から資本主義への過渡期の権力。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第8講

2014/06/13 18:04 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/06/13 18:05 に更新しました ]

 

                                      

精神現象学⑧ 「D 精神」①
 今回から『現象学』第2部の「精神の現象学」。第2部は大きく「D精神(道徳を含む)」「E宗教(芸術を含む)」「F絶対知」からなり、中心となる「D精神」を5回に分けて学ぶ。「D精神」は、「序論」「a真の精神、人倫」「b自己疎外的精神、教養」「c自己確信的精神、道徳性」からなる。
 意識が真理の階段を上って人倫的実体に達したとき、意識は精神となる。つまり意識は現象、精神はその本質である。「いま精神は人倫的現実」(P255)であり、ギリシャのポリスという人倫的現実は、「一人は皆のために、皆は一人のために」という理念を媒介とする個人と共同体の統一である。精神は、人倫的現実から出発して、いくつかの形態を経て、絶対知に至る。その過程は、人類の歴史である。
 人倫的世界は、真の精神である。そこでは男女の結合をつうじて、国家共同体と家族共同体、人間のおきてと神々のおきてとが美しい調和をなして、「一人は皆のために、皆は一人のために」の世界となっている。しかし男と女が「行動」をするようになると、それぞれは自分のおきてに従い、他方のおきてを侵すことで「罪責」を負うとともに、人倫的現実も解体し、次の「法状態」に移行する。
 科学的社会主義の立場から学ぶために、第1部では脳科学の観点からのコラムを紹介したが、第2部では史的唯物論の観点からのコラムとなる。ヘーゲルがポリスを民主主義の原点としてとらえ、人類史を、大きく民主主義の花開く社会、民主主義の疎外社会、疎外からの解放の社会としてとらえたことは評価しうる。しかし後の『歴史哲学』と異なり、『現象学』ではまだポリスは奴隷制社会としてとらえられていない。また人類史の最初は、ポリスではなく、原始共同体の社会としてとらえねばならない。原始共同体では「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」(エンゲルス『家族、私有財産および国家の起原』)。それこそヘーゲルのいう人倫的現実の世界だった。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第7講

2014/05/14 16:13 に 山根岩男 が投稿


 精神現象学⑦ 「B行為する理性」② 「C社会的理性」

 行為する理性は、「こころの法則」にもとづく行為から、フランス革命におけるジャコバン独裁の「徳」にもとづく行為へ移行する。それはルソーの一般意思を「徳」と言い換えたものだが、実際には個人性を犠牲にし、世の中に敵対する恐怖政治でしかなかった。
 こうして「行為する理性」は、「社会的理性」に移行し、概念を媒介とする主客の統一を目指す。そのためには資本主義という社会の分析が必要となる。資本主義とは、利潤第一の「だまし」の世界ではあっても、個人としての生産者が生産物の交換を通じて、社会と一体化する社会(「ことそのもの」)である。「ことそのもの」は、「われとわれわれの統一」という人倫的実体の形式は持っているが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、人倫的理念をもっていない。
 そこで、この「ことそのもの」に道徳的理念を持ち込もうとする「立法的理性」や、自分なりの理念をつくろうとする「査法的理性」が登場するが、いずれも成功しない。結局人倫的実体の理念は、人倫的実体の内にしか見出すことはできないのであり、それがルソーの一般意思にほかならない。一般意思を統治の原理とする人倫的実体において、個人と社会共同体、主観と客観の統一としての絶対知、ただし個人的意識としての絶対知が実現される。

 第一部「意識の経験の学」をまとめてみると、全体として変革の立場に立った唯物論的認識論ということができるが、その変革の立場は不徹底であり、資本主義がなし崩しに人倫的実体に移行するとしているのは問題と言わざるをえない。

 最後に、脳とコンピューターの異同について。どちらも情報処理機関としては同一であるが、脳とコンピューターとでは目的と手段が逆になっている。すなわち、コンピューターでは出力が目的となっているのに対し、脳では出力を手段として、脳のネットワークの形成を目的としている。人間が「知を愛する」所以である。

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