NO.223 会長エッセイ 通学路の話

投稿日: 2014/09/09 7:08:08

「世界の果て通学路」という映画が評判です。複数の方から薦められ、機会を得て観ることができました。この映画だけはどうしても観たいと思ったのは、自分の通学路と重なり思い入れがあったからです。私の通学路は5㌔、そのうち1㌔は山道でした。

映画「世界の果て通学路」では、子どもたちが10数㌔の道のりを苦労しながら通学する風景など4組の子どもたちの通学風景が描かれますが、最後にそれぞれの子どもが将来の夢を語るのです。自分と家族の夢を実現するために、通学の苦労をいとわず学ぶ子どもたちのキラキラした瞳が心にしみました。今、安倍首相が進めようとしている「愛国心教育」は本当の教育ではないことを日本国民は体験してきました。子どもたちの夢だけでなく命まで奪った「国(天皇)のための人づくり」という戦前のまちがった教育は絶対再現させてはならない。この映画を観て強く思いました。

私が生まれたのは島根県の日原町左鐙で平家落人伝説のある地区でした。「晩越」「集議谷」「左鐙」「一ノ谷」などの地名は落人の逃避行に関わる名前でした。自宅はその集落からさらに山道を登り、奥まったところにありました。平地はなく3軒だけが山肌にへばりつくようにして住んでいました。小学一年生の時だけ、ここから通学しました。

雪のない季節は、兄の自転車の後部座席に乗って行きました。友達に会うと「一、二、三、おはよう」とあいさつされました。長男が修一で、次男が順三、末っ子の私が幸司で、司が「じ=次」で二に通じ、順番は違いますが「一・二・三」となるからでした。 帰りは同じ方向の者たちと歩いて帰りました。友達と遊びながら帰るので、遠足をしているようなものでした。野いちごが熟れると、思わぬごちそうに舌鼓をうちました。草むらにササユリを見つけると幸せな気分になりました。ササユリが好きになったのはこの頃からです。今でもそれらの場所も風景も思い浮かべることができます。

雪の季節になるとそうはいきません。今でこそ中国山地でもあまり雪は降りませんが、第二の故郷になった隣町の吉賀町にはふたつスキー場がありましたから相当な雪が降っていたことはまちがいありません。しかも家は山の八合目付近にありましたから、尋常な量ではなかったはずです。新雪が降るたびに両親が交替で炭俵を引いて麓までの道をあけました。三兄弟はその後をトボトボとついて行った(のでしょう)。どんなに雪が降っても、親が「学校を休め」ということはなかったのです。長靴に雪が入らないように脚絆(きゃはん)を巻いた事や、薄暗いころから歩きはじめたというかすかな記憶はあります。しかし3学期中はほとんど毎日雪道の通学だったはずなのに、雪道を歩く冷たく辛い記憶はないのです。それが不思議で、帰省したときに「自分は誰かに負われたのか」と聞きましたが、「自分で歩いた」という答えでした。兄も母も同じ答えですから間違いないのでしょう。6才の足では、雪道でなくても、山道1㌔を含む5㌔の道は楽ではないはずだし、ましてや深い雪に足を取られての通学は辛かったはずです。時には横なぐりの吹雪の日もあったでしょうが、「三人とも皆勤賞だった」という事ですから、ひと冬歩き通したことは間違いないのです。

脳の働きとして、楽しかったことは脳裏に残り辛かったことは記憶から薄らぐという話を聞きますが、そういう事なのでしょうか? 不思議な通学路です。

会長 重村幸司