「一粒の麦」NO.247 会長エッセイ「お見送りの話」重村幸司

2016/08/22 1:09 に 山根岩男 が投稿

 自分が高齢者の仲間入りをしたのだから、先輩諸氏が次々と鬼籍に入るのは自然なことだ。訃報のたびに時の流れを思い知る。

  恩師の思い出
 原田譲次さんという国鉄労働組合の活動家に出会ったのは、岩国駅に転勤し操車場で働いている時だった。原田さんは生粋の日本人であるが、アメリカ生まれのアメリカ育ちだったとかで、名前の譲次はジョージであろう。アメリカでは、ジョージ・ハラダで通っていた事と思う。帰国して国鉄に入社し、米軍基地のある岩国の駅で通訳として働いていた。出会った頃は、通訳兼案内放送係だった。300人を擁する国労岩国分会の分会長でもあった。この原田さんに労働組合運動のイロハを教わった。いわば、師である。所属する政党が違っていたが、頓着なくかわいがってくれた。
 原田さんは、退職してからは退職者組合の組合員として総会などに参加していた。私も現役の役員として参加していたから、一年に一度の語り合いが楽しみだった。
 91歳になられた昨年も参加してくれた。昨年は私も退職者組合員として参加した。(さすがにお老けになったな)と少し寂しい思いがしていた。懇親会になって原田さんは私の所にきてくれて呑みながら語り合うことになった。最初は静かな話しぶりだったが、現役時代の話になるつれて話しぶりが変わってきた。がぜん生気が戻ってきたのだ。顔色だけでなく目の色も表情も変わった。不思議な現象だった。闘士の時代を語るうちに、年齢さえも現役時代に戻った。こんな不思議な事もあるんだとうれしくなった。
 7月の参議院選挙のさ中に訃報を聞いた。選挙のさ中という事情もあり、葬儀への参列はご遠慮させて頂いた。思い浮かべるのはエネルギッシュな原田さんの姿だけでいい。昨年の奇跡の現象、60代の生気溢れる原田さんの姿を心に刻むことにした。

  痛恨のお見送り 
 青年時代、民主商工会で働いていた心の通じる友人がいた。豊頬で笑顔の似合う快男児だった。明るく優しい性格で、誰からも好かれた。
 その彼が病に冒された。肝臓がやられた。見舞いに行った時はまだ豊頬の面差しを残し、「まもなく良くなるから、また一緒にがんばろうね」といった。病状の深刻さを知らなかったから、相づちをうって励ました。
 それから幾日経ったか記憶にないが、突然の訃報だった。あまり良くないという噂は聞いていたが、それほどとは思っていなかったから衝撃だった。
 見送る時、花を添えようとお棺の中の彼を見た。そこにいたのは「彼」ではなかった。豊頬の面影はなく病魔そのものが横たわっているかのようだった。病というもの残酷さを思い知らされた。彼の笑顔が消えそうで、痛恨のお見送りになった。

 元気な時の笑顔こそ思い出の宝だ。ある知人は病院への見舞いも厳しく拒絶した。優しい人だと思った。自分の元気な時の顔だけを覚えておいてもらいたかったのだろう。その方の優しい笑顔が浮かんでくる。だから今でも、生きていらっしゃる。

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