6月 257号

体験的古典の修行

賃金・価格・利潤 11

二見伸吾(労学協講師団)

ページ数は大月ビギナーズ版

●労働時間とは

「資本には、たえず労働時間を肉体的に可能な最大限の長さまでひきのばそうとする傾向があります」(141頁)

このことに特段の説明はいりませんよね。日本の「8時間労働」は有名無実となっており、労働時間の異常な長さが過労死の温床となっています。

「労働者は、自分の労働力を売ることによって--(略)--その労働力の消費を資本家にゆずりわたすのですが、ただしそれは一定の合理的な限界内でのことであります。彼が自分の労働力を売るのは、その自然な消耗はべつとして、それを維持するためであって、破壊するためではありません」(143頁)。

私たちは労働力を売って、その見返りとして賃金を受けとっています。しかし、この「労働力を売る」というのは売りっぱなしではありません。それでは奴隷です。労働力は私たち人間そのものですから、時間ぎめで売り、労働時間が終わったらちゃんと返してもらわないといけないんです。ですからそれは、レンタルとかリースに似ています。DVDやCDをレンタルし、傷をつけて視聴不能になれば弁償しなければなりません。レンタカーで事故を起こして車が使えなくなったり修理が必要な場合も同様です。自然に減った分は別として、ちゃんと元どおりにして返す。これが当たり前なんですね。

NHKの朝ドラ「ひよっこ」で宮本信子演ずる、すずふり亭のオーナー、鈴子さんが、自宅に帰ってまで仕事をしようとするみね子に次のように言いました。

「仕事というのはね、決められた時間内だけするもんなの。その分しか私、給料払ってないのよ。時間内に精いっぱい働く。終わったら忘れる。でないといい仕事はできない。嫌になっちゃう」 その通り。「決められた時間内だけする」のが仕事なのです。

●労働時間短縮闘争の意味

「労働者が労働日をもとの合理的な範囲まで短縮しようと企てるのは、あるいは彼らが法律による標準労働日の制定を強要することができないばあいに賃上げ--(略)--によって過重労働を阻止しようとするのは、自分たち自身と自分たちの種族にたいする義務をはたすだけのことであります。労働者は資本の暴虐な強奪をおさえるだけであります」(144頁)

「もとの合理的な範囲」が何時間かということは簡単にはいえませんが、疲れが翌日に残らず、毎朝「今日も一日頑張るぞ!」と思うことができる状態ですね。労働時間を短くするためのたたかいはとても大切です。残念ながら、日本の労働運動では賃上げ闘争には一定の成功を収めた時期がありますが、時短闘争はきわめて不十分で、資本の攻撃を跳ね返すにいたっていません。ですから過労死を防ぐことができない。

2015年の年末に自殺した電通で働いていた高橋まつりさん。お母さんに「死んでしまいたい」と度々弱音を吐いていたといいます。10月が130時間残業、11月が99時間残業。そりゃあ衰弱します。

広島でも1995年、オタフクソースで木谷公治(きみはる)さんが過労自殺しています。労働時間を短縮するたたかいを本格的に構築しないと犠牲者は増えるばかり。時短闘争は余裕のある人がするものではなく、「自分たち自身と自分たちの種族にたいする義務」なのです。

●人間の発達の場としての自由時間

「時間は人間の発達の場であります。思うままに使える自由な時間をもたない人間、睡眠や食事などをとる純然たる生理的な中断時間はべつとして、その全生涯が資本家のための労働にすいとられている人間は駄獣(だじゅう)にもおとるものです」(145頁)

駄獣とは、右の写真のように荷物を載せて運ぶ動物のことです。他の訳本は牛馬となっていますね。

「時間は人間の発達の場」だというマルクスの指摘はとても重要です。人間らしく生きるためには、自由な時間がなければね。

『ナゼ日本人ハ死ヌホド働クノデスカ?』(岩波ブックレット)でダグラス・ラミスさんと斎藤茂男さんが対談していて、アメリカのウエストコーストにある沖仲士の労働組合について紹介しています。

この組合、なかなか団結力があって、労働時間をかなり制限している。一週25~40時間。10時間か20時間しか仕事がないときもあるそうです。それでも週35時間分の賃金が保障されている。当然、自由時間が長い。ラミスさんは言います。

《とにかく自由時間が多くて、テレビばかり見たり怠けたりしてもおもしろくないから、何かをやり出す人が多い。その中から絵描きとかもの書き、詩人、学者とかいろいろ出ている。博士号をとる人もいます。ベストセラーの本を書いている人もいます。メキシコ系労働者の中にメキシコ風壁画の絵描きとしてかなりの評判になった人もいます。そしてまたおもしろいのは、こういう人は組合をやめないで沖仲士の仕事をつづけるわけです。

人間はそれぐらいの余暇があれば何かいいこと、ほんとうのことをやりたくなるもんですよ。最初は変な趣味から始まっても、だんだんいいことになっていく。趣味だけじゃ、たとえばプラモデルやテレビゲームをやってもおもしろくないからね》

「自由な時間をもたない人間は、生涯を資本家のために吸い取られている」。これもその通りですね。現状をすべて受け入れ、何かあるとすべて自分が悪いと思ってしまう。

いま急激に下がっていますが、安倍政権のこれまでの支持率の「高さ」を支えているのはこれです。仕事に追われ、じっくり物事を考える余裕がない。批判的な見方ができず現状を追認していくのです。

「彼は他人の富を生産するたんなる機械であり、からだはこわされ、心はけだもののようになります」(同)。

「資本は、もしそれをおさえるものがないなら、たえずしゃにむに全労働者階級をこの極度の退化の状態につきおとすことをやってのけるでありましょう」(同)

現代日本の労働者が置かれている状況そのものではないでしょうか。

反骨爺のつぶやき

高村よしあつ(常任理事)

県労学協では、昨年の沖縄ツアーに続いて、韓国訪問旅行を企画している。韓国では昨年10月に始まった土曜日の「ろうそく集会」が、数百万人の運動を引き起こし、文在寅(ムン・ジェイン)大統領を誕生させ、新しい国民本位の韓国を目指している。私たちもその運動に学び、日朝両国人民の連帯したたたかいを組織したいと思うからである。

これに対しわが国のアベ首相は、根っからの改憲論者としてこれまで改憲は口にしながらも、その中味には触れないできたが、今回ついに本音をむき出しにした。憲法9条の1,2項はそのままで、あらたに3項を新設し、自衛隊の存在を明記しようというものである。

自民党はこれまで、2項の戦力不保持をかいくぐるために、自衛隊が戦力であることを否定し、「自衛のための必要最終限度の実力組織」とごまかしてきた。そのため、海外派兵や集団的自衛権の行使などはできないという自己規制をせざるを得なかったし、安保法制=戦争法で集団的自衛権を認めながらも、その行使は「日本の存立が危機に陥るような特別の場合」に限定せざるをえなかった。今回の9条改憲発言は、2項の戦力とは別のものとして自衛隊をとらえ、2項を空洞化させて自衛隊の歯止めなき海外武力行使に道を開こうというものである。

憲法前文には「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるもの」として、国民主権原理を明記している。しかも9条の維持を求める国民の認識は、アベ政権が安保法制=戦争法を制定するのに反比例して、一路増加し続けている。にもかかわらずアベ発言は、国民との対話を否定し続け、2020年の改憲施行といっている。となれば、96条の国会発議はさらに直近の課題となってくる。いよいよ大勝負である。いまこそ立憲主義回復の国民世論をすべて結集し、安倍政権打倒のたたかいに立ち上がらねばならない。そこに、県労学教が「ろうそく集会」に急いで学ばねばならないと考える理由がある。

あきやん沖縄旅行記66

忘れてはいけない もう一つの沖縄

清水 章宏(労学協理事)

イャーとぅ我とぅや よー三良

南洋帰りの コンパニー

戦に追ってぃ 洞穴ぐまい

空襲 艦砲 雨降らち

あんしん生ちょる 不思議さよ

アア 懐かさよ

テニアン サイパン ロタ パラオ

(沖縄民謡「南洋帰り」より)

先日那覇の民謡ステージで飲んでいるとき隣の地元常連一人客に話しかけられた。ちょうどステージ飛び入りで、その男性は「屋嘉節」を唄い、続いて私が「南洋帰り」を唄ったあとだった。その男性は父親が戦後テニアン島から沖縄に帰ってきたと言った。また、いつも闘牛場で隣になるおじいさんは、戦前テニアン島にいて、戦後2年目に父親と沖縄に帰ってきたと話していた。

移民県沖縄

第2次世界大戦前、海外移民が多い県は広島県(明治32年~昭和7年 92,716人 全国比16.8%)がトップ。続いては熊本県(61、400人 11.1%)で、その次が沖縄県(55,706人 10.1%)である。(数字は「広島県史」より)人数ではそうなのだが、これを当時の県民数の比率で数えると、広島県民の約4%、熊本県民の約5%、沖縄県では県民の約10%にあたると言われる。沖縄県民の10人に1人が海外移民ということになる。農業移民が多いのだが、魚を追って移動する漁業移民もいた。これは地域に定着しないためその実数はよくわからないと聞く。

沖縄民謡「移民小唄」では「(故郷へ)錦を飾って 帰るとき」と唄われる。その歌詞どおり、沖縄の古い集落を歩き、立派な石積塀の家屋のことを民宿で聞くと「あの家は移民帰りだから」と聞くことが多い。沖縄県史をはじめ、沖縄県内の市町村史の多くが移民だけで1巻が編集されている。それほど沖縄では移民があたりまえに多いのだ。

南の島の「もう一つの沖縄」

さらに海外移民のほかに南洋移民とも言われる、当時日本の信託委任領であった南洋諸島(ミクロネシア)へ移住(植民)した沖縄県出身者は、1940年には約56,000人にのぼり、在留邦人の7割を占めていたといわれる。南洋諸島は半国策企業「南洋興発株式会社」が製糖業を中心にサイパン島を拠点に開発し、サトウキビ作の経験が豊富であり、南洋諸島の風土にも適していると、沖縄県からの従業員募集を積極的に進めた。1938年のマリアナ諸島サイパン、テニアン、ロタの三島の沖縄県出身者小作農・日雇農夫は73%。パラオ、トラック島などでの漁業者では90%を占めていた。サイパン島では、最盛期には少なくとも4軒の沖縄泡盛製造所があったと言われるほど、南洋諸島に「もう一つの沖縄」が生まれたような状況とも伝えられている。

移民社会の沖縄差別

その南洋諸島での沖縄県人ではあるが、現実には「一等国民 日本人」「二等国民 沖縄人・朝鮮人」「三等国民 チャモロ人、カナカ人などの先住島民」と公然と差別をうけていた。差別は南洋興発の沖縄県出身小作農・日雇農夫への契約違反の低賃金、他府県出身者との賃金・手当格差、サトウキビ計量不正などにもおよんだ。これに対し沖縄県出身小作農・日雇農夫は大正末期から昭和初期にかけてサイパン島で数度にわたり南洋興発へ差別撤廃を求める労働争議を起こしている。1927年は約4000人、1932年には6000人が参加するストライキに発展し、サイパン・ストライキとも呼ばれた。ストライキ鎮圧側である警察官仲本興正警部補は、争議の原因を調査していくうちに会社の横暴と沖縄県出身者への差別の現状に「これでは人間牧場だ」と憤って警察を辞め、ストライキ争議指導を行ったという。仲本氏はその後サイパン沖縄県人会の会長となった人物でもある。

住民を巻き込んだ初めての地上戦

琉球新報社が沖縄戦60年に発行した「沖縄戦新聞」全10号の第1号は「サイパン陥落」。見出しには「邦人1万人が犠牲 県出身者は6千人」とある。1944年7月7日にサイパン島の日本軍の組織的抵抗は終わった。サイパン島には約2万人の日本人住民がおり、戦闘で8千から1万人が犠牲になり、そのなかで沖縄県出身者の犠牲が約6千人といわれる。のちに沖縄戦でくりひろげられる住民の戦闘動員、集団死、日本兵による殺害などがサイパン島ですでに発生していた。沖縄戦の先駆けとなった住民を巻き込んだ地上戦は24日間続き、約半数の住民が犠牲となったのだ。

サイパン島に続き、隣のテニアン島ではわずか9日間で日本軍は壊滅した。テニアン島では約1万3千人の住民のうち3500人が犠牲となり、9500人が民間人捕虜となった。

知られざる事件

1945年8月15日の日本の降伏後、サイパン島、テニアン島の民間人収容所内で殺人事件が起きている。日本が戦争に負けたことを信じない「勝組」派の民間人が、日本の敗戦を認める「負組」と呼ばれる民間人を襲って殺害する事件。南米移民での事件が有名だが、南洋諸島でも起きていた。サイパン島での事件では殺人実行犯の19歳の沖縄県出身の青年が逮捕されている。南米での事件でも、沖縄からの移民の多くが勝組であったと言われている。これらは軍国主義教育の影響とともに、「二等国民」と差別を受けている沖縄移民が日本人として認めてもらう、日本人に同化するためにより過激に天皇制日本への忠誠を尽くそうとした姿ではないだろうか。

忘れ去られる前に

日本の敗戦後、南洋諸島はアメリカの軍事基地化、占領下のもと日本からの移民は出身地へ帰還させられた。沖縄では南洋移民の引揚者で行く場所のない人たちを集めた南洋部落もつくられたという。当時は沖縄戦の被害と悲惨な体験直後でもあり、南洋移民は成功者、お金持ちのイメージもあって南洋移民の悲惨な体験はあまり語ることもできなかったともいわれる。そして移民と言えばハワイ、アメリカ、中南米とイメージされ、南洋諸島への移民や戦争体験は忘れ去られているように感じる。南洋移民は戦後引き上げさせられ、二世、三世と続くことがなかった。そのため南洋諸島での生活、戦争、戦後を語れる人も亡くなってゆき、語れる人も少ないのだろう。かろうじて、沖縄の民謡で南洋を唄ったもの「南洋小唄」「南洋浜千鳥」「南洋帰り」などがあるが、その唄の意味や背景を知っている人は少なくなっているのだろう。

那覇の民謡ステージで話したおじさんは、父親がテニアンから引き揚げてから産まれたと言い、テニアンでの生活の経験はない。父親からどのくらい話を聞いているのだろうか。闘牛場で一緒になるおじいさんは子供のころの記憶がどこまであるのだろうか。忘れ去られる前に一度じっくり話を聞いてみたいと思う。

<追伸>

ハワイ移民の社会でも労働争議が数多く起きている。劣悪な日雇農業労働者などの労働条件改善労働争議を組織し指導したのはキリスト教牧師だったと言われている。日本人牧師が右手に「聖書」、左手に「資本論」を持って説教している話や、ハワイの日本領事がストライキ中止を呼びかけたのに対し、日本人牧師が「ストライキは労働者唯一の武器であり、どうしても労働者はこのストライキに勝たねばならぬ。結束こそ労働者の力だ。労働者よ結束せよ!」と呼びかけ、領事を激怒させた話などが残されている。

移民社会での差別は、社会主義運動へ繋がり、沖縄出身青年を中心とする「社会問題研究会」サークル活動や、さらにアメリカ共産党へとつながっていく。沖縄出身アメリカ移民の宮城与徳氏はそのような活動の中アメリカ共産党に入党。「真の国防というのは戦争を避ける事が最上の策」との考えのもと日本に赴き、ゾルゲ事件にかかわり逮捕、獄中で死亡している。

戦前の沖縄出身者への差別や移民社会での差別がどのように戦前の社会運動につながっていったのかはあまり研究がされていない。いつか詳しく調べてみたい。

<参考文献>

「沖縄大百科事典」 沖縄タイムス社

「海のはての祖国」 野村進 講談社文庫

「沖縄ハワイ移民一世の記録」鳥越皓之 中公新書

「沖縄 抵抗主体をどこにみるか」 佐々木辰夫 スペース伽耶

まんが 六田修