開講中の講座

    哲学講座「ヘーゲル『精神現象学』に学ぶ」

                    講師・高村よしあつ

  2013.10.26~  毎月第4土曜日 AM9:30~12:00              

“目からうろこ”の哲学講座

2017/03/28 17:12 に 山根岩男 が投稿

新哲学講座 『資本論』に学ぶ弁証法入門

2016/08/22 1:22 に 山根岩男 が投稿

日 時:毎月・第3土曜日 午前10時~12時30分
場 所:広島県労働者学習協議会 教室

受講料:教室受講 500円(1回)
     通信受講・・・音楽CD 5,000円(教材の発送は9月になります)

第1講 8月20日 弁証法と形式論理学
第2講 9月17日 弁証法の核心は対立・矛盾にある
第3講 10月15日 弁証法は対立物の統一
第4講 11月19日 矛盾は展開する
第5講 12月17日 矛盾の解決

ヘーゲル「小論理学」に学ぶ・第15講

2015/01/27 18:34 に 山根岩男 が投稿   [ 2015/01/27 18:37 に更新しました ]

精神現象学⑮ 「『現象学』から何を学ぶのか 
   第1講で、『現象学』を①科学的社会主義をより豊かにする、②ヘーゲル哲学の出発点として学ぶ、③現在の自然科学、社会科学の到達点から学ぶ、という3つの見地から学ぶことを指摘した。
 この見地からするとき、第1に指摘したいことは、『現象学』の認識論は弁証法的唯物論の認識論であることである。個人の意識の発展を、感覚、知覚、悟性、理性という、発展する一連の意識形態としてとらえ、理性を意識の最高形態としての変革の意識としているのは、現代の認知心理学からしても正しい。また対象意識と自己意識を区別し、人間の類本質としての共同社会性の意識を自己意識としてとらえたのも、現代科学と一致している。これに対し現代のあらゆる観念論は、この一連の意識を分断することで観念論におちいっている。
 第2に、『現象学』は、変革の立場にたっている。それは知の目標を、概念(真にあるべき姿)と存在の統一、つまり理想と現実の統一としているところに象徴的に示されている。特に『現象学』が「概念はいかにして認識されるか」を明確にしているのは、後に弾圧回避のためにその点を曖昧にしている『小論理学』と異なるところ。またヘーゲルが変革の立場から、真理には事実の真理と当為の真理があることを指摘しているのも重要である。
 しかし、変革の立場に立ちながらも、宗教改革とフランス革命について消極的評価しか与えていないこと、資本主義を美化していることは、その後のヘーゲル哲学の発展からすれば、『現象学』体系を放棄する原因になったものと思われる。
 第3に、ヘーゲルが道徳、宗教を正面から論じていることは、「全一的世界観」としての史的唯物論に反省を迫るものとなっている。道徳、宗教の二面性をふまえ、人民の道徳、宗教の探究が求められている。
 最後に、これまで誰一人ヘーゲルのいう理性と概念の意味を正確に理解しなかったために、『現象学』が全体として何を言いたいのかを明らかにしえなかった。その真意は「すべての事物は、その事物の本質の認識を通じて概念を認識することにより、合法則的に発展しうる」としたところにある。この点を解明したところに本講座の意義がある。

ヘーゲル「小論理学」に学ぶ・第14講

2015/01/27 18:29 に 山根岩男 が投稿   [ 2015/01/27 18:29 に更新しました ]

精神現象学⑭ 「F絶対知」
 『精神現象学』は、「知の生成」、つまり認識の弁証法的発展をつうじて、真理に到達する過程を論じているが、「F絶対知」はその結論部分であり、真理とは「概念と存在の統一」であるとしている。
 『現象学』を読み解くカギは、へーゲルのいう「概念」が「真にあるべき姿(イデア)」を意味していることを理解することにある。ヘーゲルは、真理とはたんに事物の真の姿(本質)をとらえるだけではなくて、その本質を対立・矛盾するものとしてとらえ、その矛盾を揚棄するものとして事物の真にあるべき姿としての概念を認識することにあるとする。そのうえで、主観のうちにとらえた概念を実践することをつうじて現実化し、事物を合法則的に発展させること、つまり事物を真にあるべき姿に変革することが真理であるという、実践的真理観にたっている。言い換えると、ヘーゲルのいう真理とは理想と現実の統一であり、ヘーゲルはそれを「概念と存在の統一」としての「絶対知」であると表現している。この真理観は、変革の立場にたった真理観として、科学的社会主義にも継承されねばならない。
 ヘーゲルは、この概念の運動はすでにこれまで学んできたところに現れているという。すなわち、概念を認識する運動は、良心が行動することをつうじて善と悪、個人と共同体の対立・矛盾に陥り、その矛盾を解決する相互承認の「赦し」の世界において「一人は皆のために、皆は一人のために」という「概念」の認識に達することを学んだ。他方概念が外化して、現実となる運動は、キリスト教の三位一体論で学んだ。われわれは、この概念の二つの運動を一つに結びつけることによって、「概念と存在の統一」という真理を実現しなければならない。
 つまり「絶対知」とは「概念把握する知」(P446)である。したがって永遠の真理である概念は、時空を超えた存在であり。この概念を取り扱う学問が「論理学」に他ならない。「論理学」もまた「絶対的他在において純粋に自己を認識する」(P27)のであり、自らを外化して「精神哲学」となり、「自然哲学」は自己に回帰して「精神哲学」となる。こうして「学の体系第1部」が「精神現象学」であるのに対し、「学の体系第2部」は、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」として構成されることになる。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第13講

2014/11/10 1:03 に 山根岩男 が投稿   [ 2014/11/10 1:06 に更新しました ]

精神現象学⑬ 「E宗教」
宗教とは、絶対者=人間とする民族特有の精神。その民族精神は、自然宗教、芸術宗教、啓示宗教の歴史ということができる。
 自然宗教とは、東方の民族精神としての宗教であり、光(ゾロアスター教)花、動物(インド)、工作物(ピラミッド、スフィンクス)など特定の自然物を絶対者とする。
 芸術宗教とは、ギリシャの民族精神としての芸術と一体化した宗教。それは、芸術作品のうちに絶対者を見るのであり、その作品とは神託、賛歌、礼拝の「抽象的芸術品」、オリンピック選手の「生きた芸術品」、叙事詩、悲劇、喜劇を絶対者とする「精神的芸術品」の3つに分かれ、精神的芸術品にギリシャの「人倫的精神」が顕著に表れている。
 啓示宗教とは、キリストゲルマン的精神としての、絶対者を父と子と聖霊の三位一体としてとらえるキリスト教のことである。ここにおいて神=人間であると同時に、自己(神)から他在(イエス)へ、他在から自己(聖霊)への復帰という精神の運動そのものが示されている。それは神の本性が絶対的精神であることが人間に示されているという意味で、啓示宗教であり、絶対宗教である。
 しかし、啓示宗教もまだ現実の衣をまとった「表象」にすぎないところから、純粋な精神である絶対知に前進しなければならない。
 コラムは、まず前回の史的唯物論と道徳論の続き。科学的社会主義の一般的道徳法則の基本は、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズム」にある。人間らしく「生きる」ためには、まず生命の尊厳が求められ、戦争、暴力は否定される。また「人間らしく」生きるためには「自由な精神」と「共同社会性」が求められる。自由な精神は、真理と正義を愛し、虚偽や不正を許さない。また共同社会性は、個人と国家ないし社会との一体化を求める民主主義的道徳である。こうした一般的道徳法則の展開として、具体的道徳法則が求められることになる。
 コラムの2つ目は、史的唯物論と宗教の問題。科学的社会主義と宗教とは世界観を異にし、共通する理念は存在しないかのように思われているが、国家の2面性を反映し、宗教にも階級支配のための宗教と人民の宗教の2つの側面がある。人民の宗教は、人民の「なやみ」を精神的に解決しようとするヒューマニズムという
 本質的理念をもっている。人民の宗教と、科学的社会主義とは、この点で共通する理念を持っており、この土台の上での共同行動が求められている。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第12講

2014/10/27 17:22 に 山根岩男 が投稿

精神現象学⑫ 「D 精神」④

  カントの道徳的世界観は、道徳性と自然(幸福)、理性と感性、多くの義務と純粋義務という3つの対立を調和させようとするものであるが、ヘーゲルはそれを「思想なき矛盾の全巣窟」であると批判する。つまり、カントはこの対立を概念に統一しようとしないため、1つの契機から他の契機へ、他の契機から元の契機へという「おきかえ」に終始し、結局道徳的意識は存在すると同時に存在しないことになってしまう。
 したがって、道徳的意識は自己のうちの対立を廃棄し、「自己確信的精神」としての良心に立ち返らねばならない。良心による行動は、自己のうちに真理があるとする信念にもとづく行動として、「絶対至上の独裁権」である。言い換えれば、良心は独裁権にもとづき、どんな内容をも自己のうちに取り込む特殊性であるから、良心による行動は善であることも悪であることもある。それを恐れて行動に出ない良心が、「美しき魂」とよばれる。
 しかし良心は行動してこその良心であり、その行動が悪にならないためには、自己の一面性を認めて他者との間に「赦し」による和らぎが必要となる。この和らぎによって特殊と一般の統一が実現し、理性的かつ普遍的個人を基礎とする個人と社会共同体とが一体化したより高度の人倫的世界が回復することになる。つまり、ここに自己疎外的精神は克服され、ここに絶対精神が登場することになる。
 コラムでは、まず史的唯物論が、ヘーゲルの疎外論にもとづく即自、対自、即対自の3段階歴史観に学んで、原始共同体、疎外された階級社会、疎外から解放された社会主義・共産主義という歴史観が展開されていること、社会主義論の中心的概念としての「人間解放」とは、人間の類本質の疎外を止揚する人間の類本質の全面回復を意味していること、をつうじて、ヘーゲルの疎外論を発展的に継承されていることを指摘した。
 次いで科学的社会主義の学説においては、「真に人間的な道徳」(全集20 P98)論は未解明であり、現代の課題となっていること、その一般的道徳法則は、カント、ヘーゲルなどの道徳論を発展的に継承して、「人間が人間らしく生きるためのヒューマニズムと理性の道徳論であり、人間の生命の尊厳と自由な精神を尊重すると同時に、個と普遍の統一による人間解放を求める民主主義的かつ変革の立場にたった人道的道徳」として規定しうるのではないか、との問題提起がなされた。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第11講

2014/09/04 22:14 に 山根岩男 が投稿

神現象学⑪「D 精神」④
   啓蒙は、宗教改革を経て無限の存在である神は追放したが、資本主義における商品生産という有限性のうちに無限性を見出すことで「啓蒙の真理」に到達する。
 つまり商品生産とは、自己にとって使用価値をもつ有用なものの生産であり、この有用なものは、使用価値を持っているから他者にとっても有用であり、したがって市場において流通しうることになる。こうして自己は無限に有用な商品を生産することにより、無限に商品の概念(真にあるべき姿)に接近することになる。これが「存在と概念の統一」、つまり「理想と現実の統一」としての「啓蒙の真理」である。
 この「啓蒙の真理」は、自己疎外精神からの回復を求めるフランス革命となって現れる。これが「絶対自由と恐怖」である。絶対自由の自己意識は、ルソーの「一般意志」(人民の真にあるべき意志)を理想にかかげてその実現を目指す。一般意志の行使が「主権」であり、この人民主権は「未分の実体」として「世界の王座」にのぼり、「いかなる威力もそれに対抗しえない」。したがって、ジャコバンの人民主権の政治は恐怖政治に転換してしまった。
 啓蒙から恐怖政治がうまれたことにより、絶対自由は現実世界から内面の世界に立ち返り、「道徳性」の世界に自己疎外からの回復を求める。ヘーゲルの道徳論は、カントの道徳論(「実践理性批判」)の批判として成立している。カントは、道徳的意識とは理性の命ずる純粋義務に自然的意識(感性)を従わせるところに生ずるととらえ、道徳性と自然性、理性と感性、純粋義務と多様な義務という3つの対立の調和の要請として、その道徳論を展開した。
 コラムでは、ヘーゲルのいう有用性理論とは、個人の利益追求が「予定調和」により全体の利益を実現するという資本主義美化論であり、その本質は搾取の隠ぺいにあることを史的唯物論は解明したこと、また史的唯物論は、フランス革命とはブルジョワジーの封建制に対する第3の蜂起であり、徹底的にたたかわれたところから社会主義思想、ひいては科学的社会主義に発展したことを明らかにした。さらにルソーの一般意志を高く評価するとともに、人民主権を実現するには、労働者階級の政党の主導性が必要であるとして「プロレタリアートの執権」論を確立した。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第10講

2014/09/04 22:10 に 山根岩男 が投稿

精神現象学⑩ 「D 精神」③
   自己疎外的精神は、現実の世界から純粋意識(宗教)の世界へ向かう。宗教としての純粋意識は、権力と癒着したカトリック教会を絶対視する「信仰」と、神を自分自身のうちに見る「純粋透見」の意識とに分かれる。信仰する意識は、三位一体の神はカトリック教会として現実のものとなっており、教団への奉仕によって神と一体化しうるとする。これに対し、純粋透見の意識は、自己の内なる神のみが真理であるとして、カトリック教会を批判し、すべての人々に「理性的であれ」と呼びかける啓蒙思想である。
 こうして、「啓蒙と迷信の戦」としての宗教改革が始まる。啓蒙は、信仰のもつ矛盾をとらえて信仰を追放する。すなわち、信仰は、一方で神を彼岸のものとしながら、他方で教会への服従と奉仕によって神と一体化しうるといったり、彼岸にあるはずの神を石や木の偶像とみなしたり、あるいは神は実在するというが、その証拠はない、などと批判する。しかし、信仰から言わせれば、神は彼岸と此岸とにまたがって存在していると考えるのであるから、こうした矛盾も当然のことに過ぎない。結局啓蒙とは、「理性的であれ」とはいうものの、信仰のいう無限な神を認めないところから、信仰とは現世的御利益をもたらす「最も有益なもの」という愚論に落ち着くことになる。  
  コラムでは、まず史的唯物論は啓蒙思想を、台頭するブルジョワジーの封建制に対する戦いの思想であること、それは近代の唯物論として誕生し、社会主義思想から科学的社会主義に発展していったこと、啓蒙思想は近代哲学の土台となる合理主義と同時に、理性にもとづく世界創造論という観念論にもつながっていったこと、という3点を指摘。また史的唯物論は、ヘーゲルは宗教改革によりカトリック教会は追放されたというが、宗教改革の本質はブルジョワジーの封建制へのたたかいというところにあり、したがって封建制打倒後はプロテスタントもカトリックもブルジョワ的宗教の枠内にとどまって共存していることを明らかにした。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第9講

2014/07/16 19:17 に 山根岩男 が投稿

                精神現象学⑨ 「D 精神」②
 「A真の精神、人倫」の続き。人倫的実体は、自己矛盾により解体し、ローマの「法状態」に至る。法状態とは、自己疎外的精神を意味する。すなわち、近代民法の基礎を築づいたローマ法の下で、個人は所有権の平等な主体とされたものの、実際には何ら所有することのない名前だけの権利であり、社会から疎外され、社会的存在という人間の本質を奪われた多数のアトムにされてしまった。
 「B自己疎外精神、教養」では、人間疎外の生じた階級社会一般が論じられる。疎外された個人は、教養を積んで「純粋透見」(理性の力)を身に着け、疎外された社会――それは現実の国(絶対主義国家)と信仰の国(カトリック教会)とに分裂している――を人倫的実体に回復しようとする。
疎外された個人は、まず「現実の国」に立ち向かう。そこでは、「国家権力と財冨」が対立し、国家権力は「善」、財冨は「悪」とされる。こういう対立構造を是認するのが「高貴な意識」であり、否定するのが「下劣な意識」である。しかし教養を積んだ個人は、「国家権力と財冨」、「善と悪」、「高貴な意識と下劣な意識」などの対立する契機のいずれもが真理ではなく、真理はこの対立を揚棄した統一のうちにあることを知る。つまり、教養の世界とは、弁証法を身に着ける世界であるとして、ヘーゲルは弁証法の「無類の傑作」、ディドロの『ラモーの甥』を紹介。
 コラムは「史的唯物論と封建制社会、絶対主義(絶対君主制)」。古代社会が地中海社会だったのに対し、中世社会はゲルマン民族により建設されたヨーロッパの封建制社会。封建制とは、封建領主と臣下との間で封土付与と従軍義務との双務契約を中心とする身分制的主従制度。ゲルマン諸国家は、ローマ・カトリック教会と手を結び、強大かつ広大な封建制国家を樹立したところから、「キリスト教的=ゲルマン国家」とよばれる。その経済的基盤は、中世ヨーロッパを支配していた「三圃農法」による「マルク共同体」の形式は残しながらも、丸ごとゲルマン諸国家の支配下に置いて、これまでの自由農民を農奴に変えたもの。絶対主義とは、封建制から資本主義への過渡期の権力。

ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ・第8講

2014/06/13 18:00 に 山根岩男 が投稿

                                          精神現象学⑧ 「D 精神」①
 今回から『現象学』第2部の「精神の現象学」。第2部は大きく「D精神(道徳を含む)」「E宗教(芸術を含む)」「F絶対知」からなり、中心となる「D精神」を5回に分けて学ぶ。「D精神」は、「序論」「a真の精神、人倫」「b自己疎外的精神、教養」「c自己確信的精神、道徳性」からなる。
 意識が真理の階段を上って人倫的実体に達したとき、意識は精神となる。つまり意識は現象、精神はその本質である。「いま精神は人倫的現実」(P255)であり、ギリシャのポリスという人倫的現実は、「一人は皆のために、皆は一人のために」という理念を媒介とする個人と共同体の統一である。精神は、人倫的現実から出発して、いくつかの形態を経て、絶対知に至る。その過程は、人類の歴史である。
 人倫的世界は、真の精神である。そこでは男女の結合をつうじて、国家共同体と家族共同体、人間のおきてと神々のおきてとが美しい調和をなして、「一人は皆のために、皆は一人のために」の世界となっている。しかし男と女が「行動」をするようになると、それぞれは自分のおきてに従い、他方のおきてを侵すことで「罪責」を負うとともに、人倫的現実も解体し、次の「法状態」に移行する。
 科学的社会主義の立場から学ぶために、第1部では脳科学の観点からのコラムを紹介したが、第2部では史的唯物論の観点からのコラムとなる。ヘーゲルがポリスを民主主義の原点としてとらえ、人類史を、大きく民主主義の花開く社会、民主主義の疎外社会、疎外からの解放の社会としてとらえたことは評価しうる。しかし後の『歴史哲学』と異なり、『現象学』ではまだポリスは奴隷制社会としてとらえられていない。また人類史の最初は、ポリスではなく、原始共同体の社会としてとらえねばならない。原始共同体では「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」(エンゲルス『家族、私有財産および国家の起原』)。それこそヘーゲルのいう人倫的現実の世界だった。

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