「一粒の麦」NO.238号 会長エッセイ「似島を歩く」 重村幸司

投稿日: 2015/12/23 23:51:48

11月30日似島を訪ねた。広島市宇品港からわずか4㎞の沖合にある周囲16㎞の小さな島である。宇品から富士山のような山容を持つ「安芸小富士」と呼ばれる山が見える。これが目印で似島の位置はすぐわかる。

この小旅行は、「働くものの命と健康をまもる広島県センター」のイベントだ。今回は、「島を歩くシリーズ7」として、戦争遺跡巡りと山歩きを合体させたものであった。

戦争遺跡巡りの案内は、広島県平和委員会の事務局次長の仁方越郁夫さんにお願いした。小学校の教諭で、似島好きが高じて似島小学校に5年勤めたという。長年平和運動に取り組み、戦争に関する似島の歴史にも詳しい。最強の案内人である

島巡りの15人は宇品港を9時30分のフェリーに乗り、戦争遺跡の多い似島学園港に到着した。戦争遺跡巡りは似島学園から始まった。

「軍都廣島」としての加害の島

1894年(明治27年)に日清戦争が始まり、広島に大本営が置かれ「軍都廣島」になったという。宇品港からアジア大陸へ兵士や物資を送る兵站基地の役割を担った。

戦役が終わった兵士が戦場から戻ってくる。この兵士たちによって、国内に伝染病が持ち込まれることを防ぐために似島に巨大な検疫所が設けられたのだという。1904年に日露戦争が始まると、日清戦争の時の10倍の兵士が戻ってくるようになり第二検疫所も設けられた。ロシア人の捕虜もここで検疫を受けた。第一次世界大戦以降はドイツ人の捕虜も収容された。この捕虜の一人がバームクーヘンを焼いたという。これが今のユーハイム・バームクーヘンにつながっているというから数奇なものである。

阿鼻叫喚の島へ

敗戦近くになると戻ってくる兵士はいなくなり、ほとんど無用の長物になっていたが、1945年8月6日を境にして、似島は阿鼻叫喚の島になった。原爆投下による被災者が似島に運ばれてきた。その数1万人以上。これだけの被爆者を治療する設備も薬品もなく6000人以上が息絶えた。火葬もままならず何体もの遺体を折り重ねて埋める土葬に切り替えられたという。もはや人間社会ではない。話を聴きながら胸が詰まる。戦争とはなんと酷いことであろうか。仁方越さんは「加害と被害を見てきた島なのです」と語った。

平和でこそ山歩きの幸せ

戦争遺跡巡りを終えた後、下高山に登った。登山道は穏やかでゆるやかな昇りと平坦が交互に現れる。道すがらのミカン畑のおばちゃんは「3歳の子どもでも登る。へっちゃらだよ」と笑顔で励ましてくれた。登るにつれて瀬戸内の風景が眼下に広がる。陽光にきらめく海面と多島美が美しい。頂上に着くと360度のパノラマが開けた。島の山から見える瀬戸内の海は本当に素晴らしい。幸福感に充たされる。しかしこの似島は、70年前まで戦争に翻弄され、さらに無惨な島にされた。頂上で手を合わした。

安倍政権が進める戦争国家への道は必ず止める。戦争なんてさせない。追憶と祈り、そして光あふれる似島で決意を新たにした。