「一粒の麦」NO,234 会長エッセー「いのちの話」

2015/08/02 0:56 に 山根岩男 が投稿
メダカを飼っている。ことさら愛玩しているわけではない。メダカを飼うことが目的ではなかった。姫スイレンやガガブタという水棲の花を楽しむのが目的だった。花だけだと水の中にボウフラがわくので、それを防ぐために水鉢の中にメダカを入れた。時季には卵を産みつけ、そして孵化する。その数は一匹・二匹ではない。老眼では把握できないくらい小さな命が無数といっていいくらい現れる。

 あまりにも小さすぎて、親は食べ物と見境がつかないとみえて食べてしまうので、卵を産みつけた段階で別の入れ物に移す。孵化すると、子どもでも食べやすいようにエサをすりつぶして与える。エサが落ちてくると歓喜といっていいような動きをしながらエサをついばむ。

 その姿をみながら不思議なものだと思う。親しかいなかったのに、新たな無数の命が動き回っているのだ。やがて、はっきりメダカになりそして親になる。限りない輪廻を重ねる。こうして生まれてくる命を粗末にできないと思うようになった。年を重ねるにつれて命の尊さを感じる。植物も命だと分かってからは命として扱うようになった。

ヒトの崇高さと哀れさ
 ヒトの存在は奇跡そのものだ。ビッグバンによる宇宙の誕生から130数億年の時を経て、高度に発達したヒトとしての生物として存在する。ヒトの生態を知れば知るほど、そのかけがえなさに言葉をうしなう。かけがえが無いからこそ、命がひとつ失われれば痛ましい事として報道される。それが人間としてのあたりまえの感情になっている。

 ところが、その人間が戦になると大量に命を奪い合う。この日本もわずか70年前まで、命のかけがえなさを忘れた。いや、忘れさせられた。かっての特攻隊や現在の自爆テロの哀れさも、その無残さは形容のしようが無い。顔も知らない相手の命を奪うために、自らの肉体も人生も粉々に砕かれ、それを昇華・散華と思わされるおぞましさ。
 大量に殺戮すれば英雄として賞賛されるという真逆のことが起こるのだ。

 この原稿が印刷される頃、戦争法案の行方はどうなっているだろうか?最初の山場といわれるころである。
 あの戦争で幾つの命を奪ったのか?散華や玉砕という美名で飾られながら、餓死や病死という惨さで幾つの命が損なわれたのか?空襲や原爆投下によって一瞬に失われた命は?忘れてはならない記憶であろう。
 この雑文を書いている時、原発の再稼働のニュースが流れてきた。どれだけ命を粗末にすれば気が済むのであろうか。

 山河に囲まれ「命」が輝き溢れる日本。人類史上最悪の加害と被害の戦禍を経験した日本。この国のリーダーは、すべての命を瞳のように大切にする者でなければならない。 国民をあざむき戦争に導く者など、断じて政治家であってはならないのだ。
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