「一粒の麦」NO.248号 会長エッセイ「広島での来し方」 重村幸司

2016/10/25 1:34 に 山根岩男 が投稿

 広島で働き活動して29年になる。1987年・36歳の時に国鉄の分割・民営化攻撃により、国鉄労働組合は大分裂させられた。その年の10月、再建された国労広島地方本部の大会で副委員長に就任し、翌年8月の大会では書記長に推挙された。末端組織である分会の副分会長から、地方本部の三役とは仰天の人事であった。
 87年4月にJRが発足し大混乱の中での船出だった。情勢が情勢だけに、結果として仲間の人生を背負う立場になった。

 国労組合員の多くは、売店や喫茶店、果てはスッポンの養殖場やたこ焼き屋などに不当配転されていた。私も一時、広島駅の陸橋に設置されたケーキ屋に配転されたことがある。ケーキを入れた箱を、不器用極まる手で結んだ後、ヒモの結び目がくるう~っと半周するのには往生した。結び方が間違っているのだ。あのシーンをお客はどう見ていたのだろうか?こうして思い出すと、いまでも汗が出る。
 不当配転された組合員は、培った技術や仕事を奪われ慣れない職場で怒りや屈辱にまみれていたであろう。その組合員たちを元職場に復帰させる闘いが大きな仕事になった。
 また、JRへの採用を希望しながら不採用になった8000人近い仲間たちのJR採用・職場復帰も大きな課題であった。不当配転に関する労働委員会闘争はあいついで救済命令を勝ち取っていったが、全面解決には時間がかかった。1047名の不採用事件にいたっては24年の歳月を要したのである。組合員は一人あたり、カンパと物資販売などで60万円前後の支援をしただけに、解決の時はことのほか喜びあった。 

 組織問題ではいち早く弁証法的に対応した。「国労から離れた人を恨まない、国労攻撃は全労働者への攻撃だ。職場の全ての仲間を対象にした要求運動を展開しよう」が合い言葉になった。弁証法の「固定した境界線や『不動の対立』にとらわれない。対立物の相互浸透を視野に入れる」を当てはめたのである。労働者の多くは、労働者性と反労働者性の間で揺らいでいた。そして、300人を超える仲間が国労へ復帰・加入してくれた。一方では、民営化による解雇攻撃の恐怖を乗り越えた者でも国労から抜ける者もいた。資本の側からの力も働き、労働者は揺らいでいることを実感する日々であった。

 その後、地域の活動にも関わるようになった。働くもののいのちと健康を守る広島県センターの事務局を請け負った。荷は増えたが、多くの財産も得た。まず、楽に禁煙をした。また、山歩きの素晴らしさを知った。島巡りや桜ウオークも思い出の宝だ。そして、多くの魅力的な人々にも会え、労働安全衛生に関する知見を得ることができた。週刊のニュース発行には少々くたびれたが、パソコン技術の向上も財産のうちに違いない。
 4年前からは、畏れ多くも労働者学習協議会の会長である。高村元会長が、巻頭言をお書きになっていたので「会長エッセイ」を書くことにした。そもそもエッセイとは何かも知らぬままの書き殴りで、「一粒の麦」の権威を損ねたに違いない。29年の来し方に悔いも恥も多いが、喜びもまた多い日々であった。 

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