「一粒の麦」NO,233 会長エッセー「空(そら)の話

2015/07/31 3:56 に 山根岩男 が投稿
朝いちばんにそらを見上げる。季節によって楽しむものは違うが、そらは美しいものだ。明けの明星は凛として美しい。恋のように、極寒の時もいそいそと逢いに行く。

 月は千変万化だ。満月から新月まで毎日少しずつ姿を変える。満月も三日月も風情がある。雲のかかり具合でも違うし、水蒸気のせいなのか色も違う。黄金もあ れば白金もある。ごくまれに三日月が明星を抱こうとするような風景を見ることがあるが、ずいぶんと贅沢な気分になる。白金とダイヤモンドのランデブーのような競演だ。

 明星といえば、子どもの頃一番星を探したものだ。秋の夕暮れはつるべ落としというが、夕焼け空が消えかかる頃一番星がまたたいた。やがて二番星・三番星、そして夕ご飯を済ました頃は満天の星空だった。

 満天の星空といえば、夏の天の川の美しさは見あきることがなかった。田んぼに水を引く用水路が育てるのか、ホタルもいっぱい飛び交い地と天とが輝いた。

 そらの風景が好きなくせに、星座についてはまったく無知だ。ひしゃくの北斗七星だけは分かるが、他は知らない。あれだけの星から星座を見いだそうとするのは至難の業の気がする。複雑な数学の前で、はじめから背を向ける気分と同じだ。ただ美しくあればそれだけでいい。 

 朝の散歩をすると、日の出の違いを思い知らされる。同じ時間に歩いても、いつの間にか空の色が違ってくる。毎日見ているのに、ある日突然そらの色の違いに気がつく。

 朝焼け・夕焼けも千変万化、当たり前であるが雲の高低やたなびき具合で刻々と違う美しさを見せる。日の出・日の入りが創り出す絶妙の風景だ。

 東に真っ赤な太陽が姿を見せる頃、西には蒼天のなかに満月が残っていることもある。月の軌道や満ち欠けの関係でめったに見られない風景だが、早起きのご褒美というところだろう。

     美しいそらの下で
 高村光太郎詩集・智恵子抄の「あどけないはなし」は「東京に空がないといふ、本当のそらが見たといふ・・」という言葉からはじまる。初めてこの詩の一行にふれたときはスモッグのそらを嘆いているのか思ったが、時代的にはまだそれほどの公害はなかったろう。しかし日本の高度成長期は明らかにそらをなくした。今も高度成長を急ぐ国はそらを失っている。なんのために生産するのか?本末が転倒し、人間の生というものを犠牲にしている。幸せなことに、そんなそらは見たことがない。息の詰まるような空の下では生きていけない。

 山歩きなどに出かけると、新緑と風と蒼天の美しさにいやされる。みどり溢れる山の美しさを「山笑う」という。この表現は、美しいそらとその人の幸せも表しているように思う。だがこんな風景だけではない、世界はまだ愚かな戦乱の中にある。いたいけない子どもたちの嘆きが心に刺さる。この蒼天と続く向こうのどこかでは、子どもの血と涙が流れている。戦争など許してはならない。憲法9条が世界で輝き、誰もが心置きなく美しい空を見上げる日々でなくてはならない。
 戦場に つづく蒼天 山あるく
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