哲学講座「時代を哲学する」 第10講「時代を哲学する」①

投稿日: 2019/06/27 7:24:00

この講座は「時代を哲学する」と題して、「君たちはどう生きるか」に始まり、「日本が売られる」まで9講を重ねてきた。そのなかで明らかになったことは、現代は社会変革の時代であるということだった。志位委員長は、念頭の挨拶で、今年を「日本を変えるたたかいの年」と位置づけた。この講座の最後の3講は、果たして「日本は変わるのか」をテーマに締めくくりたい。

日本共産党は、「国民が主人公」の立場から、国民の多数の支持を得て民主連合政府を実現するという、多数者革命の道を歩んでいる。しかし安倍政権は、ウソと強権で、国民世論に背を向け、9条改憲、消費税10%、原発再稼働、辺野古埋め立てなどを強行しようとしている。アベ政権を打ち倒す以外に日本を変えることはできないが、果たしてそれができるのか、を哲学的に解明してみたい。

エンゲルスは、1891年6月、「もし、なにか確かなことがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級とが支配権をにぎることができるのは、民主的共和制の形態のもとにおいてだけ、ということである。この民主的共和制は、すでに偉大なフランス革命が示したように、プロレタリアートの執権のための特有な形態ですらある」(全集㉒P241)とのべた。つまり、民主的共和制のもとで、プロレタリアートの執権が実現されれば、労働者階級は議会の多数を得て、政権の座につくことができるというものである。この見解の背景には、1871年のフランスで経験した「パリ・コミューン」がある。

しかし、普通選挙の民主的共和制で、人民が多数をにぎることは容易ではない。エンゲルス自身も、民主的共和制のもとでも、資本主義の国家は「資本が賃労働を搾取するための道具」(全集㉑P171)だと規定している。資本家階級は、その権力を行使して、多数を占める労働者階級と国民をいくつにも分断して支配するからである。フランス革命を経験したヘーゲルは、「世論は尊重にも、軽蔑にも値する」(『法の哲学』318節)として、人民という言葉は「定形のない塊」(同303節)にすぎないと、述べている。また『社会契約論』でフランス革命を理論的に準備したルソーは、人民主権国家を唱えながら、それを導く「立法者」の発見は困難だとした。

これに対し、マルクスは『資本論』のなかで、資本主義の矛盾によって、「訓練され、結合され、組織される労働者階級の反抗もまた増大する」(『資本論』④P1306)と述べた。資本主義の生み出す労働者階級の側の貧困と抑圧の蓄積は、労働者階級の反抗を増大せざるを得ないという法則性が支配すると考えたのである。労働者階級の反抗の増大は、条件が整えば、分断された人民は一つにまとまり、多数者革命を実現しうる。その条件となるのがプロレタリアートの執権である。

ルソーは、人民主権の政治を実現するには、人民が「真にあるべき」(一般意思)政治のもとに一つにまとまることが重要だと考えた。しかしヘーゲルもルソーも、一般意思は、人民のなかから生まれなければならないと同時に人民のなかから生まれることはできないという矛盾に苦しんだ。「多数決は必ずしも真ならず」なのだ。その矛盾を解決したのが、マルクス、エンゲルスのプロレタリアートの執権(プロ執権)だったのだ。

マルクス、エンゲルスは、1850年代から、資本主義から社会主義への過渡期の権力として、プロ執権を主張してきたが、エンゲルスは1871年のパリ・コミューンを目の当たりにして、「あれがプロレタリアートの執権だったのだ」(全集)⑰P596)と叫んだ。パリ・コミューンは、歴史上初めての普通選挙制によって選出された労働者階級の権力であり、労働者階級は中間階級を導いて「人民による人民の政府」(全集⑰P323)を実現したのであった。エンゲルスは、パリ・コミューンのどこにプロ執権を見出したのか、プロ執権とは何なのか、それが問題であり、第11講でそれを検討したい。