遅すぎた話

かたん。かたかた。自分以外、誰もいないはずの部屋、背後のテーブルからの物音に、取り掛かり始めたばかりの書類を端に寄せ、恐る恐る振り返る。テーブルの上には、ウィスキーの瓶と、グラスが二つあるだけだった。瓶が誰も触れていないのに小刻みに震えているのを除けば、至って普通の応接スペース。

まただ。今夜もまた、彼がやってきた。

私は仕事用の作業机から立ち上がり、ウィスキーの瓶の側、ソファーに腰を下ろした。震える瓶を手に取って、二つ並べたグラスに注ぐ。片方のグラスを、動かないもう一つのグラスに寄せて、誰もいないのに、小さな声で、乾杯、と口にした。

焼けるような熱さの液体を喉の奥へと流し込む。もう片方のグラスは、先程のウィスキーの瓶のように小刻みに震えて、中の液体が揺れていた。

親友を亡くして、弟を失った後、オステカの街に戻って、何もかもどうでも良い気持ちをどうにかして押し殺し、がむしゃらに働いて、そうしているうちに、この現象が始まった。夜、一人でいる時に、目に見えない何かが私の元を訪れるのだ。彼が何者なのか、心当たりは二つ。親友か、弟か。だが、私を叱咤激励して死んでいった弟が、未練を残してやって来るとは考えられず、きっと前者であろうと予想した。果たしてその予想は、薄暗い廊下の鏡に映る彼の姿が視界の端に入った時、正解であったと知ることになる。

薄暗い廊下であることを差し引いても青白い顔色の彼は、胸から血を零しながら、虚ろな目をして私の後ろに立っていた。しかし、不思議と恐ろしくは無かった。彼が私の元を訪れる理由も理解出来たし、もし取り殺されるとしても、それは仕方のない事だと思ったからだった。だが、そうはならなかった。彼は何も言わず、ただ、私の側にいるだけ。悪さをする訳でもない。夜であっても、明るい場所では姿を見ることも出来ない。ただ、私を見張っている――そんな感じだった。

今日も、根を詰めないようにと、警告しているようなタイミングで、ウィスキーの瓶が揺れだしていた。似たような事はいくつもあって、私が危険な目に合いそうな場所へ行こうとすると、何かしらの邪魔が入ることは、一度や二度では無かった。それに従ってみると、その後で事故や強盗、殺人があったりする。周囲からは運が良かったと言われるが、それは、彼が私を守ってくれたからだと言うことを、私だけが知っていた。

だから私は、普段の御礼も兼ねて、毎晩二つ分のグラスを用意して、彼からの警告を待っているのだ。きっと彼は苦笑して、怒られないと息抜きも出来ねェのか、と呆れるだろう。だが、彼が心配しなくても済むような働き方をしてしまえば、もう彼は私の元へやって来てくれないような気がして、怖いのだった。

彼が生きている間に出来なかったことを、彼が死んでから出来るだなんて、なんて寂しいことだろうと、思わなくもない。だが、ずっと、彼とこうして一緒に過ごしたかった私にとって、今の暮らしはあまりにも救われすぎている。手放せない。手放せるはずがない。

本来生まれ変わるべき彼の魂が、この世界に捕らわれたまま彷徨い続けることになったとしても、それが神が定めた摂理に逆らうものであっても、私が死ぬまでの、あと数十年の間くらいは許して欲しい。そうでなければ、私も彼も、救われなさすぎるから。

少しずつ中身を減らしていく二つのグラス。このかけがえのない時間を惜しむように、私はもうひとくち、琥珀色の液体を飲み下した。

終わり

wrote:2017-09-18