食べちゃいたくなるくらい、好き。そんな決まり文句が冗談にならないあたり、自分に与えられた役割というのは、罪深い。
ギグを喰らったらどうなるのか、考えなかった訳じゃない。それは、この世界の死を統べる者がいなくなるということ。いや、もしかしたら、俺がギグに代わって統べる者になるのかもしれないけど、それが良いこととは言えない、と思う。
それでも、喰らったらいけないということをわかっていても、ギグを見る度に、触れる度に、強烈な飢餓感が腹の底から湧き上がってくるのだから、たまらない。
このまま噛み付いてしまいたい。甘くて生臭い肉を食い千切りたい。我慢しようと思っていたけれど、思いの外早く、限界がやってきてしまった。
それを自覚したのは、情けないことに、ベッドの上で睦み合っている最中、ギグに噛み付いて、驚いたギグにこれでもかと殴られた時。てめェふざけんのも大概にしろよ、と凄まれて、鼻血なんだかギグの肩から滲んだ血なんだかわからなくなったものを拭って、そこでようやく気がついた。完全に、意識を飛ばしていたらしいことに。
口の中に広がる甘い甘い赤い蜜。それが例え数滴だったとしても、狂ってしまいそうなくらい飢えているところに、そんな甘露を味わってしまったらどうなるか。とんでもないことをしてしまったと気付いたところで、止められるはずもない。
「ギグ、ごめんね」
「……? な、んだよ、何、笑って……」
ギグからしたら、気落ちして大人しく謝るもんだと思っていたに違いない。それなのに、俺はそれとは全く違う顔をしていたのだから、ギグが狼狽えるのも無理はなかった。謝っているのは同じだが、正気を失った俺は、怒ってこちらを睨みつけるギグに、優しく笑いかけていたらしい。
良い匂い。甘い、匂いだ。赤い果実にこれでもかと砂糖を加えて煮詰めたような、美味しそうな匂い。ギグの左肩から滲んだそれに、俺はふらふらと口を近づけた。まるで、飢えた蜜蜂のように。
「ぅああああああッ!!」
ベッドの上で後ずさるギグの肩を掴まえて、赤い蜜を湛えたそこに、俺は思い切り噛み付いた。
ギグの絶叫が、静かな寝室に鳴り響く。口の中には、こりこりとした骨の感触と、甘い甘い血の匂い。そして、とろけるような肉の味。
「はあ、あ、あ……」
食い千切った肩の肉を咀嚼しながら、俺は只管満たされた気分になっていた。どこまでも広がる荒野で、ようやく一杯の水を飲み下したような。あまりの美味に、ギグがどんな顔をしているか、どんな気持ちで俺を見ているかを、俺は頭の片隅に追いやった。ギグに突き飛ばされるまで、俺は恍惚として、何も考えられなくなっていた。
「て、めェ……! どうして、なんで、こんなことを……ッ!」
食い千切られた肩を押さえながら、ギグは泣きそうな顔でこちらを見ていた。慰めようと思った訳じゃない。そんなことをする資格は俺にはもう、ないのだから。それでも、口をついて出たのは、もう何度言ったかわからない愛の告白だった。
「……ギグ、好きだよ」
「……ッ! なんでだよ、相棒。どうしちまったんだよ、おかしくなっちまったのかよ」
それを聞いたギグは、明らかに傷ついた顔でそう言った。ああ、駄目だ。ギグ、泣かないでよ。ギグの泣き顔なんて、ようやく再会できた、あの時以来じゃないか。そんな顔をされたら……余計に、我慢がきかなくなっちゃう。
「多分、違うと思う。本当は、ずっと、こうしたかった」
俺は、ギグが零した涙をそっと拭いながら言った。肩を押さえたせいで血まみれになった指を、そっと取り上げる。
「ごめんね、我慢、出来なかったみたいだ」
軽くギグの赤い指先にキスをすると、ギグは、もう一滴、ぼろりと涙を零した。
抵抗しようと思えば出来たはずなのに、ギグはそうしなかった。
月明かりに照らされた寝室で、俺は只管ギグを貪った。何処を食べても美味しくて、甘くて甘くて仕方ないはずなのに、いくら食べても食べ飽きない。シーツに血が染み出すのさえ勿体なくて、舐め取りやすくするために、ギグの半身をずるりと床に転がした。
微かに呻き声を上げるだけになったギグだけど、その青い瞳は俺だけを見つめている。綺麗だ。俺は時折、血で汚れた銀の髪をそっと梳いて、ギグの瞼にキスを落とした。最後まで見ていてね、という気持ちを込めたり、やっぱり見ていてほしくないな、という気持ちを込めたりしながら。
最後の最後に、抉り出した瞳を二つ、つるりと喉の奥に押し込むと、そこでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。ギグはもう、いなくなってしまったんだ。俺が、全部、食べ尽くしてしまったんだ。
この世界を守るために戦った俺が。同じく一緒に戦ってくれたギグを。この世界を裏切ってまで、喰らってしまった。
「はは……あは、あははははははッ」
世界を裏切って、ギグの全てを奪ってしまった。大好きだったものを、愛してやまなかったものを、喰らい尽くしてしまった。
身体の中にギグらしい力を感じはするけれど、それはギグと融合した時のようなものじゃない。バラバラになって、欠片になったギグが、身体のそこかしこに散らばっているような感じだった。
「……あ」
視界をちらりと横切る銀。これは、もしかして。慌ててランプに火を灯し、洗面台へ駆け出した。
なんだ、俺が、ギグになっただけなのか。鏡に映る自分の姿を見て、そう思った。銀の髪と、青い瞳。両肩に浮かぶ、黒い何か。顔立ちは違うけれど、俺は確かに、ギグに良く似た姿になっていた。俺は、ギグという存在そのものまで奪ってしまったらしい。
「……だったら、どうだって言うんだろうね」
ギグを喰らいたい。大好きで愛してやまないギグを喰らいたい。そう思ってこの凶行に及んでしまったというのに。俺の望みはもう達成されたんだから、もう、どうだって良いのに。
「つまんないな」
もうこの世界に、欲しいものなんて、何もない。したいことも、何もない。
俺は寝室に戻り、床に突き立てたまま、もう随分と触っていない、あの剣を手に取った。
久々だ。うまく出来るかな。思い出せ。ギグの力を開放する、あの感覚を。
「……黒の剣に宿りし力よ、処在る身体に姿を写せ。破戒」
ああ、懐かしいな。まるであの時に戻ったみたいだ。ギグと融合していたあの時。もっと、ずっと、あのままでいても良かったかも知れない。
崩壊していく世界をぼんやりと見つめながら、俺は最後に見た、ギグの青い瞳を思い出していた。
終わり
wrote:2015-07-01