奪われたシャツ

いつもより随分と遅い時間に目を覚まし、なんとなく重い頭を抱えながら身体を起こす。同じベッドには、親友がすうすうと寝息を立てて惰眠を貪っている。私は休日だけれど、彼は今日も仕事のはずだ。私の記憶が正しければ、彼の店は三十分前に開店している予定であり、実際は開店前に取引先の自販機を回って在庫の補充をしなければいけなかったように思うのだが。

しかし、気持ち良さそうに眠っている彼を起こすのも気が引けて、たまには良いだろうと、彼を起こさないようにそっとベッドを抜けだした。もしかしたら、今日は元々休みのつもりだったかも知れないのだ。その可能性は限りなく低いように思われるけれども。

物音を立てないように、衣装箪笥から衣服を取り出して身に付けた。まだ彼が起きる気配はない。そっと寝室のドアを開けて、部屋の外に出る。予定よりも長い時間眠ってしまった。一週間の疲れと、久しぶりに泥酔してしまったことと、昨晩、随分と遅くまで彼と睦み合ってしまったせいだ。一つ伸びをして、私は台所へ向かった。

台所、という名目ではあるものの、私しか住んでいないこの家では、大して活用もされていない場所の一つだ。殆どコーヒーを入れる為にしか使われていない場所。

やかんに水を入れて、ガスコンロに火を点ける。換気扇をつけて、湯が沸くまでの短い間、ゆっくりと煙草を吸うことにした。ああ、頭がすっとする。ようやく目が覚めたと同時に、昨晩のことが思い出されて、妙に気恥ずかしくなった。

昨晩は互いに酔っていた。どうにか記憶に残ってはいるものの、殆ど自分で何を喋っていたのかわからずに、べらべらと有る事無い事言い合って、気が付くとベッドにもつれ込んで――。

ぐりぐりと灰皿に吸いかけの煙草を押し付けて、食器棚から二つ、マグカップを取り出す。ドリップコーヒーの袋も同じく二つ。沸いたやかんからマグカップに半分ほど湯を注ぎ、シンクに捨てる。温まったマグカップにドリップバッグを引っ掛けて、少しずつ湯を注いだ。立ち上るコーヒーの香り。嗅いでいるだけで眠気が覚めるような気がする。しまった、彼の好みはモカだったか。まあ良い。どうせ二日酔いで味なんてわからない。

コーヒーを入れ終わる頃、ギィ、と台所のドアが開いた。

「起きたのかい、ロド」

「ん……頭痛ェ」

「あんなに呑むからだ」

「アンタも同じくらい呑んだだろ」

ロドはドリップバッグを取り外す私の側まで来ると、入ったばかりのコーヒーのマグカップに手をかけた。一口啜って、苦さに顔を顰める。

「いつものじゃねェのかよ」

「二日酔いの癖に、そういうのは気付くんだな」

ぼやく私を無視して、ロドは勝手知ったる人の家とばかりに冷蔵庫を開け、中から牛乳を取り出した。一口分減ったマグカップに覚束ない手つきで牛乳を注いで、仕舞う。ついでに煙草に火を点けて、さもうまそうに煙を吐き出した。

「というか、その服は私のじゃないのか」

「あー? 仕方ねェだろ、着替え忘れたんだよ」

ロドが身に着けているワイシャツは、どう見てもいつも着ているよれたそれじゃない。おろしたての私のワイシャツだった。大方箪笥の中から引っ張りだしたのだろう。

「脱いだヤツは置いとくからよ、洗濯頼むわ」

「全く……勝手だな」

「今更だろ?」

ロドは私の皮肉なんてどこ吹く風で、ニヤリと笑って灰皿に灰を落とした。この遠慮の無い年下の親友は、こうしていつも好き勝手をする。その変わらない態度が心地良くもあって、それぞれ別の道を歩んだ今でも付き合いが続いているのだが。

「それより仕事は良いのか」

「ああ? 仕事だから良いシャツ借りたんだっつーの」

なんと返事をしたら良いのかわからない。仕事だったらもっと早起きをしろだとか、どうして大遅刻をしておいてそんなに飄々としていられるんだとか、だったら自分で良いシャツを買えだとか。彼の仕事ぶりに口を出す気は無いが、一応そちらに商品を卸している手前……いや、止めよう。不毛だ。

「しっかし昨日は本当に呑み過ぎたな……殆ど記憶ねェわ」

「……そうか」

「なんか変なことしてねェだろうな」

「……さあな」

頭を掻きながらぼやく親友に、私は生返事しか返せなかった。確かに覚えていなくても仕方ないけれども、あれだけ可愛らしく私におねだりをしておいて、翌日綺麗さっぱり忘れているとは……随分と都合の良い頭をしているものだ。

ロドは煙草を揉み消して伸びをすると、飲みかけのコーヒーを一息で飲み干した。牛乳で温まってはいただろうが、一気飲みをするにはまだ熱いだろうに。案の定ロドは胸を押さえて、苦しそうにしていた。目は覚めただろうが、いかにも胃に悪そうな飲み方だ。ともあれ、一応、真面目に仕事に行くらしいことに安堵する。

ロドのことばかり気にかけてはいるものの、実のところ、私の方もこれから一箇所回る取引先がある。あまりのんびりはしていられない。私も冷めかけたコーヒーを飲みつつ、時計に視線をやった。そろそろ身支度をする時間だ。

「アンタもそろそろ出かける時間か」

まだ眠そうにあくびをしていたロドだったが、私が時計を見たことに気付くと、途端に真面目な目付きになった。

「ああ。夜には戻るがね」

「そうか。……これ、夜になったら返しに来るよ」

「……着替えは持って来いよ」

来る度に私の部屋から服を持って行かれたんじゃあ、流石に困る。ロドは笑って、考えとく、と返しただけだった。この調子じゃあ、期待出来そうにない。

台所に置きっぱなしだった小さな鞄を手に取って、ロドは怠そうな足取りでドアへと向かいながら、じゃあ、また後でと言った。煙草を吸いかけの私は、ああ、と答えただけ。それを見たロドは、ふっと笑って、つれねェな、とぼやいた。ぱたんと閉まるドアの音。私はふう、と煙草の煙を吐き出した。

つれないも何も無い。ヒトの家で好き放題しておいて。それに、一々朝っぱらからベタベタするような間柄でも……それは無いとは言えないか。遠慮の要らない関係ではあるけれど、子供じゃないんだから――。

はた、と気付いて、私は煙草を灰皿に置いて、慌ててロドを追いかけた。

「おい、まさか下着まで借りたんじゃないだろうな!」

台所のドアを勢い良く開け、玄関先で靴を履いて、外に出ようとするロドに叫ぶ。こちらを見てニヤリと笑うと、ロドはそのまま外へと出て行った。冗談だろ、おい。流石にそんなものまで貸す気にはならない。からからと笑うロドの声が、玄関のドアに遮られて、すぐに掻き消えた。

ああもう、いっそ、昨晩の痴態を事細かく教えてやろうか。自分がどれだけ恥ずかしく甘い愛の言葉を叫んだかということや、何度も気を遣って、言葉らしいものを発せなくなっていた癖に、それでも私を離そうとしなかったこととか、そういうことを。

それに丁寧に付き合ってしまうあたり、自分も大概だとは思うのだが、それはつまるところ、ロドが余りに私を煽るせいだ。私はそんなに悪くない。それに――あんなことを言われたら、男なら誰だって。

台所に戻った私は、灰皿に置いたまま、少しだけ短くなった煙草を深く吸った。これを吸ったら、私も出かけなければ。ゆっくりと煙を吐いて、寝室へと戻る。偶然とは言え着ようと思っていたシャツを取られてしまったし、別のものを見繕わなくては。

寝室に戻ると、乱れたままのベッド、酒の甘ったるい匂いと、煙草の香りで満たされた空間が私を出迎えた。寝室を出る時は気にならなかったが、ほんの少しだけ香る性的な臭いに、せめて窓を開けておけば良かったと後悔した。片付ける時間も惜しい。箪笥から服を出して身に付けながら、改めて辺りを見回した。床にも昨晩脱ぎ捨てた衣服が散らばっていて……そこには当然、ロドが着ていたシャツもしわくちゃになって落ちている。ああもう、洗濯しておけ、だと? これから出かけるって言うのに、いつも勝手ばかり。

身支度を終えて、とりあえず洗濯機に放り込んでおこうと、床に落ちたそれを拾い上げた。ふわりと香る、ロドの体臭。くらりと頭が酔いそうになる。いい匂いでは決して無いのに、嗅ぎ慣れたそれは、殆ど条件反射で胸を高鳴らせてくるのだから、参ったものだ。

なるべくその香りを嗅がないようにしながら、私はロドのシャツを隣の部屋の洗濯機にぶち込んだ。とっとと回してやりたいが、そういう訳にもいかない。急いで靴を履き、玄関のドアを開けて、ふと、誰もいなくなった家の中を見た。

――何を考えてるんだ、私は。本当は、ロドに見送って欲しいだなんて。出迎えて欲しいだなんて。昨晩のベッドの上でのやり取りに、どこまで引きずられているんだ、私は。

玄関のドアを閉めて、鍵をかける。太陽は高く上り、秋の涼やかな風が吹いていた。今は暖かいが、夜になるときっと冷えるだろう。どちらが先に戻るかわからないが、出来ることなら、たまにはロドの方が先に家で待っていて、部屋を暖めてくれていたらと思う。きっと、早くロドに会いたいと、急いで仕事を済ませてしまうのが目に見えているけれど。

車に乗り込んで、エンジンをかける。ああ、そうだ。仕事が早く終わったなら、ロドを迎えに行っても良いか。朝から苛ついたせいか、早く顔が見たくて仕方ない。人通りの少ない昼下がりの路地。車を走らせながら、私は今夜のロドはどんな顔を見せてくれるかと、こっそりと期待した。

終わり

wrote:2016-09-24