欲しくない言葉

生後数ヶ月程度の赤ん坊を腕に抱いて、俺は静まり返った夜の街を歩いた。深夜。治安が悪い街という訳では無いが、こんな夜中に出歩くような馬鹿は、今この世界には殆どいない。かく言う俺だって、ジンバルトを連れていなければ歩きたくは無い。唯でさえ、こんな弱々しい赤ん坊で両腕は塞がっているのだから。

豪勢な屋敷の前では、家主が寒さに耐えながら俺たちを待っていた。初老のセプー。セプーの癖に珍しく、こいつは裕福な生活を送っているらしい。嫁らしい女は見当たらない。

ジンバルトが無言で手のひらを差し出すと、そいつは重くなった黒い袋を手渡した。ジンバルトは袋を開けて中身を改めると、すぐに袋の口を閉じ、懐に仕舞う。軽く頷いたジンバルトを見て、俺は抱えていた「商品」を目の前の男に差し出した。ぎこちない手つきでそれを受け取った男は、一言、ありがとう、と消え入りそうな声で呟いて、俺達に背を向けた。

ばたん、かちゃり。扉が締まり、鍵をかけられて、俺達も、屋敷に背を向けた。ありがとう、だってよ。やっと自由になった両手を伸ばしながら言うと、ジンバルトは無言で歩き出した。

「馬鹿馬鹿しい。ただの買い物だってのに」

ジンバルトの背中に向けて言う。ジンバルトは何も言わないままだった。

子供を欲しがる奴がいる一方で、当然、欲しくもない子供が出来る奴もいる。それを買い取って商品にするのは、とんでもなく利回りの良い仕事だった。子供が要らないなんて言う奴は揃いも揃って貧困層の奴らだから、はした金でさえ喜んで子供を売る。子供が、それも生まれたばかりの子供が欲しいと言う奴は、大抵跡取りが欲しいのに子供が出来ない富裕層だ。だから、いくらでも金をふっかけられる。

まあ、誰も損しないビジネスではあった。そう、ただのビジネスであって、ただの取引だ。だから、ありがとう、なんて。

「おい、ついたぞ」

気がつけば、街外れに停めていた馬車のところまで戻ってきていた。部下が降りてきて、車体のドアを開ける。中に入って、俺は丸一日ぶりの煙草に火を点けた。中に淀んだ煙が漂って、ジンバルトが顔を顰める。くっくっと笑って、俺はジンバルトに煙草を一本投げてやった。嫌そうな顔でマッチを擦るジンバルトがおかしくて、俺はまた笑った。

俺には世界を変えられない。クソの掃き溜めみたいな世界で、汚い金をかき集めて食っていくしか無い。それなのに、感謝されたって馬鹿馬鹿しいだけだ。

今そこで馬車を走らせている部下も同じ。露頭に迷って死にかけていたセプーに仕事と食い扶持を与えて、感謝されて慕われたとしても……嬉しくない訳じゃないが、それは真っ当な手段で成したことじゃない。

今日の取引相手だって、後ろ暗い気持ちを誤魔化すために、上辺だけ感謝したに過ぎない。あの赤ん坊はきっと、跡取り息子だと信じこまされて、それなりに幸せで裕福な生活を送るだろう。それはきっと、底辺で酷い生活をしている両親と暮らすより、ずっと幸せな生活だ。でもそれは、売られた事実と買われた事実に目を瞑ることが前提の、上辺だけの幸せ。

俺があんな生まれで無かったら、人殺しで無かったら、真っ当に働けていたら。きっともっと、周りを幸せにしてやれて、心から感謝される存在になれていたに違いない。

裕福な家に生まれて、犯罪なんてものとは縁遠くて、商人として成功した、どこかの誰かとは大違いだ。あいつなら、きっと俺よりも――。

煙草をふかしながら、森までの舗装された道を進む。少しずつ白んでいく空。そろそろ馬車を乗り捨てて、身を隠したほうが良い時間だ。もう商品もいないし、多少荒れた道を歩いても構わない。赤ん坊は金にはなるが、酷く手間がかかるのが難点だった。子供なんて、欲しいと思ったことさえ無い。それなのに、商品として取り扱っているせいでやたらと扱いにだけは慣れてしまったのが腹立たしかった。

部下に馬車を止めさせて車から降りる。森まであと二、三キロといったところ。朝日から逃げ隠れるように、俺たちは暗い森の奥へと向けて歩き出した。

終わり

wrote:2016-10-01