とらわれのかみさま

ようやく真っ当な主を得て、初めに命じられたのは、地下に捕らえられている男の世話だった。

朝昼晩、食事を届ければ良いだけだと言われ、そんな程度で人は生きていけるのかと困惑したものの、わかりました、以外の返事が出来るはずもなく、私は了承した。

曰く、その男は余りに危険で、殺す事も出来ずに監禁しているのだそうだ。何故殺せないのか気にはなったが、きっと私が考えつく手段など、すでに試され尽くされていたに違いない。そうでなければ、こうして監禁し続けることになんてならないだろう。

食事を渡すための小さな扉があるから、そこに食事の乗った盆を置くだけで良い。渡す食事も、最低限の質素なもので構わない。そして、何を言われても、決して返事はしてはならない。彼の言葉は、獣の鳴き声程度に思って、関心を持ってはならない。

命じられたのはそれだけだった。それはもう、男の世話というよりは、本当に獣の世話ではないか。そう思いながらも、きっとそうする理由があるのだろうと、どうにか自分を納得させて、私は主の話を聞いた。そうでなければいけない。私にはこの新しい生活で、どうにか身を立てなくてはいけないからだ。

両親を失い、碌でも無い師匠に付き従って、やりたくもない仕事をしてきた私が、ようやく得たチャンスなのだ。師匠が不運な事故で――そう、あれは本当に運が悪かっただけだ――死ななければ、私は今でも汚れ仕事に近い事をして生活していただろう。この主は善人だ。大商人らしい厭らしさが無く、私のような来歴も定かでない若造を雇い、後ろめたくない仕事を与えてくれた。報いなければ。自分の生活のためでもあったが、この人のためにやり遂げたいという気持ちで、私はその不思議な仕事に臨もうと決意した。

その後、一通り屋敷を案内されて、最後に連れて行かれたのが、一階の奥、倉庫へ続く廊下だった。何もないように見えるそこで、主は足を止めた。

「……どうかされたのですか」

「ここに、例の男を捕らえている地下への入り口がある」

主は鍵の束を取り出し、壁に向かって手を伸ばした。白い壁を軽く押すと、小さな板が飛び出し、そこから鍵穴が現れた。なるほど、知らなければ誰も開けようとはしないだろう。主はそこへ小さな鍵を差し込んで回すと、小さな、人一人がやっと通れるような幅の扉が開いていく。

「この奥に、彼がいる。階段を降りた先だ。行けばすぐにわかる」

「……今は」

「……必要が無い時以外は、行かないようにしているものでね」

やんわりと、彼の側まで連れて行ってもらう事は断られてしまった。それ程、顔を合わせたくないような相手なのだろう。一体どんな怪物が潜んでいるのか、考えるだに恐ろしい。

鍵は君に預けよう。もうすぐ昼になる。頼んだよ。他に仕事がある時は、食事を与えなくても構わないし、遅れたって気にしなくていい。主はそう言って、私に小さな鍵を渡した。鍵をかけて、板をもう一度被せて押し込むと、そこはもう、どこにあったかわからないくらい、ぴったりと壁に溶け込んだ。

「彼に食事を届けて、一休みしたら、また私の所に来てくれ。頼んだよ」

その言葉に頷いて、私は主と別れ、食堂へと向かった。

教わったとおりに隠し扉を開け、その奥へと私は進んだ。質素だがパンとスープ、果物を載せた盆を手に、扉を閉めて内側から鍵を掛ける。急な階段を降り、薄暗い石畳の廊下を歩く。ランプや松明のような灯りらしい灯りは無いが、壁に埋められた鉱石がぼんやりと、頼りなくこの地下を照らしている。おかげで、足元には不安は無かった。と、ほどなくして、鉄格子が降りた、開けた空間が広がっているのが見えてきた。仄かな灯りに照らされて、そこに誰かがいるのがわかる。床に座って、こちらを向いている金の瞳と目が合った。彼が、主が言っていた男に違いない。だが、あれはどう見ても――。

「ん……? 今日はいつものおじさんじゃないんだね」

「……あ」

――返事をしてはならない。

余りに自然な、世間話をするような口調で話しかけてくる青年に、思わず言葉を返しそうになって、慌てて飲み込む。駄目だ。彼を見てはいけない。だって、彼の姿をまじまじと見つめてしまったら、魅了されてしまいそうで――。

「アンタは男? 女? 余りに綺麗な顔だからわからないなあ……背が高いから、男かな? この食事、いつもより豪華だね。アンタが作ってくれたの? ありがとう。見ての通り、ここは退屈でね――代わり映えしない食事ばかりだったから、嬉しいよ。ついでに、何か暇つぶしになるようなものでも持ってきてくれたら嬉しいんだけど……。本とかさ、駄目なのかな。あれ、もう行っちゃうの? そう、じゃあ、またね」

私は言われたとおり、空の盆を受け取り、食事の載った盆を受け渡し口へ差し出して、彼と一言も交わさずにそこを出た。それだけなのに、彼は延々と喋り続けた。獣の鳴き声と断じるには、余りに耳障りの良い、本当に普通の青年にしか感じられない話し方。

薄暗いとは言え、多少の灯りのある空間でいてもなお、金に輝く瞳。血のように赤い髪。美しい青年が、質素な服を着ただけの、枷も何もない姿で、そこにいただけだった。とても、ここに捕らわれるような大罪人には思えない。いや、だからこそ危険なのか。一度目が合っただけで、これだ。奇妙なまでに心を惹かれて、彼のことをもっと知りたい、理解したいと思わされている。

主の忠告を忘れた訳ではなかった。それでも、いつかそれを破ってしまいそうな予感が、この時すでに私の中に渦巻いていた。

地下から戻り、主の部屋へ行き、顛末を話すと、やはりというかなんというか、何を言われても気にしないことだ、と助言を受けた。彼は危険なんだ。殺そうとしても殺せない。ああして閉じ込めておくのが一番だ。口車に乗せられて、おかしくなる者もいる。君はそうならない、冷静な男だと思ったから頼んだんだ、と。

主のその信頼はありがたいが、それは全くの見当違いだったと言って良いだろう。私は冷静でも何でもなかった。いや、普段であれば冷静でいられる自信はあったのだが、あんな、この世のものとは思えない、美しく冷酷で危うい生き物を目にしては、いつまでその決意が続くのか、いかにも怪しかった。

それから私は、主の言いつけ通り、朝昼晩の食事を届け、彼とは目を合わせないように努め、そして何より、一言も喋らずに過ごしていた。それでも、彼が自分からあれこれ話すおかげで、彼のことを随分と知る事が出来た。

自分ははるか昔からこの世界にいて、この姿のまま変わらないこと。何人もの人が自分を殺そうとしたけれど、その度に相手を殺してきたこと。それでも何度か殺されたことはあったけれど、すぐにまた生まれ変わって、同じ意識を保ったまま、この世界に現れる存在であること。何処に生まれ変わるかわからないよりも、一箇所に縛り付けて置いたほうが安全だと判断されて、ここ何百年かは、こうしてここに捕らわれたままであること。

彼の話は、どこまでが真実か、どうにも判断しかねる内容だった。そんなおとぎ話のような話、はいそうですかと信じられるものでもない。

「外の世界は今どうなってるのかな……ねえ、教えてよ。俺のこと、沢山話したでしょ」

一通り自分のことを話し尽くすと、彼は今度は、外のことや、私のことを知りたがった。やはり私は返事をしないまま、用が済めばすぐに背を向けて帰るだけの日々を続けていた。だが、何を尋ねても黙ったまま去っていくだけの私に、それでも彼は楽しそうに笑って、またね、と言うのだ。

それからまたしばらくして、私は主とともにしばらく街を離れることになった。一週間の、取引先の街の領主への挨拶と言った所だった。もちろん、ついでにたっぷり商品の売り込みもしてくるのだが。それはそれとして、気になったのは当然、彼の事だった。主に、彼の食事はどうするのでしょうと尋ねると、一週間程度なら、食事させなくても死にはしないよと返された。

何百年も生きているという話が本当なら、確かに一週間程度飲まず食わずでいたって平気だろう。彼の言葉が真実かどうか、これで判断がつけられるかも知れない。

そんな事を考えながら、それでも少しだけ心配しつつ、私は主と共に街を離れた。

一週間後、オステカの街に戻り、私は休息もそこそこに、彼の元へ向かった。普段より品数を増やし、少し重くなった盆を持って。久しぶりに地下へと続く階段を降りると、予想通りと言えば予想通り、彼がいつもと同じように座ってこちらを見つめていた。

「こんにちは。いや、こんばんは、かな? 随分久しぶりだね。しばらくぶりだから、今が何時だか、よくわからないな……こんばんは、であってる?」

「……」

彼はいつもと変わらない調子で話しかけてきた。一週間も何も口にしないまま、いつも通りでいられるということは、やはり彼は人間ではないのだろう。

「はは、すごい、こんなに沢山食べるなんていつぶりかな……ほったらかしにしてたから、心配だった?」

彼は私の持ってきた盆を見て、嬉しそうに笑い、私の反応を伺っているようだった。

「心配してくれるのは嬉しいけど、俺、一年くらいなら耐えられるよ。そういう風に出来てるんだ。だから本当は、一日三食貰わなくたって平気なんだよ。ねえ、試してみる?」

盆を受け取りながら、彼はそう言った。私は答えない。驚きはしたけれど、それを試す理由も無ければ、主に相談する訳にもいかないからだ。相談すれば、彼の言葉に耳を貸していることが主に露見してしまう。いつも通り、無言でいる私に対して、彼はころころと笑いだした。

「ああでも、そしたら、食事を届けるわけでもないのに、俺に会いに来なきゃいけなくなっちゃうね。ねえ、それってまるで、好きな相手のことが気になって、ただ会いに来てるみたいじゃない? 可笑しいね」

そんな馬鹿馬鹿しいことを話す彼に背を向けて、私は地下を出た。

馬鹿だ、そんなの。あんな化物を、好きになるはずがない。好きになるはずがないのに、気になって気になって仕方がないのは何故だ。去る時、彼はいつも通り、またね、と言った。彼のその甘く冷たい言葉が耳から離れない。ただ義務で、仕事だからしているはずのことなのに、彼の話に乗って、踊らされている気になってしまう。食事を届ければ、彼を心配して食事を届けている気分になるし、食事を届けなければ、ただ彼に会いたくて会いに行っているような気持ちにさせられる。どっちにしろ彼を喜ばせてしまう気がして、私は苦悩した。彼の声を獣の鳴き声と思って過ごせたら、こんなに悩まなくても良いはずなのに、そう出来ない。

私は翌朝も、彼の元へと向かった。いつも持っているはずの、食事を載せた盆を持たないまま。彼が言うように、確かに私は、彼のことが気になって仕方なかったのだ。

彼の意のままに動くようになるのに、それ程時間はかからなかった。食事を運ぶのを止め、彼が求めるままに、何冊か本を差し入れ、その感想を聞いた。唯一、主に言われた通り、彼と言葉を交わさないことだけは守っていたが、それも時間の問題に近かった。まだ、彼が「黙ってないで、俺と話をしてよ」と言わないことだけが、主の言いつけを守る理由になっていたからだ。

彼は、私が絶対に自分と話をしてはいけないと言いつけられている事を知っているだろうし、自分が願えば私がそれを破る事もわかっているはずだった。だからきっと、私が自分の意志で口を開くのを待っているのだ。けれど、そうしてしまったら、いよいよ彼から逃れられなくなる。

だが、そうなったから、どうだというのだ。彼をここから出せと言われたとして、それを叶えるような度胸は私には無い。そもそも、私には彼をここから出す手段など持っていない。彼にいくら懸想したところで、何が変わるわけでもないじゃないか。強いて言えば、彼の生活がほんの少し豊かになるような便宜をこっそりと図るくらいだ。だったら、口をきいたって構わないはずだ――。

そんな誘惑に耐えながら過ごしてから半年。彼の世話を始めてから一年半ほど経った頃、いつまでたっても口を開かない私を見かねたのか、彼はいよいよ、私に返事を求める問いを投げかけた。

「ねえ、そろそろ、名前教えてよ。いつまでも、アンタじゃ味気ないでしょ」

それは、仕事が立て込んで、彼の元へ向かうのが随分と遅くなってしまった夜のことだった。主はとっくに眠っている時間。この屋敷の中で、起きているのはきっと、私と彼だけという、静かな夜。

「……」

私はもう、彼から目を逸らす事は止めてしまった。彼の美しい金の瞳を、燃えるような赤い髪を、氷のように透き通る肌を、薄明かりの中で目を凝らして、その一つ一つを焼き付けようとじっと見つめる日が続いていた。もう、後ひと押しを待つだけの状態で、そんな事を言われたら――。

「知りたいんだ、アンタの事。もっと、たくさん――」

「……リタリー」

私が自分の名を告げると、彼は優しく微笑んだ。

「リタリー、こっちにもっと近づいてよ」

「……ええ」

今まで座ったままの姿でいた彼は、ゆっくりと立ち上がり、鉄格子の側まで歩み寄った。私も彼に倣って、直ぐ側まで足を進める。

「誰かの声を聞くのなんて、何百年ぶりだろう……もっと聞かせて」

きっと、今まで誰も、彼の前で一言も発さずにいたのだろう。もちろん、前の主も。彼は何百年も、誰かの声を聞きたくて、沢山の言葉を投げかけ続けていたに違いない。例え化物だったとしても、人の形をして、人の心を持っているのなら、その境遇に悲しむに決まっている。気が遠くなる程の長い時間ずっと、彼は傷つき続けていたのだ。

「……貴方は、貴方の名前は、何というのですか」

聞かせたい言葉なんて幾らでもあった。その前に、これだけは聞いておかなければと思い、そう問いかけた。あれだけ彼の話を聞いていたのに、私は彼の名前を、今の今まで知らなかった。彼も語ろうとしなかった。私の名前を教えたのだから、彼の名前だって――。

「名前は無いんだ。俺は誰でもない、ただ、こういう生き物なだけだから」

彼は淋しげにそう言って、俯いた。

「すみません。私は――」

「良いんだ。気にしてない。ねえリタリー、触っても良い?」

彼はまるで、親に甘える子供のような、切ない顔をして、私の頬へ手を伸ばした。

「ええ、どうぞ」

私の返事を待ってから、ぞっとする程冷たい指先が、私の頬に触れた。

「ああ……あたたかい、ね」

言葉を交わすのも数百年ぶりと言うくらいだ。きっと、ヒトの肌に触れるのなんて、それ以上に久しぶりだっただろう。彼は感慨深そうに、私の肌に指を滑らせた。その指先が、自分の方へと私を引き寄せるような動きであることに気付いて、私はそれに従って、冷たい鉄格子に触れる程、彼に近づいた。格子の隙間に手を伸ばして彼の体を抱き寄せると、彼は冷たい体を私に預けて、目を閉じた。それが余りに痛々しくて、哀れで、私はたまらない気持ちになった。彼を、一瞬でも構わないから、慰めてやりたかった。

鉄格子越しに彼の唇に触れる。ずっと飲まず食わずで過ごしていたはずなのに、潤ったままの彼の唇は、若者らしく瑞々しく、けれど、やはり氷のように冷たかった。少しでもあたためようと舌を伸ばして、彼の口内へ差し込む。抵抗せず、彼は私にされるまま、それを受け入れた。彼の中は不思議な感触だった。ぬるりと唾液が絡むのは普通のヒトと同じなのに、雪の中へ舌を入れたような、痛いほどの冷たさが私を包む。しばらくそうして彼の中をあたためて、唇を話すと、彼はぎらりと光る金の瞳で私を見つめていた。

「……ありがとう。でも、今日はもう行きなよ。あまり遅くまでいると、怪しまれるでしょ」

いつもすぐ退散してしまう私を気遣ってか、彼が言う。その気持ちは嬉しいが、その気遣いは、今夜ばかりは無用だった。ここに来る途中、しっかりと内鍵は掛けてある。誰も入って来やしない。主が目覚める朝まで、彼と過ごすことだって出来るのだ。

「……今夜は、もうしばらくいられますから」

「本当に? 嬉しいけど、良いの?」

「ええ、構いません」

そう言うと、彼は嬉しそうに、もう一度キスを強請った。それに応えながら私は、これで良かったのかを、あえて考えないようにした。せめて一時でも、彼の慰めになれるなら、なんだって良いじゃないかと思えた。だって、どうあがいても彼はここから出られないし、私に出来る事も、これくらいしかないのだから。

その夜のことは、良く覚えている。世界から切り離されたような地下室で、私たちは何度も唇を重ねた。時が止まったような気さえして、彼に、そろそろ戻らないといけないんじゃない、と声をかけられて、ようやく夜明けが近い事に気付き、部屋を出ていく有様だった。

一晩中口付けをして過ごしていた癖におかしい話だが、私は彼とそれ以上の行為をしようとは思わなかった。そうしてしまうのは、畏れ多い事だと思ったからだ。彼は美しすぎるし、寂しすぎるし、悲しすぎる生き物だ。きっと化物のように思われていただろうが、私からしたら、彼が神様のような、神聖な存在のように思えていた。神様とこれ以上の行為なんて、想像も出来ない。

今思えば、彼に対しての感情は、信仰に近いものだったのかも知れなかった。

それから、朝昼晩の訪問の時は、まるで恋人がするような、他愛のない話や、私自身の話を彼に聞かせた。まれにある、長く一緒にいられる夜には、また彼と鉄格子越しに口付けた。そんな彼との逢瀬がまたしばらく続き、彼に食事を届けないまま、また半年近くが経った。彼が口にした「一年くらいは飲まず食わずでも耐えられる」という言葉が示す期限が近づいた夜、心配になった私は、彼に尋ねた。

「もうすぐ一年経ちますが、体の具合はどうですか」

「……ちょっと辛いかな。それに、食事がないと、それはそれで退屈だね」

リタリーの食事、とても美味しかったから。彼はそう言って、また私にキスを強請った。最近の彼は、事あるごとに私にキスを求めてくる。食事を取れない代わりに、私の唾液を欲しがっているようにも見えた。やはり、彼の言っていた一年という期限は、殆ど正確だったのだろう。流石に彼に死なれては困る。

「次からまた、ちゃんとした食事を持ってきます」

「……良いよ、俺、このまま死んでも良い気がしてきたから」

彼の意外過ぎる返答に、私は焦った。彼はいつもどおりの調子で、何でも無いようにそう言った。

「そんなこと言わないでください」

「うん、ごめんね。だけど、本当に、食事は要らないよ」

「どうして」

微笑む彼に、私は詰め寄った。

「考えたんだ……このまま食べずにいたら、俺は死んでしまうけど……そしたら、この世界の何処かで生まれ変われるんだ。ここから出て、リタリーの所へ会いに行けるんだよ」

「そんな……」

そんなことのために、死ぬ必要なんて無いのに。

「心配なんて要らないよ、生まれ変わるのなんて、すぐなんだから。一晩経てば、何処かに生まれ変わるし、その次の日には、リタリーの隣に立つことだって出来る」

だから、悲しむ必要なんて無いんだよ。彼はそう言って、いつの間にか泣いていた私の頬を撫で、そっと唇を寄せた。彼の唇はいつも通り、やはり氷のように冷たかった。それはきっと、彼がこのまま、冷たく何もない牢の中に閉じ込められたままになっているせいだ。ここから外に出られたら、私がもっと彼をあたためることが出来るはずなのに。

「……わかった? だからこれからも、食事は要らないよ。俺が外に出られたら、その時は……とびきりのご馳走を用意してね」

もう、外に出なければいけない時間だ。彼は名残惜しそうに、そして、宥めすかすように、私にそう告げて、唇を離した。何か話さなければと思いつつ、私は地下を出た。

彼がこのまま死んでしまったら、外に出てしまったら、どうしよう。私のためだけに死を選んでくれることに喜んで良いのか、とんでもないことをしてしまったと、恐れたら良いのか、私にはもう、判断が出来なくなっていた。

そしてその次の日の朝、私は、手ぶらで彼の元へ向かった。

それから一週間後の夜、私は彼がぐったりと床に横たわっているのを見つけた。毎回「こう」なっているのではないかと恐れながら彼の元へ通っていたから、それはある意味、自分が想像していたとおりの光景ではあった。けれど、愛しいヒトが死んでいるのに、その体に触れることさえ出来ず、ただ呆然とその姿を眺めるしか出来ないことは、想像以上に悲しいことだった。いつまでもこうしてこの地下にいる訳にはいかないのに、そこからなかなか離れられず、拭っても拭っても涙が頬を濡らして、止められない。

悲しむ必要なんて無いと、彼は言った。一晩で生まれ変わり、その次の日には、私の元へ来る、とも。彼の話をどこまで信じて良いのか私にはわからないままだったけれど、今の私にとって、彼のその言葉に縋りつくほか無いのだ。

ひとしきり泣いた後、私は地下室を後にした。主には体調が悪いと嘘をつき、早めに自室に戻って、ベッドに入って、私はまた泣いた。彼が生まれ変わった翌日、つまり、明後日には、彼は私の元へやって来る。そうなることを祈りながら、私は目を閉じた。

その夜、私は夢を見た。彼が、街を、ヒトを破壊して、狂ったように笑う夢。あんな、この世のものとは思えない、歪んだ笑顔なんて見たことが無い。私を見るやいなや、彼は私の首を刎ねようと、手にした黒い剣を振りかざし――そして、目が覚めた。

煩く鳴り響く心臓の音。あんなのは悪い夢だと思いたいのに、それが現実になってしまうような気がして、私はなかなかベッドから起き上がる事が出来なかった。

私の不安とは裏腹に、その日は平穏に過ぎた。彼が死んだ事が露見しないように、私はいつも通り地下へと降りた。朝に地下へと降りた時、不思議な事に、昨晩あったはずの彼の遺体は忽然と姿を消していて、彼がいた痕跡は、何も残っていなかった。彼はやはり、この世界の何処かで生まれ変わっているに違いない。探しに駆け出したい気持ちもあったが、彼はきっと私を探し出してくれるだろうと考え、普段と変わらず、何もなかったように過ごす事に決めた。

その日は異常な程に時間が過ぎるのが遅く感じた。けれど、ゆっくりでも確実に時は過ぎ、どうにか夜がやって来て、あと数時間で日付が変わるくらいの時間になった。彼が言っていた「生まれ変わった次の日」が、もうすぐやって来るのだ。この広い世界で、そんなに早く私の元へやって来られる訳が無いと思いながら、私はベッドに入る気にもならず、一人自室の窓の外を眺めていた。雨雲に隠れた月がぼんやり光る夜。生まれ変わったのだとしたら、彼は今、何処にいるのだろう。ここがオステカの街だと言うことは、私から聞いて知っているはずだ。ここを目指して旅をしているのは間違いないとしても、今、どの辺りを歩いているのだろう。

彼の事を考えると、出会いたいような、このまま何処か、私の知らない所で生きていて欲しいような、複雑な気持ちになった。彼の事を、きっと私は愛しく思っているけれど、これが許されない事だというのも良くわかっているからだった。

流石にこんな真夜中に、私を訪ねて来る事は出来ないだろう。明日になったら外に出て、彼の姿を探しに行こう。そう決めて、私はベッドに潜り込んだ。また恐ろしい夢を見やしないかと、少しだけ不安になりながら。

不安は杞憂に終わり、私が見た夢は、とてもとても、穏やかな夢だった。彼と並んで街を歩き、笑い合うだけの夢。彼はまるで普通の人間と変わらず、年相応の青年らしい無邪気な笑顔で笑うのだった。

昨日の夜に見た夢の彼とはまるで違う姿だったけれど、きっとそれが本当の彼なのだろうと思うことにした。だって、彼の残虐な姿など、想像も出来ない。彼はいつも寂しそうに、諦めたように笑っていた。それはきっと、長い間あんな場所に閉じ込められていたからだ。外に出られたら、私と一緒に遊びに行けたら、あんな風に笑うに違いない。

そうなる未来を期待して、私は身支度をして、主の部屋へと向かった。屋敷の中は妙に静かで、いつもは誰かとすれ違うはずなのに、誰とも行き合わない。そんな日もあるだろうと、気にしないことにして、主の部屋の前に立った。ノックをして、返事が無い事を不審に思いながら、もう一度ノックをする。それでも返事は無かった。こんな朝から出掛けている訳は無い。ドアノブをひねると、鍵はかかっていなかった。そろそろと扉を開けると、そこには、私が焦がれてやまなかった青年が立っていた。

「やあ、二日ぶりだね。おはよう、リタリー」

朝日に照らされて、彼の赤い髪が明るく輝いている。彼の手には、何か、水が滴る塊が握られていた。逆光でよく見えないが、それは。

「あ、あ……そんな……」

彼は手にしていた「それ」を、私に投げて寄越した。ごろりと床に転がったのは、この屋敷の主の首。彼の直ぐ側には、首を失った主の体が横たわっていた。

「……どうして、こんなことを」

尋ねると、彼は私の方へと歩み寄ってきた。その手には、黒い刀身の剣が握られている。それは、私が夢で見た彼が持っていたものと同じものに見えた。

ひたひたと一歩ずつ私に迫る彼の表情は、逆光で見えない。私は後ずさって逃げ出したい気持ちになっていたが、足が思うように動かなかった。もう、彼と私を遮るものは何もない。手を伸ばせば、彼に触れる事が出来る。逆も然りで、彼がそうしようと思うだけで、私の首を落とす事も出来るのだ。逃げなければ殺される。それなのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、体が動かない。

「ごめんね……俺はこういう生き物だから」

私の目の前に立つ彼の顔は、昨晩の夢で見たような、これが楽しくて仕方ないと言わんばかりの、狂った笑顔。こうして、ヒトを殺すために生まれたのか、彼は。

「もう、ここが最後だよ。皆、俺のことなんてすっかり忘れちゃってて……ふふ、殆ど抵抗出来なかったみたいだね」

良く目を凝らせば、窓の外の明るさが、朝日のせいだけではない事がわかった。所々から煙が上がっている。燃えているのだ、街が。この世界の他の国や街、小さな村に至るまで、壊し尽くしてきたのか、彼は。私が、彼を死なせたせいで。

「ありがとう、リタリー。これで、全部終わりに出来る」

「がっ……あ」

私に形ばかりの礼をして、彼は持っていた剣を、私の腹へと突き刺した。

「今まで楽しかったよ、リタリー。色んな話が出来て嬉しかった。それに、おいしい食事もありがとう。だけど……」

ずるりと剣を引き抜かれ、私は床へと倒れ込んだ。床が赤く染まって、体がどんどん冷たくなっていくのがわかる。彼に魅せられて、世界を壊す片棒をかつがされたのだ。こうして死ぬべきだと、素直にそう思えた。悲しさと怒りと後悔は当然あった。けれど、もうどうしようもないと思うと、これから彼はひとりぼっちで、この世界でどう過ごすのだろうかと、それだけが気になった。

「アンタが絶望する顔が、ずっと見たかったんだ。それが俺にとって、何よりのご馳走だよ」

彼は身を屈め、私の顔を覗き込んだ。美しい金の眼が、私を射抜く。彼の歪んだ醜い笑顔を、私がどんな顔で見返したのかはわからない。だが、それは彼を随分と満足させたらしい。彼の美しい金の瞳に見つめられるまま、私の唇がそっと塞がれた。最後に触れた彼の唇は、燃えるように熱く、今までの冷たさが嘘のよう。その熱に焼かれるように、私の意識は靄がかかったように薄れていった。

終わり

wrote:2017-08-17