少年の幸せ

翌朝、熱を出したけれどどうにか下がったとレビンに嘘をつき、不自然なくらいに厚着させた彼を連れて、私達はまた出発した。私が説明すれば、全員がそれを信じたし、熱を出したと言っても、誰も彼を心配しない。旅に影響がないのなら問題ないと、全員で旅支度を始めるものだから、それはあんまりではないかと思いもした。けれど、嘘をついている手前、何も言えない。

私が彼と身体を重ねても、この旅には何の影響もない。相変わらず、他のメンバーは彼に対してほとんど関心がなかったし、私は私で、彼に対する態度は変わらない。寂しそうな顔をする彼に構って、怪我を治したり、話し相手になったり、そして時折、彼の身体に触れて、可愛らしい声を楽しんだりした。

ギグが加わることもあるし、ギグが眠ったらしい後、ひっそりとすることもある。ただ愛でるだけの時もあれば、彼の羞恥を煽って、ほとんど辱めに近い行為に及ぶこともあった。

それが彼を混乱させるだけだとわかっていても、やめられない。好きだと言って、只管優しく抱くのならまだ良いのに、好きだと言いながら、いくら泣いて嫌がってもやめない時もある。彼にとって、好きと優しさと暴力とがごちゃ混ぜになって、何をされたら嬉しいのか、悲しいのか、わからなくなってしまうんじゃないか、とさえ思う。それでも、どうしてこんなことをするの、と訴えてくる視線をもっと浴びていたくなるのだから、始末に終えない。

私はきっと、罰して欲しいのだと思う。好きだという良い訳を盾にして、幼い少年を良いように弄ぶなど、許されて良いはずがない。だから、好きだと言って受け入れてもらうより、好きだと言って拒絶されたいのだ、きっと。

彼は段々と言葉少なになっていった。私に笑いかけることもほとんどなくなり、触れると青ざめた顔でびくりと身体を震わせる有り様。それでも、自分に感心を持って接してくるのが私だけとあっては、嫌でも私に縋るしかない。

レビンが裏切り、ダネットと二人、もう一つの世界へ行ってしまった後、私はどうしたら良いかわからなくなってしまった。何かあれば召喚されるとわかっていても、彼と離れることなどほとんどなかったのだから、不安で仕方なくなっていた。

ダネットと二人、得体の知れない世界へ行ってしまった彼は、本当に戻って来られるのだろうか。そのまま帰って来なかったら、私はどうしたら良いのだろう。

残された仲間たちと一緒に、とりあえずその場で野営することにしたは良いものの、いつも彼とばかり話していたせいで、何を話せば良いのかわからない。いや、いつもどおり、影の薄い男として、その場に居さえすれば良いのだけれど。

あちらの世界で、彼は今、何をしているのだろう。ダネットの心ない言葉で傷ついてはいないだろうか。ギグに手を出されて、泣いてはいないだろうか。自分でもしょっちゅう泣かせている癖に、ギグに泣かされているのを見るのは我慢ならないとは、なんて身勝手な。

彼に召喚されて、この目で見たもう一つの世界は、まるで私を責め立てるようだった。彼と同じ顔をした人間たち。どうやら、私は彼らを殺さなくてはいけないらしい。

率いた部隊の面々が赤い髪の少年たちを殺す姿を眺め、彼と同じ顔の少年たちが私に剣を向ける姿を突きつけられて、これが正気でいられるものか。

目の前で死んでいく無数の少年たちの屍。彼よりもずっと、感情の見えない瞳。まるで工業生産された製品のよう。良く見なくても、彼とは絶対に違ういきものなのに。それがまるで、今まで傷つけてきた彼が、私を無言で責めているように見えた。

「……おれのこと、ちゃんとわかる?」

戦いの最中、傷を負った彼を治療している時、彼が私にぽつりと聞いた。彼から話しかけられることなんて、いつが最後だったか。

「……当たり前でしょう。わからないはずがありませんよ」

あの剣を持っていなくても、彼らの中に混ざっても、貴方のことは、絶対に見つけられますよ。彼の頭を優しく撫でながらそう言うと、彼は安心したように、薄く笑った。

「そう、良かった」

随分と久しぶりに見たそれが、私が見た彼の最後の笑顔になった。

ギグを失って、元の世界に戻ってきた彼は、今にも倒れそうな青い顔をしていた。要領を得ないダネットと、もう一人一緒にやってきたレナという喰らう者の話によれば、ギグが彼をかばって、ガジルというあちらの世界の管理者と相打ちになっただろうことと、彼自身が喰らう者であったことがわかった。

突拍子もない話ばかりで、理解が追いついていかないが、ともかく、これで我々の旅は終わりだということは、どうにか全員が理解した。手放しで喜べるような幕切れではなかったけれど。

しばらくの間、彼は私が引き取ることにして、各々故郷へ戻ることにした。私は彼を連れてオステカの街に戻り、随分と放ったらかしにしていた自分の家で、彼と二人、のんびり暮らすことに決めた。クラスター様からもしばらくは暇を出すと言われていたし、面倒事を任された手前、それなりの手当も貰っているので生活には困らない。

私は、ほとんど呆けてしまったような彼と、ようやく二人きりで過ごす権利を得たのだった。あのギグが、彼を守るために犠牲になったというのは意外だが、彼をこうして私の元に戻してくれたのはありがたい。

でも、あの歪んだ世界で過ごしたこと、自分が何者かに作られた存在だと知らされたこと、ギグを失ったこと、そんな異常なことが積み重なって、彼はどこかおかしくなってしまったようだった。

話しかけても、滅多に反応を返さない。焦点の定まらない瞳は、どこか遠くを見つめたまま、私を見てはくれなかった。食事を与えても、食べたり食べなかったりで、食べたとしてもほんの僅か。それでも、世界を喰らう者という存在は、ちょっとやそっとでは死なないらしい。彼は痩せもしなかったし、体調を崩すということもなかった。起きている間はずっとそんな調子で、何をするでもなく、日がな一日、ぼうっと外の景色を眺めたまま、ただ佇んでいるだけ。外に連れ出そうとしても、ただ無言でついてくるだけとあっては、意味がなかった。それでも、日に当たらないのは良くないと思い、連れ出しては見るのだが、手を繋いで、とぼとぼ歩く彼は、今にも壊れてしまいそうな程、頼りない。

だが、眠っている間だけは違った。酷くうなされていたり、さめざめと泣いたり。まるで眠っている間だけ、覚醒しているようだった。もしかしたら、起きている間は、何か別の世界を……そう、夢でも見て過ごしているのかも知れない。その代わり、眠っている間だけ、目を覚ましているのかも。

だとしたら、彼には、辛いこと、悲しいことしかないということか。……当然かも知れない。彼が信じたかったものも、守りたかったものも、もう何もなくなってしまったのだから。

彼がこちらの世界に戻ってから、私は彼を抱くことはなかった。彼が余りに痛々しくて、抱いてしまったら本当に彼を壊してしまいそうな気がした。いや、もう、殆ど壊れた人形のようなものなのだけれど。

あちらの世界に行く前は、触れようとすると怯えた瞳で私を見ていたのに、今ではそんな反応を返すこともない。ただ、彼を抱きしめて眠るだけの夜を過ごして、うなされていれば頭を撫でてやり、泣きだしたら涙を拭ってやった。だが、眠っている間の出来事だから、彼がそれを覚えていることはない。

手遅れになってから、罪滅ぼしのつもりでいよいよ優しく接するなど、私は一体何がしたかったのか。私では、駄目なのだろうか。そんな調子で彼の面倒を見続けて、気がつけば半年もの月日が経過していた。

乱暴なノックの音に驚いて、玄関の扉を開ける。見覚えがないはずなのに、私はこの男を知っていた。この銀の髪は、彼がギグに身体を預けていた時に見たものと同じ。死んだとばかり思っていた神が、私の前に現れたのだ。私は驚くより先に、遂に罰せられる時が来たのかと身構えた。

「……そんな怖い顔すんなよ」

人を喰ったような笑みを浮かべて、ギグは私を見た。どこから見つけ出したのか、私の家にやってくるとは。家の奥、リビングのソファに腰掛けて、彼は今日もぼんやりと窓の外を見つめている。ギグはきっと、私を殺して、彼を奪うに違いなかった。

「何の、用ですか」

「……返してもらおうと思ってよ」

「彼は貴方のものではないでしょう」

「あれは、オレのもんだ。お前には渡さねえ」

ギグの青い瞳は、はっきりと、従わなければ殺すと伝えてくる。問答無用で殺しに来た訳ではないということか。それならまだ、優しい方なのかも知れない。

それにしても、ギグが彼にそこまでご執心とは。生まれ変わってまで彼を攫いにやってくるなんて、意外だった。旅をしている間のあれは、彼なりの愛情表現だったのだろうか。まさか。私も大概だが、ギグも相当、歪んでいる。

「……随分と、彼を気に入ったのですね」

「気に入った? ハッ、そんな低俗な言葉を使ってんじゃねェよ」

狂気を湛えた瞳で、ギグが私を嘲笑する。ギグが強すぎることはわかる。そして殺されるだけの理由もあった。下手を打つと命はない。従うのが正しいとわかっている。それなのに、ギグに手を引かせなくてはならないと思っている。まさか戦う気でいるのか、私は。この邪神に。丸腰で? 不可能だ。

ギグは勝ち誇ったように笑い、私の目の前に、鋭く尖った爪を突きつけた。

「あれは、オレの一部だったものだ。オレの手元にあるのが正しいんだよ」

「……勝手な言い分ですね」

彼にも選ぶ権利はあるでしょう、と言いかけて、もう彼には、そんな判断力なんて残っていないことを思い出す。誰が奪うか、誰が所有するか。そんなことは、彼の知ったことではない。彼自身が抗うことなんて、もう無いのだ。

「お前には過ぎたおもちゃだろ」

「……そうかも知れませんね」

もう私には、彼を笑わせることも出来ないし、幸せになんて、とても出来そうになかった。ギグにならそれが出来るとは思わないけれど、彼が壊れたきっかけの一つがギグならば、もしかして。

「それに、もう随分と楽しんだんじゃねェか?」

「……まだ、足りませんね」

もう、随分と長い間、泥沼に浸かったような気分で過ごしていた。後悔と無力感に苛まれ、疲れきっている。少しでも望みのある方へ、逃げ出してしまいたくなっていた。

「ふん、半年もありゃあ十分だろ」

「一生かかっても、足りやしませんよ」

ギグの瞳に確かな苛立ちが宿るのを見て取ると、私はニヤリと笑って、引き金を引いた。一思いに、痛くないようにお願いしますね。

「彼が欲しいのなら、力づくで奪ったらいかがです? 私は絶対に、ここをどきませんから」

死神の鎌が、私の命を刈り取るのを感じながら、私は何故か穏やかな気持ちになっていた。結局、私では何もうまくいかなかった。あの子をギグの手から守ってやることも、彼を支えることも、何も。はじめから、彼を好きになってはいけなかったのかも知れない。

何年かかるかわからないが、もしギグの手元で正気を取り戻してくれたなら、たまには私の事を思い出して欲しい。出来る事なら、貴方に優しくした思い出だけを、都合よく思い出してくれたなら、嬉しいのだけれど。本当は、貴方にはずっと、どこまでも優しく有りたかったのだから。

血溜まりの中、彼を腕に抱いて愛おしそうに笑うギグの姿が、私が見た最後の光景だった。

終わり