ブラックデビル・チョコレート

学校に向かう途中にあるその店には、黒い噂が耐えなかった。裏で麻薬取引がされているとか、黒服の男たちが入って行ったまま帰ってこないとか。酷いものになると、人身売買が行われているというものもあった。見た目は小洒落た煙草屋だけれど、その店主を見れば、その噂が流れるのも無理のないことだと思う。

とろんとした目付きに、ピアス塗れの顔。耳は言うに及ばず、目元、口元にも幾つか付けられていて、人目で普通の人ではないことがわかる。通りがかると、いつも煙草をふかしながら遠くを見つめていた。薬でもやってるんじゃないか、と、店主を見たことのある人は皆が口を揃えているくらい。実際、俺もそう思う。

そんな店主と知り合ったのは、本当に、偶然だった。それが良いか悪いかは、別として。

その日は本当についていなかった。学校では階段を踏み外すし、宿題は忘れるし、挙句の果てに、帰り道で財布を落としてしまった。帰宅してから気付いて、夜の通学路を必死で探しまわったけれど、どうやっても見つからない。途方に暮れてとぼとぼと帰り道を歩いていると、突然、誰かに肩を抱かれた。

「なっ、何!?」

「おいおい、どうしたんだよ……らしくねェな」

その誰かを見ると、そこには黒い噂の耐えない、あの煙草屋の店主が立っていた。近くで見ると、その風貌はより一層異様に見え、絶対に関わったらろくな事にならないと思わされる。でも、肩を抱かれて引き寄せられて、どうしたら良いのかわからない。もしかしなくても、絡まれてるのか、これは。

「あ、あの……」

「あァ? 部屋で待ってろって言ってんだろ、未成年が店の近くうろついてんじゃねェっつの」

「え? え?」

何を言ったら良いのかわからず、口ごもる俺に、見に覚えのない話をまくし立てられ、もう、何が何だかわからない。更にあろうことか、この男は、混乱する俺の尻をいやらしい手つきで撫で上げた。

「ひッ、な、何するの!?」

「んん? ……ああ、あんた、例の弟さんか」

嫌悪感で男を突き飛ばし、大声を出すと、そいつは目を丸くした。そして何か合点がいったように苦笑する。

「やっちまったなあ……悪かったよ。忘れてくれ」

「な、何……何ですか、あなた」

「いやあ、あんた、双子の兄貴がいるだろう。そいつと間違えちまった」

「……それって」

確かに兄はいる。いわゆる不良というやつで、同じ家に住んでいるし、同じ高校に通っているはずのに、最近はとんと顔を見ない兄が。その兄と、この胡散臭い煙草屋の店主が、知り合い……というか、かなり深い仲というのは、一体どういうことなんだ。少なくとも、さっきの様子だと、路上で体を触っても、嫌がられないくらいの関係ということはわかる。

「……で、どうしたんだい。こんな夜に」

高校生が出歩いて良い時間じゃあないだろう。そう言われ、言いたいことはたくさんあったけれど、とりあえず事の顛末を話した。期待している訳ではないし、怪しい男なのに変わりはないが、聞くだけ聞いても損にはならないだろう。当然、変に刺激して、機嫌を損ねたら面倒だという気持ちもあったけれど。

「ああ、黒い財布かい。そういや、そこらに落ちてたな。ちょっと待ってなよ」

「えっ……あ、はい」

男は心当たりがあるらしく、店へと戻っていった。拾われていたのなら、見つからないはずだ。それはありがたいけれど……やはり、兄との関係が気になって、落ち着かない。

男はすぐに戻ってきた。手に握られていたのは紛れも無く、さっきから寒空の下探しまわっていた俺の財布。

「あっ! ありがとうございます……!」

「中身ちゃんと確認しとけよ」

財布を受け取って、言われたとおり中身を確認する。大した金額は入っていないけれど、落とした時と同じだけ、しっかり入っていた。適当に突っ込んでいたカードも無事。

「えっと……大丈夫、みたい、です」

「そうかい、そりゃあ良かった。今度から気をつけなよ」

そう言って、店主は飄々とした顔で笑った。噂の割に悪い人ではないらしいが、兄のことを考えると、どうしても疑いの眼差しで見てしまう。知ってしまったら後悔しそうな気もするけれど、最近の兄の素行の悪さを考えると、兄弟として、聞いておかなければならない。俺は意を決して、尋ねることにした。

「あの……兄さんと、どういう関係なんですか」

「あー……、まあ、ちょっとした知り合いだよ。たまにここに遊びに来るのさ」

「……未成年に、煙草売ってるの」

「こっそりな。言っておくが、強制はしてねェぜ。あんたの兄貴が自主的に買いに来てる。文句を言うなら兄貴に言いなよ」

その開き直ったような物言いに腹が立ちはしたけれど、悪いことをしているのは兄も同じ。そう思うと、何も言い返せない。でも、本当に聞きたいのは、煙草のことだけではなかった。

「……でも、あんた、それだけの関係じゃないでしょ」

そう問い詰めると、男はバツが悪そうに頭を掻いた。そこら中のビルの明かりに照らされて、男が付けているピアスが光る。こんな、常識はずれの男に、兄が誑かされているとしたらと考えると、寒気がした。

男は、不遜な顔で肩を竦める。正直に答える訳にはいかない、そんな様子。それはやっぱり、そういうことなんだろうか。

「参ったね……それも、兄貴に聞いたらどうだい。こっちの口からは言えねェな」

その返答を聞く限り、これ以上話をしていても、こいつからは何も聞き出せ無いだろう。兄は余程、こいつに絡め取られているらしい。確かに最近は仲良くしている訳ではないけれど、それでも、俺の大事な家族だ。

「……兄さんに変なことしたら、許さないから」

俺はそれだけ言って、男に背を向けて家路についた。男のため息が聞こえた気がしたけれど、もう振り返る気にもならなかった。

家の前に立ち、電気が消えて、静まり返ったドアの前に立つ。ふと、あの男の周りに漂う煙草の匂いが鼻についた気がした。たった数分、隣に立っていただけなのに、自分の体にも匂いが染み付いてしまったような気になる。それを振り払うように、俺は冬の寒い澄んだ空気を肺の奥まで吸い込んだ。

ドアを開けると、当然、誰もいなかった。兄も戻ってきていない。そう言えばあの男は、俺を兄と間違えて「部屋で待ってろ」と言っていた。兄は今頃、あの男の家にいるんだろうか。そして煙草屋が閉店した後、あの男が部屋に戻ったら、それを兄が出迎えて、そして――これ以上は、考えるだけで悍ましかった。

兄さんは、あんな男の、何処が良いって言うんだ。あんな、煙草臭くて、ピアス塗れの、胡散臭い笑みを浮かべた男。触られたことを思い出すだけで、鳥肌が立つ。兄さんが次に家に戻ってきたら、あれこれ問い質さなければいけない。そして、もう二度とあんな男のところになんて近づくなと、釘を刺さなければ。

終わり

wrote:2015-12-19