幸せの閾値

しばらくオステカの街に滞在すると言っても、どこかに当てがあるわけでもない。いつまでもクラスターさんのお屋敷に住まわせてもらうというのも気が引けて、結局リタリーの家にお世話になる事になった。のは良いのだけど、でかいお屋敷を持っている訳じゃない人の家に泊めてもらうというのは初めてで、どう振る舞ったら良いのか、わからなかった。

おじゃまします、とおずおずと中に入り、リビングに通されてお茶を淹れてもらって、食事を作りますから休んでいてくださいと言われて。そこで手伝うとでも言えば良かったのだけど、何か出来る事がある訳じゃないし、大人しく従って、今に至る。

リタリーの家は小奇麗に整頓されていて、物が溢れている訳でもなく、生活感がない程、物がない訳でもないと言った感じだった。リビングにあるのは、本棚とテーブルと、ソファくらい。リタリーがご飯を作っている間、ランプの灯りを頼りに、並べられた本を手にとって見たり、ぼんやりと部屋を見回したりして時間を過ごした。

整頓されているとは言っても、ちらりと見たキッチンには調理器具がたくさん置かれていて、趣味に力を入れているらしい事が見て取れた。本当に好きなんだなあ。戦いが終わって、平和な世界になったのなら、お店でもやればいいんじゃないかな、と思う。

一般家庭の家に入った事が無いからわからないけど、リタリーらしい雰囲気がする空間に、俺はソファに身体を埋めて、少しだけうとうとしてしまった。

身体を揺すられて目を覚ますと、目の前には色鮮やかな食事が並べられていて、驚いた。随分寝ちゃってたのかと思ったけれど、時計を見る限り、一時間くらいしか経っていない。たったそれだけの時間で、こんなに作れるなんてリタリーってすごい。そう言うと、本当はもう少し豪華にしたかったのですが、と返された。これより豪華って、一体どんな事になっちゃうんだろう。

旅をしていた時より静かなはずなのに、ぽつぽつと他愛のない話をしながら取る食事は、なんだか賑やかに感じられて楽しかった。

お腹一杯になって、お風呂をもらって、とりあえず今日は休みましょう、と言われて二階の寝室に通された俺は固まった。そうだ。リタリーは一人暮らしだと言っていた。という事は、ベッドも当然一つしかない訳で。

「……えーっと、リタリー」

「どうしました?」

一つのベッドで一緒に寝る、って事をごく自然に勧められても、なんだか申し訳ない。リタリーは俺の背後に立って、早く入るように促している。俺は振り向いて、リタリーに言った。

「あの、俺、下のソファで寝るね」

「どうしてですか?」

「だって、その、ベッド一つしかないし」

「大きめのベッドですから、二人で寝られますよ」

そんなにしれっと言われても困る。物理的に寝られるかどうかと、寝ても良いものなのかは別だと思うんだけど。でも、なんでって言われると、うまく言葉に出来なかった。

「いや、その、だけど……」

「しばらくここに泊まるのに、ソファで寝続けさせる訳にはいきませんよ」

「だって、俺の方がおじゃましてるんだし……」

「それを言ったら、貴方の方がお客様な訳ですから、ソファで寝るのは私の方でしょう」

「それは駄目だよ」

「だったら大人しく一緒に寝てください」

「えー……良いの?」

「駄目なら初めから寝室に連れてきませんよ」

「……わかったよ」

理詰めで追い込まれ、ついには強制的に寝室に押し込まれた。色々あって疲れているのはリタリーも同じか。ぐだぐだ言って、寝る時間が遅くなるのは良くないというのはわかる。だけど、なんて言ったら良いのかわからないけど、こんなに甘えて良いのかな。

薄めの寝間着を借りて、リタリーと一緒の布団に潜り込む。リタリーの言う通り、大きめのベッドのおかげで窮屈な感じはなかった。おやすみ、と言って、目を閉じる。でも、簡単に眠りにつけるわけもなく、俺はぼんやりとリタリーの事を考えていた。

特にダネットを困惑させるとわかってて、オステカの街に残りたいと言い出したのは、リタリーと離れたくないというのが本当のところだった。一緒にいると、落ち着くし、安心した。だから、この先もずっと一緒にいられたらどんなに幸せだろうかと、そう思った。でもそれは、本当に叶えられる願いだと思っていた訳じゃない。

きっと、皆は反対して、里やら水棲族の拠点やらに連れて行かれて、ダネットと一緒にあの戦いの後始末をさせられて、その後は――わからない。この戦いが終わった後、どうしたら良いのか、何が出来るのか、どうなるのか、俺は何も考えた事がなかった。

皆に反対される中、リタリーが間に入ってダネットを宥めてくれなければ、きっと、俺が考えていた通りの未来になっていただろう。そう思うと、今こうして、リタリーと一緒に過ごしているのが、なんだか夢みたいに思えてきた。

リタリーはずっと、俺に優しくしてくれた。でも、その優しさに甘えきりになって良いのかと、今更不安になる。だって、自分には何もないんだから。リタリーみたいに何か得意な事がある訳でもないし、やりたい事も、何もない。ただ一緒にいたいからという理由で、甘えきって良い訳がない。何か、役に立てる事があれば良いのだけど……今まで戦う事しかしてなくて、ギグがいなくなってしまった今では、それももう、出来なくて、そんな自分に何が出来るんだろう。

そんな事を考えていると、なんだか情けなくなって、やっぱりここに残ったのは間違いなんじゃないかと思えてきた。自分で我儘を言い出しておいて、嫌になるなんて、本当に俺って駄目だなあ。だからギグも、俺を切り離してあっちの世界に残ってしまったのかもしれない……。

「……もう、寝てしまいましたか」

うだうだと考えていると、寝室に小さく、リタリーの声が響いた。寝た振りをしていれば良いものを、驚いてしまったせいで思わず身じろぎしてしまう。絶対バレたな、これ。

「まだ、起きてるよ」

仕方なくそう返すと、リタリーが俺の方を向いた。そっと手を引かれて、俺もリタリーの方を向かされる。暗がりで見えづらいけど、こんなに近くにリタリーの顔があるのがなんだか照れくさい。目を逸らしたいけど、それもなんだかおかしくて、リタリーの目を見返した。

「……貴方、もっと甘えて良いんですよ」

「えっ」

さっきまで考えていた事を、全部口に出してしまっていたのかと思った。リタリーは穏やかに笑って、俺の手を握った。

「貴方の事ですから、遠慮して、色々と考えてしまっているんでしょう」

「……なんで、わかるの」

「わかりますよ、なんとなくね」

そう言うと、リタリーはそっと俺の体を抱き寄せた。驚きはしたけど、されるがまま、リタリーの胸に顔を埋める。布越しに伝わる体温が温かかった。

「……リタリーは、迷惑じゃないの」

「そう思ってたら、初めから貴方を泊めたりしませんよ」

「でも、リタリーは優しいから……」

「貴方ねえ、いくら私が優しかったとしても、一緒のベッドで寝ても良い相手くらい選びます」

伝わる体温と、そっと頭を撫でられる心地よさに負けて、俺はぽつぽつと不安に思っていた事をぶつけた。その度にリタリーは俺が欲しかった言葉を返してくれて、なんだか俺の方が馬鹿みたいに思えてくる。リタリーの優しさを、もっと素直に受け入れておけば良かったのに。

ひとしきり話し終わると、リタリーは俺の事をぎゅっと抱きしめた。

「それにね、私は貴方を甘やかすのが好きなんです。だから良いんですよ、甘えたって」

「……そんな事言われても、わかんないよ」

甘えても良いと言われたって、どうしたら良いのかわからない。頼り切りになるとは違うと思う。だけど、具体的にどうしたいかって言われると、わからない。

「……俺は、こうして一緒にいられるだけで十分、なんだけど」

俺に思いついたのはたった一つ、ここに残ろうと思った理由でもある、これくらいだった。そう言うと、リタリーはふふ、と笑って、俺の頭を撫でた。

「……貴方、こうして私に抱きしめられて、何か思う事は無いんですか?」

「え?」

「……なんというか、貴方は本当に鈍いですね」

「どういう事?」

リタリーは、今度はため息を一つついて、俺を抱きしめていた手を緩め、顔を上げさせた。線の細い、整った顔が少しだけ困惑に歪んでいる。さっきからリタリーは何を言ってるのか、全然わからない。抱きしめられて、何か思う事、って言われても、別になんとも思わなかったし、温かいな、安心するな、って、それだけ。それで鈍いと言われたんじゃあ、心外というかなんというか。と思いつつ、それは言わずに、リタリーが説明してくれるのを待った。

しかしてリタリーが口にしたのは、とんでもない事だったのだけど。

「……貴方、私の事が好きなのではないですか」

「ええっ!?」

「……自覚してなかったんですね」

リタリーは本格的に呆れ顔になっていた。俺がリタリーを好きって、そりゃあ嫌いじゃあないけれど、リタリーの言い方はつまり俺がリタリーに恋してるって意味で言ってる訳で――何がなんだかわからないよ!

「だ、だって、俺もリタリーも男だよね?」

「そうですね」

「お、おかしいじゃない、そんなの」

「世の中には色んな人がいますよ」

「え、だ、だって、そんな、ええ?」

「ああもう、落ち着きなさい」

完全に混乱している俺を、もう一度抱きしめて黙らせると、リタリーはぽんぽんと俺の頭を撫でてくれた。いや、なんか色々間違ってると思うんだけど。

「……リタリーは、その、嫌じゃないの」

世の中には色んな人がいる、とは言っても、流石に少数派な訳だし。

「何回も同じ事言わせないでください」

確かに。さっきから似たような事を聞きすぎている。

「……俺、リタリーの事好きだったんだ……」

全然自覚なかったし、言われてみたら確かにリタリーととにかく一緒にいたくて、話をしたくて、って思っていた。でもなんでリタリーの方が先にわかっちゃったんだろう。バレバレだったのかな。

「何かすごく恥ずかしい……」

顔から火が出そう。たぶん今ものすごく体温が上がっている気がする。心臓もめちゃくちゃ早くなってるし、これをリタリーが聞いてるかと思うと、また体が熱くなってくる。

「……貴方こそ、私がこうしてる事の意味を考えて欲しいんですけどね」

リタリーがこうしてるって事は、つまり、そういう事だと思って良いのかな。

「嫌じゃないですか、貴方も」

「……うん」

嫌な訳、無いじゃないか。だって、思い返せばずっと、リタリーの事が好きだったんだから。リタリーも俺のことを好きだったなんて、そんなの。

「幸せ過ぎて死にそう……」

「両思いになったくらいで、死なれては困りますよ」

「……だって」

リタリーのことを好きなんだって思った途端に、リタリーに抱きしめられていることが、とんでもなく嬉しくなって、リタリーも俺のことを好きだと知って、なんだか胸が苦しくなって……本当に、どうしたら良いのかわからないくらい、幸せなんだから仕方ないじゃないか。

「これからもっと甘やかしてあげるんですから、覚悟してくださいね」

今よりもっと甘やかされて、幸せにされてしまったら、俺は一体どうなってしまうんだろう。少し怖いけれど、期待しても良いのかな。

「……うん」

小さく頷くと、リタリーは俺の頭に軽くキスをして、もう一度頭を撫でた。肌に触れた訳でもないのに物凄く恥ずかしくて、顔を上げられない。きゅ、とリタリーの寝間着の端っこを掴むと、リタリーはちょっと意地悪そうに言った。

「顔、上げてくれないんですか」

「……無理、恥ずかしい」

顔を上げたら間違いなくこの赤い顔を見られて、からかわれるに決まってる。

「見せてくださいよ」

そっと頬を撫でられたかと思うと、リタリーの指が顎の辺りに伸びてきた。その思惑を阻止しようと力を込めて抵抗する。

「駄目ですよ、力を抜いてください」

「……だって」

「ねえ、私だって同じなんですよ」

「えっ――あ……」

頭の上から聞こえてくる意外な発言に、思わず力を抜いてしまうと、その隙を逃さず、リタリーは俺の顎を上げさせた。リタリーの顔は別に赤くなかったけど、余裕の無い、辛そうな顔をしている。こんな顔のリタリーは見たことがなかった。

「私も、さっきから心臓が煩くて、貴方にもっと触れたくて仕方ないんです」

「あ、あの、それって――」

俺が何かを言う前に、リタリーは俺の唇をそっと塞いだ。されるかも、と思わなくはなかったけれど、こんなにいきなりされるとは思わなくて、俺は固まってしまった。リタリーは触れては離れを繰り返す軽いキスを何度もして、俺が抵抗しないとわかるやいなや、俺をベッドに押しつけて、覆いかぶさる格好になった。

してくるのは変わらず触れるだけのキスだったけれど、指を絡めて、体を密着させてキスされていると、なんだか変な気分になってくる。幸せなんだけど、悪いことをしているような、そんな感じ。そしてリタリーが言っていたとおり、俺と同じくらい、リタリーの心臓も早かった。

それはそんなに長い時間ではなかったはずだった。ずっと息を止めていた訳でもない。それなのに、ようやく開放された時には、緊張していたからか、恥ずかしいからか、すっかり息が上がってしまっていた。

「……大丈夫ですか」

「ん、うん……」

俺を気遣うように頭を撫でるリタリーは、平気そうにしていてなんだか悔しい。

「すみません、驚かせてしまいましたね」

「びっくりはしたけど……平気だよ」

最初は驚きで動けなくなっていたけれど、されるうちにそれが心地良くて、自分でも没頭していたのだから、謝られる筋合いはないと思う。

「……今日はもう寝ましょうか。色々あって疲れたでしょう」

「そ、そうだね」

本当のところ、ここに来てから俺は何もしていないのだけど、寝室に来てからの疲労感はすごかったので同意する。驚いたり恥ずかしかったりというのは、普段あまり頭を使わず、動じないように過ごしてきた自分に取って、とても疲れることだった。というか今でもかなり恥ずかしいので早く寝たい。

「……?」

寝ようと言っておいて、リタリーは俺の上になったままどいてくれない。まさかこのまま寝ようって訳じゃあないと思うけど、どうしたんだろう。リタリーは俺の髪を愛おしそうに指先で弄りながら、笑っている。

「……どうでした?」

「どう、って……聞かないでよ……!」

聞かれるとは思わなくて、俺はまた顔を赤くした。リタリーのことだから、そんなの、聞くまでもなくわかってるはずなのに!

「ふふ、まあ、その顔を見たらわかりますけどね」

「……もう」

膨れる俺を見たリタリーは楽しそうにころころ笑って、俺の隣に横になった。本当に、意地悪なんだから。そういうのも、嫌じゃないけどね。

隣で仰向けになったリタリーは、そっと俺の手を握った。でも、急に離れてしまったリタリーの体温に、別に寒くはないはずなのに、なんとなく肌寒い気がして、それじゃあ足りないと思ってしまう。どうしよう、なんて言ったら良いんだろう。

「あの、さ」

「どうしました?」

さっきみたいに、抱きしめて眠って欲しいだなんて、うまく口に出来そうにない。仕方なく俺はリタリーの方を向くと、ぎゅっとリタリーの腕に抱きついた。リタリーは小さくため息をつくと、体を俺の方に向けてくれた。

「……もう、して欲しいなら、ちゃんと言わなくちゃ駄目ですよ」

「努力する……」

「そうしてください」

リタリーはそう言って、俺の額に軽く唇を落とすと、最後にもう一度頭を撫でて、俺を胸元に引き寄せた。リタリーがなんでもかんでも察してくれちゃうのが良くないんじゃないかな、と思わなくもないけど、口下手なのは直さなくちゃ。すごく恥ずかしいんだけど、思ったことを口に出来たら、もっとリタリーに甘えられる気がする。

一緒にいられるだけで十分だと思っていたのに、気がつくとどんどん欲が出てきていて、もっとリタリーに触って欲しくて、くっついていたくてしょうがなくなっていた。俺ってこんなに欲深かったのかと驚きもしたけれど、リタリーはそれを肯定して、受け入れてくれると示してくれた。俺なんかがこんなに幸せで良いんだろうか。なんだか、怖い気もする。

「おやすみなさい」

「うん、おやすみ、リタリー」

でも今は、今くらいは、この幸せに浸っていても良いかな。

リタリーの体温と、少し落ち着いた心音を聴きながら、俺は溶けるように眠りについた。

終わり

wrote:2015-06-21