平成三十年十二月十五日 東洋大学白山キャンパス五B一二教室
『サーダナ・マーラー』におけるマハーラティサラー
園田 沙弥佳 奨励研究員
〔発表要旨〕本発表においては、十一~十二世紀頃編纂されたインド密教の観想法儀軌『サーダナ・マーラー』Sādhanamālā(『成就法の花環』、略号SM)に収録されている、女尊マハープラティサラーMahāpratisarā に関連する成就法を取り上げた。主に、SM No.194~197, 201, 206に述べられている図像的特色を比較検討し、インド後期密教におけるマハープラティサラー像の特色を明らかにした。なお、「マハープラティサラー」という語は、尊格としてのマハープラティサラーと、その神格化のもととなった初期密教経典の経題である『マハープラティサラー』Mahāpratisarā という二つの意味を示す。本発表では前者を「マハープラティサラー明妃」、後者を『大随求陀羅尼』と称す。
二〇一八年の春と秋、京都清水寺の随求堂では秘仏の大随求菩薩坐像が二百二十二年ぶりに公開された。発表者は平成三十年度井上円了記念研究助成にて現地調査に赴き、今回その成果の一部を報告した。秘仏公開期間中に販売された清水寺随求堂蔵版「随求陀羅尼」(木版)は、中央に大随求菩薩の尊像、周囲には経文が記され、四隅に守護神が描かれるなど、マンダラ様である。この大随求菩薩が、日本で展開したマハープラティサラー明妃の姿である。
『大随求陀羅尼』は六世紀ごろ成立し、七~八世紀までに神格化された後、パンチャラクシャーPañcaraks・ā(五護陀羅尼)の一尊として一括されたという。SMのほか、同時期に編纂された『完成せるヨーガの環』、チベットで十九世紀に再編された『西蔵マンダラ集成』には、黄色もしくは白色のマハープラティサラー明妃が説かれている。
発表では、上記テキストと清水寺版「随求陀羅尼」に見られる大随求菩薩の持物も具体的に比較した。
黄色い体色のマハープラティサラー明妃は、単独の成就法(SMNo.194~196)とパンチャラクシャー・マンダラ(SM No.201, 『完成せるヨーガの環』)の成就法の両方に見られ、後者は宝生如来と関連付けられている。また、『大随求陀羅尼』の根本ダラニにおいて「黄色の女尊よ」(pin・gali)という語があり、黄色はマハープラティサラー明妃の基本的な色と考えられる。
白い体色のマハープラティサラー明妃は単独の成就法にはあらわれず、パンチャラクシャー・マンダラ(SM No.206, 『西蔵マンダラ集成』)の中尊に見られる。金剛界マンダラと関連付けられた際に、中尊の大日如来と対応したものと思われる。
他方、SM No.195のみ黄色い体色のマハープラティサラー明妃に阿閦如来が設定されている。八世紀の『秘密集会タントラ』や十一世紀の『時輪タントラ』に見られるインド後期密教のマンダラにおいて、大日如来に代わって阿閦如来がマンダラの中尊としてあらわれるようになった。マハープラティサラー明妃の観想法もまた、後期密教で重要視された阿閦如来に関連付けられたと思われる。
以上のことから、SMが編纂された当時のインドでは、上記のような特色を持ったマハープラティサラー明妃が信仰されていたことがわかる。複数のイメージが生じた背景の一つとして、体色と対応する五仏の特徴から、金剛界五仏の展開に影響を受けたと推察される。
平成三十年十二月十五日 東洋大学白山キャンパス五B一二教室
一九二〇年前半の東洋大学と朝鮮
佐藤 厚 客員研究員
〔発表要旨〕日本が韓国を統治下に置いていた一九二〇年代前半、東洋大学と朝鮮との関係は緊密であった。本発表では発表者の過去の研究を土台に、それに新たな資料を追加しながら、この時代の東洋大学と朝鮮との関係について明らかにする。
一九二〇年代に入る前に、前史として二つのことに触れておきたい。第一には一九一四年に東洋大学に留学した朝鮮人学生、李鍾天についてである。彼は通度寺出身僧侶で東洋大学初の外国人卒業生である。彼は三・一運動直後に東京で行われた李太王(高宗)の追悼式で朝鮮人学生を代表して挨拶し、また朝鮮に帰った後の雑誌記事「仏教と哲学」が井上円了の影響をうけたものとして注目される。第二に、一九一八年に井上円了が行った朝鮮巡講についてである。一九一八年五月、井上円了は朝鮮総督府の依頼を受け、嘱託として朝鮮を巡講した。主として倫理、道徳に関する話だが、中では朝鮮人の日本への同化を説くとともに、朝鮮に高等教育を行う学校を設立することを説いている。これが後述する東洋大学の朝鮮分校構想へと繋がると考えられる。
続いて一九二〇年代の交流に入る。まず儒教団体が三度にわたり、東洋大学を訪問した。この背景には、一九二〇年代から朝鮮総督府が奨励した朝鮮人に同化を促すための内地観光事業がある。
一回目は一九二〇年十一月の慶尚北道儒林視察団の訪問である。三十一名が来訪し、大学では壮大な晩餐会を開催し漢詩の交流も行った。二度目は一九二一年十月の慶尚北道儒林第二次視察団の訪問である。この時には二十三名が参加し、前回と同様の歓待を行った。三度目は一九二二年四月の江原道儒道闡明会内地視察団の訪問である。この時は、歓迎会は行われていないが授業を参観した記録が残っている。
儒教団体の視察と同じ時期に、東洋大学の朝鮮分校を京城(現在のソウル)に作る構想があった。当時の東洋大学は学長・境野黄洋と、ナンバー2の三輪政一を中心に運営されていた。この中、三輪は過去に朝鮮で日本語学校を経営していたこともあり、朝鮮については関心が多かった。これは発表者の推測であるが、円了が朝鮮に高等教育を行う必要性を持ちながら逝去したことを受けて、三輪が東洋大学の朝鮮分校を構想したものと考えられる。新聞報道によれば、これは朝鮮総督の内諾を得るところまでいったが、一九二三年に起きた境野と三輪が学生から殴打され、東洋大学を去ることになった事件を契機として立ち消えになった。
以後も朝鮮人の留学生は東洋大学に入学するが、それ以外の朝鮮との目に見える交流はなくなっている。
平成三十年十二月十五日 東洋大学白山キャンパス五B一二教室
ヒンドゥー聖地バナーラスにおける「解脱」について
宮本 久義 客員研究員
〔発表要旨〕北インドの聖地バナーラス(別名ヴァーラーナスィー、アヴィムクタ)には、そこで死ねば即解脱が得られると信じる多くのヒンドゥー教徒が集まる。本発表では『シヴァ・プラーナ』、『マツヤ・プラーナ』などの聖典の中の聖地に関する縁起や巡礼・崇拝の作法を説くマーハートミヤ文献の中で、そのような信仰がどのような形で説かれてきたのかを考察した。
最初に紀元前九世紀から続くバナーラスに関連する歴史的事項を十八世紀まで振り返り、紀元後五世紀ころより徐々にヒンドゥー教の重要な聖地になっていく過程を示した。次に、バナーラスが聖地として有名になる背景となったと考えられる神話について、代表的なものを選んで解説した。
一番目は、「放蕩の限りを尽くした信徒マンダパ」の神話(『ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナ』の補遺とされる『カーシー・ラハスヤ』第九章)である。娼家で遊興の限りをつくし、宮廷で盗みを働いたあげく家族や友人からも見捨てられたマンダパなる人物が、たまたまめぐり会った巡礼団とともにパンチャ・クローシー巡礼を行って宗教的に目覚める話が説かれている。二番目は、「ヤクシャ(夜叉)の出自を持つ信徒ハリケーシャ」の神話(『マツヤ・プラーナ』第一八〇章)で、プールナバドラの息子ハリケーシャ(別名ピンガラ)が何故この聖地を護る番人になったのかの由来譚とともに、バナーラスの解脱をもたらす聖地としての魅力が語られる。三番目に、「ブラーフマナ殺しを犯したシヴァ神」の神話(『マツヤ・プラーナ』第一八三章八四~一〇三詩節)を取り上げた。
シヴァ神はブラフマー神と誰が創造神かをめぐって論争し、ブラフマー神の五つあった頭の一つを切り落としてしまった。しかしその頭はシヴァ神の腕に噛み付いたまま離れなくなってしまう。さらにブラフマー神はシヴァ神がそのような姿で聖地を放浪する呪いをかける。最終的には、シヴァ神が自分自身の聖地バナーラスの結界内に入ったとたん、頭は千々に砕けた。これらのエピソードは、シヴァ神の信徒が聖地バナーラスのパンチャ・クローシー巡礼路の内側にいることで、シヴァ神の信愛、さらには解脱が得られることを示している。
多くの聖典で、「アヴィムクタへ行ったら、いかなるときでも時間の尽きるまで、石で両足を砕いて、まさにそこで死ぬがよい。」(『マツヤ・プラーナ』第一八一章二三偈)、あるいは、「カーシーにやって来たら、絶対にどこへも外に出てはいけない。私の口から正しきことを聞き、聖地に住むがよい。」(『カーシー・ラハスヤ』第十一章三十七偈)、などと説かれることによって、人はこの聖地の結界内で死ねば解脱が得られるという信仰が定着していったと考えられる。