平成12年1月8日
平成12年1月8日
経典の真読について
―真読は転読の対語か―
榎本 榮一 研究員
真読(信読)の語義については、仏教辞典を始めとして諸辞典の釈義や資料・古典の注解の多くが、経典の略読である転読の対語で、経典を始めから終りまで省略することなく読誦することである、としている。しかし、転読については、既に「経典の転読について」(『東洋学研究27号』)で見たように、古代から中世中期までの古記録や文学資料などを見ると、略読の意味が見られないのである。 転読と真読の関係において、同一の経典の読誦を指して、ある文献では転読とするものを、他の記録では真読とするものもある。また、14世紀に成立した『法然上人絵伝』には、「信読の大般若経を転読して」とあるように、この2つの語が矛盾しない関係であることを表している。
真読の語は、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』『平家物語』といった中世の記録や文学に見られるので、真読の語が用いられ始めたのは、遡れても、平安時代末位までではないかと思われる。この真読の語が見られるようになる時期より少し前、『今昔物語集』には、同じ説話の先行形態を収めた『法華験記』には見られなかった、経典の「訓読」という語が見られるようになる。そして、この訓読の担い手は、聖系の僧のようである。
この平安時代後期に、聖系の僧により経典の訓読が広がろうとする時期、これに対し、正統的・官僧的立場から、経典の音読を強調した、それが「真読」ではなかろうか。
辞典等でいう経典を略読するには、巻子装の経巻では無理で、折本装になって始めてできるのである。中世後期になると、地方の有力武士などにも大般若経転読への需要が高まった。しかし、これには多く僧と経費が掛かった。そのころ南都の諸寺や五山などによる一切経の開版により、折本装の経典が普及してきた。そこで少人数の僧により短い期間で、折本装の経典を使った略読が行われるようになった。これにより、転読が略読の意味を持つようになると共に、真読が転読の意味を肩代りするようになった、と思われる。それは、『日葡辞書』に、今日と同じ「転読は略読で、真読はその対語」といった概念があるところから、16世紀の末までには成っていたことがわかる。しかし、江戸時代初期の俳諸師松永貞徳の『犬子集』に「かへりてんなき志んとくの経」の句があり、そのころにはまだ、真読に訓読の対語としての意味も残っていたことがわかる。
源氏物語考
―習俗と表現の特色とを軸として―
神作 光一 研究所員
まず、『源氏物語』に見られる風俗習慣(俗習をも含む)に関する用例を具体的に取りあげ、その考察を試みた。平安朝の当時、あまりに美しく秀でた人は、神に魅入られて若死にするとの俗信があった。この考え方は、『河海抄』が引いている『大鏡』昔物語に基づくものと判断される。つまり、醍醐天皇の大井川行幸の折、7歳の雅明親王が見事な舞を舞ったところ、山の神がその幼い皇子の舞姿を賞でるあまり、神隠しにしたという話である。この雅明親王の故事を踏まえているかと思われる描写が「紅葉賀」巻の11〜12頁(新潮日本古典集成)にある。それは18歳の源氏が頭の中将と共に青海波を舞い、人々の感嘆の的となった場面である。東宮の母女御(弘徽殿の女御)は、このような源氏の君をおもしろからずお思いで「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とおっしゃったという。いわば、「ゆゆしき」までの美しさ、途中で早死にでもするかと思われるほどの不吉なまでの美しさということである。
このような俗信が背景に存するかとみられる描写を『源氏物語』中から18例ほど抜き出し、仔細に検討した。すなわち、「桐壺」29頁、「夕顔」146〜147頁、「夕顔」166頁、「若紫」205頁、「紅葉賀」11〜12頁、「紅葉賀」14頁、「紅葉賀」23頁、「紅葉賀」28頁、「葵」73頁、「賢木」137頁、「須磨」238頁、「澪標」21頁、「朝顔」191頁、「玉鬘」284頁、「柏木」278頁、「横笛」324〜325頁、「橋姫」257頁、「宿木」249〜250頁、である。
その結果、「ゆゆしき」までの美しさを持ちている登場人物としては、源氏の君の10例、冷泉帝の1例、伊勢の斎宮の1例、明石の姫君の1例、玉鬘の1例、薫の2例、中の君の1例、中の君の生んだ男児の1例、と集約することができた。その上で、『狭衣物語』にみられる「ゆゆしき」までの美しさについても吟味した。
なお、習俗語として慶事の予兆の意味を有して使われている「ささがにの振舞」「蜘蛛の振舞」についても用例を挙げて検討した。
次に、『源氏物語』の表現の特色を把握するため、地の文、会話文、手紙文などにおける和歌的修辞法を踏まえた文脈を15例、具体的に掲出した。ただし、この事柄について今回は、時間の都合上、ほんの少ししか論及できなかった。いずれ別の機会を得て、詳細に発表したいと考えている。終わりに、歌語3つ、ことばの註釈4つについて簡潔に述べた。