日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
本プロジェクトは、私たちの日常を支える必須な事柄として、葬送儀礼をとらえて、異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・生命倫理・社会・比較文化の研究をおこなうことによって、行きすぎた近代性や死に対する隠蔽性について批判吟味し、人間にとって避けようのない生と死の問題を、多層に及ぶ深層意識の働きの問題として理解し、現代人が決して見失ってはならない「生きがい」を具体的に提示することを目的とするものである。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里 巧 研究所長 研究総括・葬送儀礼・死霊観の精神史的研究
研究分担者 役割分担
竹内清己 研究員 戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂
原田香織 研究員 能・狂言にみる死後の魂の存在
野呂芳信 研究員 詩作における死と魂
朝比奈美知子 研究員 葬送儀礼と死生観に関する比較文学・比較文化的研究
大鹿勝之 客員研究員 宗教・習俗にみる死生観・倫理観
川又俊則 客員研究員 葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究
次に、今年度の研究経過を報告する。
まず平成23年5月21日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は、研究分野におけるテーマ設定と研究計画について話し、相互に研究内容の確認を行った。また、研究発表会の日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
中里は、平成23年11月4日〜6日、旭川市博物館に赴き、竪穴住居、梁上遺構、続縄文時代余市町フゴッペ洞窟壁画片、縄文早期前期の土器、縄文前期中期後晩期の土器、続縄文時代の土器などの展示資料を調べた。竹内は、平成23年10月~9日、戦争文学と民俗にみる死生観と死後の魂について沖縄への調査を行った。原田は、日本人の葬送儀礼と異界との関係を研究するにあたって、分担課題である日本古典芸能「能楽」を通して、日常生活の裏側に潜む、深層意識という心理的な部分における葛藤の解放について研究を進め、平成24年2月17日〜20日に長野県の「木賊」の舞台となった寺社、城址、墓所の調査を行っている。野呂は、萩原朔太郎の死生観の集大成といえる作品「復活した耶蘇の話」に注目し、分析を進め、作家の抱く「墓」関連のイメージを探索した。朝比奈は、19世紀における「東方」のテーマの流行の在り方を、文学作品および、文化資料を通じて検討し、そこに表れた「死」、「葬送」、「冥界」のイメージを、近代西欧社会におけるイメージと比較するべく、文献研究を進めた。大鹿は、観音浄土を目指して船出する補陀落渡海という実践行について、8月8日〜11日、室戸岬、足摺岬に赴き、その地勢や風景、そして室戸岬においては最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、足摺岬においては金剛福寺を調査した。川又は、三重県の、四日市市、鈴鹿市、鳥羽市神(島・答志島)、尾鷲市等の神社や地域における葬送儀礼の変遷について、宮司等へのインタビュー調査を行っている。
以上の研究に示された同時多角的視点について、(1)分担者間の討議(前期複数回)(2)各分担者オープンパネルディスカッション(後期複数回)(3)パネルデイスカッションフロアー参加者意識調査(4)各分担者作業自身による異界観と生きがいの関係性省察(5)個々の討議や意識調査の結果公表にとりわけ集中する仕方で統括を進めている。
(1)分担者間の討議(前期複数回)
5月21日に研究打合会が開催され、各研究者の研究の方向を確認したはか、以下のテーマで研究者間の討議を重ねてきている。
1.能楽の主題としての呪術の存在、また能楽における、現代社会の深層意識に残っている人々の怨念を慰めたり、消したりする呪術的な要素 2.言戦没者の慰霊の、今日の社会への影響 3.現代社会において隠蔽された異界 4.日本のイメージに即した神道のあり方5.現代の日本に馴染む仏教のあり方―地域への開放性
(2)各分担者オープンパネルデイスカッション各研究者の発表とパネルデイスカッション
平成23年11月12日および平成24年1月21日に、公開のパネルデイスカッションを開催した。以下に平成23年度に行われた研究調査、およびパネルデイスカッションの概要を示す。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査(葬送儀礼の変化についての宮司へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成23年7月15日(1日)
調査地 浜田神社および小川神社(三重県鈴鹿市)
浜田神社および小川神社の宮司山下久夫氏へのインタビュー。両神社を見学し、その後、宮司経験35年間の儀礼の簡素化についての説明を受ける。
葬儀は現在では自宅ではなくほとんどが祭場で執行され、かつ、その日のうちに、10日祭(仏教式の初7日)を行ってしまうことが多い。また、前日に通夜祭、遷霊祭、当日に、告別式(葬場祭)、火葬祭、帰家祭を行うが、家で実施しないので帰家祭も祭場でしているとのこと。そして、20日祭、30日祭、40日祭と続くが全部省略し、50日祭を自宅で行う場合がほとんどであるという。仏教式でも儀礼の簡素化が前年の調査で確認されたが、神式でも、同様の傾向があることが分かった。さらに、葬儀の執行者も、かつては複数の官司が担当していたが、現在は、喪主の希望で単独実施がほとんどだという
他の結婚式・地鎮祭もこの五年前後で変質したと感じているとの話も伺った。
各地の宮司の方をご紹介いただけるとのことで、県内地域の比較をしていく予定。
研究調査活動
分担課題
「宗教・習俗にみる死生観・倫理観」に関する研究調査(補陀落渡海の調査から生死の問題を検討するため、
賀登上人や理一上人が渡海したとされる室戸岬と足摺岬に赴き、その地勢および風景、関連する寺院の調査を行う。)
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成23年8月8日〜8月11日
調査地 足摺岬、室戸岬
観音浄土を目指して船出する補陀落渡海という実践行について、室戸岬、足摺岬に赴き、その地勢や風景、そして室戸岬においては最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、足摺岬においては金剛福寺を調査した。解脱房貞慶は『観音講式』において、賀登上人が長保3年(1001)に弟子1人を伴って室戸津から渡海したと記している。また、康元2年(1257)正月、実勝上人が室戸津より補陀落渡海したと伝えられている。しかしながら賀登上人については、正嘉元年(1257)年4月前摂政一条実経家政所下文案(竹内理三編『鎌倉遺文』第11巻、8105号文書)に金剛福寺の由来として「賀東行者之迄印往也、従於此遷補茶洛山之堺」とあるように、足摺岬での渡海伝承があり、『磋陀山縁起』には「金剛稲寺は去斯不遠の補陀洛界也」とある。また足摺岬には、『とはずがたり』にみられる補陀落渡海説話、『平家物語』「足摺明神事」の理一上人の渡海についての語りなど、補陀落渡海の伝承がある。
8月8日夕方に足摺岬に到着。翌九日、自山洞門、アロウドの浜に降り立ち、『磋陀山縁起』に賀登上人が弟子の日円の先んじた渡海を嘆き涙が不増不減の水となったと伝えられる不増不滅の手水鉢を通って足摺岬灯台、天狗の鼻とたどり、峻厳な岩肌とはるかなる海の眺望を把握する。その後、「補陀落東門」の額が掲げられた金剛福寺に赴き、本堂、大師堂、多宝塔などをみて回る。
8月10日は室戸岬に移動、宿泊先に荷物を置いて、遍路道を通って最御崎寺へ。最御崎寺は嘉元4年(1306)3月22日官宜旨案(竹内理三編『鎌倉遺文』第29巻、32549号文書)に「此地南則通補陀洛山、行者常得渡彼山」とある。その後室戸岬灯台に移動して海を遠望し、坂を下り、遊歩道を通って室戸岬の海岸線を把握する。11日は御厨人窟、一夜建立の岩屋を踏査し、金剛頂寺、津照寺を調査。金剛頂寺へは元橋バス停から遍路道を通って行った。金剛頂寺は最御崎寺が「東寺」と呼ばれるのに対し、「西寺」と呼ばれ、室戸岬の西北にある行当岬の上にある。津照寺は津寺とも呼ばれ、室津港の北岸にある。以上の3か寺が室戸岬における補陀落渡海の拠点として考えられている。
今回の調査は、遍路道の傾斜のある道のり、海岸線の険しい様相から、辺路修行のあり方と補陀落渡海との関連性について示唆を与える調査であった。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(離島の神社の実態調査と住民へのインタビュー、および答志地区での盆祭り・墓参の調査と住民へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成23年8月14日〜8月15日
調査地 神島、答志島(三重県)
14日昼、神島到着。同島の墓地に「日中参り」を実施している多数の住民の様子を観察。墓参終了した住民ヘインタビュー。神島では従来、13日に先祖を各家庭で迎えた後、14日に朝・昼の2度墓参する。とくに昼は「日中参り」と称し、暑い12時前後に実施している。15日に先祖送りをして盆行事が終了する。盆行事に八代神社はとくに関与はしていない。10年前に板井正斉皇學館大学准教授が報告した内容を再確認した。同夜、答志島答志地区の盆踊り見学。夜店もなく、老若男女が、1曲をただひたすら踊る盆踊り。青年団の若者が中心になって運営している様子を確認した。15日午前6時より「火入れ」(集団墓参)。5時台には初盆の家族が墓参し、6時のサイレンと同時に地区住民(300名以上)が一斉に墓地の、自らの家族・親成、寝屋親・寝屋子の家族・親成等の墓地すべてに線香を立て、水と米をかけて廻り参拝。14日10時と15日6時に住民が申し合わせて実施。消防団が火事防止のため、45分後の墓参終了時、各墓所で線香の残りの火に水をかけて消火活動。住民への聴き取りから、先祖祭りたる盆行事をとても重要視していることが確認された。
分担課題
「戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂」に基づく調査
(沖縄戦の第32軍に編入された第24師団を中心に、沖縄戦の戦跡と鎮魂の跡を調査する。)
竹内 清己 研究員
期間 平成23年10月7日〜10月9日
調査地 沖縄(糸満市ほか)
再建された首里城址を訪ねる。沖縄戦の守備軍第32軍の総司令部跡、および合同無線通信所のあった奎壕洞窟は、沖縄最高位の祈祷所の崖下にあった。豊見城址に西部野戦病院患者合祀碑、慰霊の日(6月23日)ここにも聞得大君の祈願所があった。海軍司令部壕は地下要塞がそのまま残されており、海軍戦没者慰霊之塔が丘の上に立つ。摩文仁の丘が墜とされた後も、最期の戦いがあり旭川の第7師団が主力であった第24師団の最期の地(真栄平)に「南北の塔」があった。捜索24聯隊慰霊之碑、その碑文に涙した。「沖縄戦終えんの地、‥…」犠牲者の碑銘、洞窟のわき水。更に自梅之塔、あまねく知られる陸軍病院第3外科壕跡に建てられたひめゆりの塔に手を合わせる。
摩文仁の平和記念公園の丘原を平和記念館、記念資料館を丁寧に見て回りつつ、頂上の黎明之塔に花束と線香を捧げる。ここは牛島満連隊長自害の地。
那覇市街を戦跡と繁栄と南西の海をみやりつつ歩き廻って、沖縄に本土神社信仰のシンボルとして置かれた波上官を参拝した。
分担課題
「葬送儀礼・死霊観の精神史的研究」に基づく調査
(アイヌシャーマン等の研究として、旭川市博物館に赴き、アイヌ文化とりわけ儀礼に関する所蔵品や資料を調査する。)
中里 巧 研究所長
期間 平成23年11月4日〜11月6日
調査地 旭川市博物館
旭川市立博物館において11月4日午後2時〜午後5時まで、擦文時代の暮らし(約1200年〜600年前)を中心に、竪穴住居・梁上遺構・錦町五遺跡ムラ・錦町五遺跡ムラ鍛冶工房・炭化した食糧や生活用具ならびに織物の調査をおこなう。旭川市市立博物館のアイヌ定義は、北海道地域において縄文時代にまでさかのぼる壮大なものであり、きわめて多様な有意味性体系を構成することができ、大変参考になる。
同博物館において、11月5日午前10時半〜午後5時まで、ほとんど休憩を取らず、時間をできるかぎり調査に集中させる。続縄文時代余市町フゴッペ洞窟壁画片・擦文時代のクマ猟・アマック(仕掛弓)猟・トゥレプとペラアイ猟・テシ猟・犬と生業・マラット(包飾頭骨―アオウドリ・キツネ・トリ)・イナウ・キケウシパシュイ・イクパシュイ・カムイエンカリ・エペレアイ・先土器時代の石刃作成技法・縄文早期前期の土器の調査をおこなう。微細に生活を再構成することによって、シャーマニズムは理解可能となる。
同博物館において、11月6日午前10時半〜午後5時まで、ほとんど休憩を取らず、縄文前期中期後晩期の土器・続縄文時代の土器・ミニチュア土器・続縄文時代の土笛・オホーツク文化の住居と擦文文化の住居比較・オホーツク文化の骨角器について、調査をおこなう。方法は、三日間ともすべて説明解説文をノートに筆写し、またデジタルカメラで撮影をおこなう仕方である。作業にさいして、同博物館員からきわめて親切に対応していただいた。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(鳥羽市答志島「神祭」の見学および橋本好史官司・住民へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成24年2月12日(1日)
調査地 答志島(三重県)
答志島答志地区の伝統行事「神祭」を見学し、関係者ヘインタビューした。
午前、隣接する和具地区を見学。同地区ではすでに2月8日に「神祭」を実施し、同日はワカメ漁2日目とあって家族中でワカメ作業に従事していた。墓地は祭の後とあって整備されていた。同祭を司る橋本宮司に挨拶。行事に追われ詳しいインタビューは後日とした。
山下伴郎「島の旅社」代表に挨拶。答志地区のまとめ役的存在。後日のインタビュー快諾。7人使い。お的衆たちが喫を終え、地区内を「お的」を持ちながら練り歩く。同地区関係者数名にインタビュー。50年ほど前は同年代が90名以上いたが、現在は男女で十数名となっており、若者たちの役割を高校生に引き下げたこともあり、固定した日ではなく土日に行事を変更せざるを得なかったこと。だが、同祭は地区住民、元地区住民が集合する最も大きな行事として浸透しているので守り続けたいとの意志が強いこと、「お的」の墨で08と家や船に書き、家内安全。大漁祈願をする重要性などをみな理解していることなど詳細に教えていただいた。答志地区の墓地も整備されており、信心深い様子を再確認した。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(四日市近郊の神社の見学と、複数の神社を管理する宮司竹中浩氏へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成24年2月13日(1日)
調査地 高角神田天白神社ほか(三重県四日市市)
四日市市の高角神田天白神社等の見学、および宮司竹中浩氏へのインタビュー。
鈴鹿市の神社の宮司山下氏から得た知見の確認をした。四日市市は都市部・農村部いずれも同様の傾向で、神葬祭自体少ないし、通夜祭・50日祭等の基本的な簡略化傾向はあるという。また、地鎮祭においては、建設業者の知り合いの神職が行い、地元の神社への連絡等がないなどの例も頻発し、氏神に対する祭のはずが、対応する神職の意識を含めとくに平成年間に入ってからの大きな変化は、人びとの心の変化なのでないかと危惧しているということを伺った。例大祭などは参加しやすいように土日に実施する神社も多い。子どもが参加できるように、午前に神事・午後にイベント的な試みなどをしている例もある。七五三などの重要な行事(通過儀礼)について、氏神社ではなく有名な大きな神社で行う例も増えており、子ども数も減少する中で、多数の神社を兼務する宮司もいる。
平日であるが参拝者もおり、簡素化・簡略化の傾向や地元神社との関係が薄いところもあるが、葬祭で神職側が氏子との関係変化に腐心している様子が分かった。
分担課題
「能・狂言にみる死後の魂の存在」に基づく研究調査(謡曲「木賊」の舞台となった寺社、城址、墓所の調査)
原田 香織 客員研究員
期間 平成24年2月17日〜2月20日
調査地 長野県下伊那郡阿智村・阿南町、飯田市、伊那市
初日は、長野県阿智村の山岳地帯に近い謡曲『木賊』の舞台、園原の地を廻った。園原は帇木の跡などがあり、平安文学からの伝統ある場所であるが、神坂神社、月見堂など、歌枕や文学における結界の地域を確認した。
2日目は、浪合記の残る旧浪合村、浪合神社(南北朝時代の後醍醐天皇の孫、伊良親王墓)、武田信玄浪合の関所跡、武田信玄の遺品の残る長岳寺、十三重塔、家臣の供養五輪塔、阿南町では戦国武将下条頼氏の居城であった古城八幡社、関氏の権現城跡等を踏査した。
3日目は、小笠原書院を見、天竜峡、鈴岡城址、伊那八幡、神之峰城址などについては特に地形等を確認した。中世の武田信玄と関わる飯田城址は遺構が門や碑のみで、戦国時代の合戦と寺院の関係を確認した。また推古天皇時代からの元善光寺を踏査した。
最終日は、伊那市の高遠を中心に、寺院群(桂泉院・峰山寺・鉾持神社・建福寺の仏足石・蓮華寺・満光寺・樹林寺・香福寺・龍勝寺・遠照寺・清水庵・仲仙寺)をめぐるが、この地区は平安朝から中世、近世などの門・寺院・梵鐘・仏像・文書など実に多くの古い文化財が集中している。とくに戦国時代の一族の墓所など葬送儀礼と関連のある石碑、墓等を多く確認できた。歴史的事跡を確認し有意義に踏査を終える事が出来た。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(葬送儀礼の変化に関する、尾鷲市における住民・神職等の意識・実態調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成24年2月21日〜2月22日
調査地 三重県尾鷲市(須賀利町ほか)
21日、東紀州観光まちづくり公社(三重県尾鷲庁舎内紀北事務所)のまちづくり総務室長北村様より宗教施設と町おこし・住民との関係についてうかがう。東紀州地域は、高齢化率31.2%(県平均21.5%)をウェブ上でも提示し、公社は、観光・産業・まちづくりの観点から、寺院・神社の行事等の紹介している。「ヤーヤ祭り」などの年中行事は地域の紐帯のためにも大事に思う住民が多いとのこと。
曹洞宗普済寺牧野明徳住職に葬送儀礼の変化、住民の変化などを伺う。住民減少、とくに後継者層が外部に転出し、葬儀自体は減っており、また、他所で葬儀をするケース(曹洞宗以外も)があり、簡略化・簡素化の傾向があることが述べられた。檀家戸主の平均年齢は60ー70歳代。
須賀利住民ヘインタビュー。高齢者が多いこの地域では、墓参をしっかりしているものの、葬儀は寺院以外の尾鷲市・葬祭場を利用することも増えているとのこと。
22日。尾鷲神社、曹洞宗金剛寺、浄土宗念仏寺、尾鷲観光物産協会の見学および尾鷲市街見学。寺院・神社を歩く住民へ簡単な聞き取り。葬儀は近年、市内葬祭センターを利用したという人が多かった。
パネルディスカッション
平成23年11月12日東洋大学白山校舎6310教室
発表者大鹿勝之客員研究員川又俊則客員研究員竹内清己研究員司会中里巧研究所長
現代における生きがいとは、自己とは何かというアイデンティティーの問題ではないかと思われる。大鹿客員研究員は異界と現世をめぐる風景について発表したが、風景は、冬の家族の団果の風景など、さまざまなイメージというものが、単に自分の思いだけではなくて、自然と結びついたり、社会の習俗とも結びついたりした映像として表れてくる。現代はそのような風景が損なわれてきているが、損なわれれば損なわれるほど、寂しく感じるように思われる。そのような意味で、風景はアイデンティティーの問題と深く絡んでいるように思われる。
川又客員研究員の発表では、とりわけ先祖祭祀が大事にされているという報告がなされたが、祖先がいなければ現在の存在もいないわけで、祖先祭祀は自覚的になされているというよりは半ば無自覚的に習俗としてなされていると思われるが、祖先祭祀を大事にするということが、アイデンティティーの安定性ということとの大きなつながりがあるように窺える。また、葬送儀礼の簡略化は創造性の簡略化にもつながってくるのではないかと憂慮するが、家族形態の変化により、死後誰がお墓を守ってくれるのだろうかという問題も、アイデンティティーと大きくつながっているようにみえる。
竹内研究員の発表は、自己のアイデンティティーあるいは日本という存在のアイデンティティーを考える上で非常に刺激的な発表であらた。戦跡や慰霊についていえば、アイデンティティーがまさに問い返されるということではないか。
以上3氏の発表は、このようにアイデンティティーや生きがいの問題をさぐる上で、非常に貴重な発表であった。
研究発表
異界と現世をめぐる風景―補陀落渡海にみる風景―
大鹿勝之客員研究員
〔発表要旨〕死は単なる個体の死亡に局限されず、残された者にさまざまな像をもたらす。その像1つとして、風景があげられる。死にまつわる風景は残された者によって多様な様相を帯びる。普段何となしに通り過ぎていた街の風景が拒否すべきものとなったり、逆に公園のブランコに馴染んだり、風景がとても親密になることもある。この風景と生死との関係について、今回の発表では、かつて観音浄土をめざして行われた補陀落渡海という実践行と、その補陀落渡海の場となった紀伊の那智の海岸、4国の室戸岬と足摺岬の風景から少しばかり検討してみた。
観音浄土をめざして行われたという補陀落渡海の跡地は、茨城県の那珂湊の海岸から、鹿児島県加世田にいたる領域に多くあるが、なかでも和歌山県の熊野那智の海岸は、その渡海数において際だった出帆地であった。那智の浜の風景は現在海水浴場であるが、波が穏やかであったこともあり、はるか沖合に至るまで悠然たる様を示していた。沖合にある小島も、さらなる出発点として位置づけられる様相を呈している。
室戸岬・足招岬には補陀落渡海に関する報告や伝承がある。そして、足摺岬、あるいは室戸岬からの補陀落渡海には辺路行という修行との関連が指摘されているが、この辺路の修行と補陀落渡海との関連性について、風景からとらえてみると、足摺岬は白山洞門という海蝕洞があり、その隣にはアロウド浜と呼ばれるゴロタ石の浜がある。この石を歩いていくのは容易ではない。そして、足摺岬灯台、天狗の鼻と絶壁峻厳な岩肌が続く。このような岩肌を伝って歩くことは、足を摺るような行為であり、そこに辺路行としての捨身の性質を見ることができる。室戸岬は断崖絶壁ではなく、磯に容易に降り立つことができるが、現在は磯伝いに遊歩道があり歩行が容易なものの、そのようなコンクリートに固められた遊歩道のないような時代にあっては、磯を歩いていくことは苦痛を伴うことであったことが窺える。それとは対極的に穏やかな海原は広大無辺な様を示す。往還する出発点であり終着点である様相である。そこから、辺路修行によって体を離れ、大きな懐へと帰って行くような連続性が見いだされる。また、室戸岬には空海が修行した御厨人窟があるが、このような窟は白山洞門の洞穴と対をなすように窺える。すなわち、穴というふさがれた状態から、大海という解放への移行である。このような捉え方は、記録だけでは浮かばないだろうし、風景だけでは過去の出来事は浮かばない。過去の記録と見ている風景の双方が、いわば死の記憶を呼び覚ますように、いわば風景に刻まれた記憶を呼び起こすように、過去の出来事の情景を浮かび上がらせる。
研究発表
葬送儀礼の簡略化と非簡略化の差異
川又俊則客員研究員
〔発表要旨〕本発表では、葬送儀礼の近年の動向を踏まえながら、仙台と三重県における調査地の事例を検討した。葬送儀礼を巡る近年の動向を追ってみると、地域共同体(結縁・地縁)による相互扶助としての葬儀から、故人に直接関係しない者が参列し、葬儀社が参入してくる段階への移行がみられ、家族葬と直葬が徐々に浸透してくるようになる。家族葬と直葬については、メディアや論者によってその位置づけが異なるが、本発表では、直葬と家族葬とを以下のように分けて考える。
直葬―宗教的儀礼は行わず(若干行うところもあるが)、火葬だけ行う
家族葬―ごく少数で行われる葬儀、①身近な親族②家族・親族③家族・親族・友人(かつての密葬)
仙台における事例について、まず、渡邊千恵子・阿留多伎り県人「家族の私事化と葬儀の変化」(『尚細学院大学紀要』52、131―137頁、2006年)によると、仙台市における葬儀の変化について、1994年から2004年の10年間の間に、寺院での実施から斎場への実施という大きな変化が見られるが、調査した仙台近郊のある地域では、仙台近郊ということで、もともとその地域にお住まいの方々、そして、ニュータウンや団地に新しく越してこられた方々がいて、もともとおられた方々の寺院と、新しく入られた方の寺院とでは、やはり重要行事の維持の部分で若干違っている。そして重要なのは先祖祭祀であり、その先祖祭祀に多くの方々が参加されている。
三重県の事例について、神葬祭の実施状況についてある官司にお話を伺ったところ、この10年間で葬儀の期間・執行者の減少という簡略化の傾向があるという。その一方で、伊勢市の事例では2007年においても神葬祭で通夜を二晩行う伝統的なあり方が見られるなど、地域により維持の傾向もある。
そして、先に述べた先祖祭祀の重要性について、盆行事の現況として、①鳥羽市神島の「日中参り」②鳥羽市答志島「火入れ」③紀北町紀伊長島「おおどり送り」の調査事例を報告した。調査したいずれの事例も、伝統的な形態が維持され、先祖祭祀が重要であるという認識はまだ十分にある、ということがいえる。しかしながら、今日の葬儀の流れや人口減少社会の中で、維持されている形態がこれからどのようになっていき、葬儀の簡略化の傾向が今後どのように展開するのか、今後10年間に大きな変化があるのではないかと思われる。
研究発表
沖縄戦の戦跡と慰霊・鎮魂の賦
竹内清己研究員
〔発表要旨〕北海道の第七師団の調査をしたときに、沖縄の日本軍の兵隊の20%が北海道出身であったという事実、保阪正康『最強師団の宿命』に、沖縄の真栄平に南北の塔や捜索24連隊の慰霊碑が建っていることが記されていることを踏まえ、北海道出身の兵隊をことさら強調するのは同じ道人としての身びいきではないかと考えつつ、本発表では、首里城趾・豊見城趾・真栄平・摩文仁の丘の調査について報告した。
首里城には、第32軍(沖縄守備隊)総司令部があった。守礼門から入ると、沖縄の最高神聞得大君をまつる園比屋武御嶽があるが、御嶽の崖のようなところを降りてゆくと、その崖をくりぬくように本部がある。このように、宗教施設の下、地下の壕に病院や通信部や軍部がつくられていった。
糸満の自銀堂、幸地腹門中墓を見学した後、豊見城址をめぐり、さらに城址から旧海軍司令部壕をめざした。地下壕がそのまま保存され、作戦室、幕僚室、司令官室、医務室とあって、太田賞海軍少将の決別の電報「……沖縄県民斯ク戦ヘリ県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」が残されている。
そして南北の塔にたどりつく。「捜索二十四聯隊慰霊之碑」と「山三四七八部隊故将兵之霊」もあって、観音像と慰霊之碑文が添えられていた。洞穴があり、わき水が流れている。ただ手を合わせた。
それから、摩文仁の平和記念館に行き、「平和の礎」を確かめる。「平和の礎」刻銘者数一覧に県内市町村別、都道府県別の日本人の死者数が記され、北海道の10,800名が、福岡の4,028名、東京の3,514名を優に超えていることを確認した。
古代防人は南方太宰府の防衛に北方諸国から徴集された。近代本土の最後の防衛戦は南方沖縄においてなされ、日本各県から兵隊が徴集されたが、殊に多くの北海道人が用いられた。日本軍の最初の玉砕地は、北方、アッツ島、アリューシャン列島の方である。第7師団は、北方ロシアからの南下に対して防衛するのが最大の目的で、アッツ島の王砕の大半が第7師団であったのは当然とはいえ、日本が最初に南方で敗退していくガダルカナルにも、旭川の神社に祀られているように、大量の第七師団が組み込まれていた。そして、末期、満州から24軍と組み直されて、急返第7師団が沖縄に投入された。そこで、追いつめられて惨くも修羅と地獄のはてに、どんな非道が行われたか。戦争批判において、中央と地方の関係、中央と地方というときには東と西という関係もあるが、何といっても中央に対する南と北の関係、これらの関係をあらためて考える必要があるのではないか。
各発表者の発表のあと、直葬における実施者の意識のあり方、基地問題と宗教意識、遍路における室戸・足摺の位置づけ、沖縄における一般的な慰霊の状況、風景による出来事の風化、現代の葬送の未来のあり方といった問題に対して発表者間での質疑応答がなされ、またフロアからは高城研究員より、海彼への憧憬と補陀落渡海との関係、木葬についての見解、沖縄の神社における信仰としての領域について質問がなされ、活発な議論が交わされた。
パネルディスカッション
平成24年1月21日東洋大学白山校舎6302教室
発表者
野呂 芳信 研究員
原田 香織 研究員
朝比奈 美知子 研究員
司会 中里 巧 研究所長
小さな山でも山の中に入っていくと、場所によっては幽霊が出そうなところもあり、結界のようなところもあって、1歩山の中に入っただけで自己の中に表れてくるリアリティが変わってくる、あるいは今までには気づかなかったリアリティが出て来る。山の風景もそうで、奥多摩のようなところでも山の中に入つていくと、これほど山があったのかと驚くくらい、全然見えていなかった山の畝が見えてきて、今までどこにいたのだろうと思うことがある。
このようなことは人生にもあって、境遇が変わったり、社会の中で違う職種に就いたり、立場が変わったりすることでリアリティや印象は変わるのではないかといえる。西洋哲学では理性を重視する見方が古代より近代に至るまで展開されてきたが、理性というのは調和的にはたらくというよりも、支配―被支配の構造を作り上げてきたのではないか。理性的とされる人間が非理性的とされる人間や自然を支配し、理性でもって抑圧するような支配―被支配のあり方が理性重視の見方にはあるのではないか、という印象がある。アイヌや北方文化を調べていくと、人間という存在がどんどん小さくなって、それほど人間という言葉は重要ではなくて、むしろ動物という言葉の方が一般的で、日本人や〜県人も〜市民も動物の中の一つであって、東京の人間や埼玉の人間であるということは熊であったり鷲であったりするのと同じだ、という世界観があることがわかる。熊のほうが偉いというリアリティがあって、そういうリアリティも自然の中に入っていくとよくわかることがある。
そのような意味で、今回のパネルデイスカッションでは、それぞれの発表において、さまざまな観点から研究がなされていて、1人1人の人間の中にも、今回発表されたことに関するリアリティがあるのではないかと思われる。
研究発表
意志と宿命―萩原朔太郎における異界との接触と墓について―
野呂 芳信 研究員
〔発表要旨〕萩原朔太郎が尊敬する従兄弟に宛てた、萩原榮次宛の手紙(明治45年)に、次の言葉がある。
死んだ者は無に帰するといふ事は信じたくはないが事實であるから仕方がない、事實といふ事を亡ぼして仕舞ひたい者だ、自個の意志を以てあらゆる宇寅の方則を運韓、變化さして見たい、あゝ私は全能の神になりたい、
宿命にはいろいろあるが、この三次元における世の中には原因があり結果があり、その中から人間は逃れることができない、これが宿命としてとらえられ、その代表格として、人はやがて死ぬのである、ということがある。朔太郎には宿命の代表的なイメージとして死があるように思われる。そして、「あゝ私は全能の神になりたい」というように、意志による宿命の超越を青年時代の朔太郎は夢見る。
大正6年頃の「ノート六」には、不死の人になるまで、という標題の箇所があり、タイトルの通り不死の人になることが問題となっている。そして、死なないとはどのようなイメージなのか、ということについて次のように示されている。
ここに問題がある。つまり私共の考へなければならないことは「人格ある重」の虚賞に開する疑間で ある。人間が死んでから、人間の霊魂は(もし雲魂があるとすれば)、恐らくはエネルギイのやうに不滅 不檜の質量で空中にある一定量を占めてゐるものにちがひない。併しそんなものは我々自身とは関係がな い。それはもはや人間の生命ではなくして、ただの物象にすぎないからである。けれども、もし1皿とい ふものがさうした空々漠々たるものでなくして、死後も筒生前の自分と同じ感覺、同じ感情、同じ人格 、同じ苦悩、同じ快架、同じ生命をもつてゐるものとしたらどうか。もしさういふものが賞在するとし たら、それはたしかに信仰に慣するべきものである。
ここで述べられていることは、1回限りの人生を死なずにすませるということ、死んでも1回限りの人生の人格を守ること、それがイメージされている。これがひとつの朔太郎の不死のイメージである。「国定忠治の墓」(昭和8年6月「生理」初出)という詩に、
見よ此虎に無用の石 路傍の笹の風に吹かれて 無頼の眠りたる墓は立てり。
という詩句がある。国定忠治は義賊として農民を助けたからといって世界が変わったわけでもない。元の通り人生の貧しさ、惨苦が残っている。ここで国定忠治の墓は「無用の石」と呼ばれている。彼は生きているときに奇跡のような人生を送り、有用であったかのように思われるが、淡々と時代が流れすぎ、すべて人生の惨苦に戻ってしまい、宿命に閉ざされたというイメージがある。朔太郎にとって墓は、宿命に閉ざされてしまって自分自身の意志によって生きることができなかった証、無用の石というようにとらえられているのではないかと思われる。
研究発表
芸能における追善供養の再現―「弔い」の意識と観阿弥時代の能
原田 香織 研究員
〔発表要旨〕古典芸能においては輪廻転生思想がバックボーンとして存在し、また草本国土悉皆成仏思想に基き、土地に仏性神霊が宿り、草木に神霊が宿るという思想がある。古典芸能の世界では草木が精霊となって登場人物として現れ成仏を志向する。追善供養は死者への弔いを示すが、これは日本に定着した思想の1つであり当然のごとく葬送儀礼に属する在り方である。能楽には「わが跡弔ひて賜び給へ」という常套句があり、これは行脚の僧の力御(経のもつ言葉の力)によって、魂を死後の苦患という囚われの観念体系から菩提・成仏へと誘うことを依頼する。唯心という思想と魂の解放、地上からの脱却は、執着の信念体系から死後の光明の世界への昇華であり、それは中世室町時代において、現世以上に重要な事柄であった。
『松風』は恩愛の情の観念体系から抜けられない状態を描く。旅の僧が須磨の浦を訪れる。月の美しい秋の夜で、2人の若い女の海人が、月影を乗せた汐汲み車を引きながら、浜辺の夜景をめでる。塩屋に泊めてもらつた僧が、夕暮れに見た在原行平の古跡の松のことを口にすると、女たちは涙を流し、実は自分たちは行平の愛を受けた松風・村雨という姉妹の海人であると告げる。松風は行平の装束を取り出し、それを抱きじめて恋慕の思いにむせぶ。そのうちに松風は物狂おしい体となり、形見を身につけて舞を舞い、行平の名を呼んで松の本にすがりついたりなどするが、僧に弔いを頼んで夜明けとともに消えていく。
『求塚』は自己を責め、苦悩する地獄の観念の中に閉じこめられた様を描く。摂津の生田に赴いた僧を土地の女性が求塚に案内し、塚にまつわる伝説を話して聞かせる。昔竹田男と血沼丈夫という2人の青年が菟名日処女に恋をして、同時に恋文を送った。女はどちらにもなびかず、生田川のオシドリを射当てた人に従うと言ったが、2人の矢は同時に鳥を射止めた。女は悩みぬいて川に身を投げ,その遺体をこの塚に築きこめた。その後男たちも刺し違えて死んだが、それさえ女の身の咎になったのだといい、救済を乞うて女は塚の中に姿を消した。僧が弔うと夜半に菟名日処女の霊が現れ、2人の男の亡霊や化鳥になったオシドリに死後も悩まされていると訴え、地獄の苦しみの数々を見せて塚の中に消えていく。
『船橋』は怨念の地獄に落ちた様を描く。旅の客僧が松島。平泉ヘ急ぐ途中、上野国佐野に着くと、里の男女が現れて橋建立の勧進をする。僧の問いに2人は『万葉集』の「東路の佐野の船橋とりはなし…」の歌を引き、昔、川を隔てて住む男女がこの船橋を恋の通路としていたが、それを嫌う二親に橋板をはずされ、2人は川に落ちて三途に沈み果てたと語り、実はその2人であると明かし、弔いを頼むと、夕暮れのなかに姿を消した。僧が祈祷をしていると、男女の亡霊が現れ、男は地獄の苦患を見せ、僧になお昔を懺悔するようにすすめられて、宵々に通いなれた船橋を渡って忍び妻に会おうとし、川に落ちて沈んだ様子を再現して見せ、行者の法力で成仏できたと告げて消え去った。
仏教的世界の救済は、室町時代においては称名念仏の救済などさまざまな意味があるが、ここでは心の問題からの救済であり、懺悔して執着、怨念を昇華していくということである。そのきっかけとして弔いの言葉があり、それを通じて魂は執着の観念体系から光明の世界へと昇華していく。『船橋』では執心の鬼となって、邪淫の鬼となって自己を責め苦患に沈む状態から、行者の法味功力により真如法身の玉橋の浮かぶ悟りの身となって救済されていくありようが描かれているが、こうしたことが追善供養の力を示している。
研究発表
死の隠蔽―近代都市パリの発展と病理の一断面
朝比奈 美知子 研究員
〔発表要旨〕19世紀は、フランス革命による社会構造の変化、産業革命が導入によリフランス社会の様相が劇的に変貌した時代である。とくに大都市パリにおいては、人口の集中、近代化、文化の大衆化が加速度的に進んだ。とくに第2帝政期以降、治安の改善をめざした都市改造、照明の普及、貧民街の一掃、衛生面の改善のための墓地の閉鎖や屠殺場の移転などが大規模に進められる。その動きは、都市住民に利便をもたらす一方で、従来からあった文化の破壊を招き、人間の死生観にも大きな影響を及ぼすに至った。
ジェラール・ド・ネルヴァルの『十月の夜』は、パリの中心部である市場を夜中歩く様が描かれていて、見た目は市場を見て歩いているという作品になっているが、病理的なテーマを含んでいる。そこにおいて描かれるイノサン市場と納骨堂を取り上げてみると、マクシム・デュ・カンはパリに捧げた記念碑的な大著『パリ、1870年までのその機構、機能、生活』(1869-75)の第33章を「墓地」にあてている。その2節「納骨堂」のなかに、イノサン墓地の記述が見られる。それによれば、イノサン墓地は、もともとはさまざまな教区の共同墓地であった。その墓地はいわば広場状になっており、貧しい者の死体を収める共同墓地として掘られた巨大な穴にはいつも死体が積み重なっていた。穴に死体が詰めきれなくなると、比較的古い遺骸が掘り出され、墓地の広場を取り囲むように配列された納骨堂に収められたという。一方、墓地は生活の場でもあった。納骨堂の壁のすぐ裏では貧しい人々が住居を構え、生活のためにさまざまな商売をしていた。穴に放置され、取り出されては陳列棚に並べるように積み上げられ、あるいはまた家々の壁に塗り込められた無数の遺骸は、時として強烈な匂いを発散し、ペストなど疫病の温床にもなったが、人々の生活は活気を帯びていた。
『十月の夜』でネルヴァルが歩いている市場は、納骨堂の隣にあって、コミュニティーと墓地とが隣り合っていた。中世以来のパリは、非常に狭い路地が入り組んでいて、不衛生な面があった。それが、少しずつ都市の改造において問題とされてきたが、今日のパリの風貌を出現させるに至ったもっとも大きな要素は、第2帝政期の1853年、ナポレオン3世よりセーヌ県知事に任命されたオスマン(Georges Eugēne Haussmann ,1809ー91)による大改造である。土地収用などが加速度的に進められたが、ネルヴァルの『十月の夜』はオスマンによるパリの大改造に対するかなり批判的なディスクールを形成している。
フィリップ・アリエスは『死と歴史―西欧中世から現代へ』Essai sur l'histoire de la mort en Occident du Moyen Age ā nos juors において、中世、18世紀までの世界では、死というものは人々に非常に馴染み深いものであって、人々は自宅で死を迎え、死者が主役であるように儀式として人々が死を近しく見守っていたのに対し、それ以後は死が隠蔽されるようになることを論じているが、パリの大改造においてイノサン墓地が閉鎖され、衛生上の問題から墓地が郊外へと追いやられる状況は、まさにアリエスが述べている死の観念の変貌の背景となっている。ネルヴァルが『10月の夜』で「納骨堂の穴倉は今日では改装され、ガス燈が照らしている。食事もよくなったし、テーブルの上だろうと、下だろうと、眠ることは禁じられている」と語る。その淡々とした言葉は、実は理性(=光)を特権化してそこから逸脱する夢や狂気(=闇)を抑圧する近代の病理についての痛烈な批判を含んでいるのである。
各発表者の発表の後、発表者間および司会・フロアからの質問や意見を交えての討議がなされ、現代社会における感性・感情の位置づけ、死後の世界、葬送儀礼の商業化などについて活発な議論が交わされた。