2004年度 公開講演会 発表報告
開催日:2004年12月4日 場所:東洋大学白山キャンパス1308教室
2004年度 公開講演会 発表報告
開催日:2004年12月4日 場所:東洋大学白山キャンパス1308教室
現代のアメリカ文化と禅
―研究プロジェクト「アメリカにおける曹洞禅」を通して―
講演者:ジョン・マクレー(John R. McRae) インディアナ大学教授
〔講演要旨〕ここ数年来、私はアメリカにおける曹洞禅仏教の調査研究に従事してきた。現在アメリカで行われている曹洞禅の総合的判定の初歩的寄与として、このプロジェクトでは、主に禅の団体の個人的参加者に目を向けて、かれらの曹洞禅者としての自覚自体とその自覚の現れかたに焦点をおいた。特に、あらゆる段階の修行者生が曹洞禅の態度、信条、と活動(修行)を、生活のなかにどうやって組み入れているかについて情報を集めてきた。現在のプロジェクトはアメリカの一般的な人々が参加者として集まってくる「禅センター」に限定される。今回の発表では大体、このプロジェクトの個人的修行者とのインタビューの録音資料をもとに、アメリカにおける曹洞禅の公共機関的、それに宗教文化的事情の総括的な考察推察の結果を報告した。
調査は1999年8月から2003年12月の間に行われた。方法として、十数力所の禅センター(ある所は数回)を訪問して、活動と組織パターンを参与観察法で調べて、参加者と非公正式的な話し合いをし、そして個人的インタビューを録音した。(大多数のインタビューは1人の被面接者しかいなかったが、場合によって2人、数人の場合もあった。)訪問した禅センターとインタビューした参加者の選択は、両方ともに偶発的に決めたものであって、別に整然とした方法でアメリカにおける曹洞禅の禅センターを全体として、或は箇々のセンターに於ける参加者の代表的サンプル(標本)を作ろうとはしなかった。このことがあとになって分析の限界制限になる可能性を認識していたが、禅センターを訪問するごとに、できるだけ幅広いタイプの参加者をインタビューするように努力して、最も経験を積んだ長年の修行者生だけではなくて、特に初心者を多く含むことにした。
アメリカの国中には、少数いくらかの「主要センター」があって、それが修行者を引きつけて、そして系列団体が派生している。その中でもっとも目立ったのは、いうまでもなくSan Francisco Zen Center(サン・フランシスコ・ゼン・センター SFZC)である。SFZCの3つの系列団体(City Center,Green Gulch,とTassajara Mountain Center)は、独立したセンターとして、いずれも国の一流のセンターの中心になっているが SFZCは複合組織として、複雑な委員会網で経営され、成長しつつある衛星団体や坐禅会を含んでいる。匹適する団体として、ロス・アンジェレス・ゼン・センター(LAZC)とその衛星団体、ニュウ・ヨーク州のZen Mountain Monastery;カリフォルニア州の Zen Mountain Center と南ミネアポリス州に修行センターを持つ Minnesota Minneapolis Zen Meditation Center がある。
また、数十の「地方センター」があつて、大多数は都市に所在するが、あるものは郊外や田舎にある。こういう地方センターは、公式的に或いは非公式的に、先に説明した主要センターと関係はありうるが、自由に活動する団体である。こういう比較的小さいセンターは、1人或いは複数の在住指導者と、100~300人の参加者をもち、何がしか固定した団体の施設も所有する。経営組織は、主要センターより一層緩やかであり、ある所は規則正しく定期的に会合を持つ理事会と経営委員会があるものの、ある所は参加者名簿さえない。ノースカロナイナ州のアッシュビル禅センター、ジョージア州のアトランタ禅センター、ウィスコンシン州のミルウオーキー禅センター、マサチュウセッツ州チャールモントのバレー禅堂、そしてオレゴン州コーベットのグレート・バウ・禅モナスタリーなどはこのカテゴリーに属する。
なお、伝統的な日系の檀家制度寺院のような「家族向きお寺」といえるほど、在家信者のコミュニティを作るように努力している地方センターがたった1つだけある。これはPortland,Oregonのダルマ・レインDharma Rain禅センターである。
インタビューの対象で1番多いのは団塊の世代の人々であったが、10代後期から70・80代の人々もいた。育った宗教環境に関していえば、プロテスタントおよびカトリックのキリスト教とユダヤ教がすべて含まれていて、それらの宗教に熱心な家族で育った人と無関心な家族で育った人はまちまちであった。教育履歴は高く、ほとんどの人が大学経験もあった。ただ、インタビューで聞いた話によると、対象となった人々にとって曹洞禅は仕事の場で発揮できるような生活方法ではなかった。仕事場における禅の応用についての話といえば、きまって混乱した時に修行者は生の落ち着いた態度を保つことが出来るということであった。つまり、禅はストレス・マネジメントのように紹介されている。
言い換えれば、禅を生活の目標達成の助けとして使うのではなく、むしろ職業上の不成功にも拘らず自分を満足させる方法のようにみえた。つまり、禅によっていかに仕事中の目標を達成したり、或いは昇進を得たり、という話よりも、人々はいかに現在の生活で満足できるようになれたか、という話をすることが多かった。禅によって何らかの職業上の成功を得たことがあるかというとの話ならば、答えは、混乱の中でもの平静を保つことが出来たということくらいであった。言い換えれば、禅は1つのストレス・マネジメント(緊張調整)の方法に見受けられる。
インタビューに応じた人々の全体に共通する、1番の特徴は、研究者がいう「明確な遠慮」(″articulate reticence″)であった。かなり高い教育水準と曹洞禅の修行者生になりえた自己究明の過程からすれば、日頭での自己表現説明が上手であることには全然予想外のことではない。ほとんどの場合、研究者が録音機にスイッチを入れて、簡単に覗いたら、その人の伝記と心に潜んでいることが洪水のように流れ出てくるのであった。ほとんどの場合、研究者からの質問は道案内をするだけでよく、別に突っ込んで話をする必要はなかった。
その多弁さと何でも話せる開放された性格とは対照的に、被面接者はいくつかの重要な問題についてはっきりした返事を避けた。自分の直接の経験なしに真実だと主張すること(trurh claims)を遠慮して、彼らは形而上的に大切な命題について立場を明確に決意できなかった。神、死後の存続、儀式と祈祷の有効性、といった質問に対して自分の立場をなかなか言い出せない人が多かった。例えば、「功徳を回向しても本当には死者まで届くかどうか?」、「届くなら、どうやつてそんなことができるか?」、「あなたが死んでからどうなる?」、といった質問に対して、普通は「さあ、まだそういう経験がないから、死んだ時に再び聞いてくれ」、或はただ「知らない」というような返事ばかりであった。神を信じている人は、今の姿勢と前の教会の信条を丁寧に区別した。多くの場合は(特に元々はキリスト教の人々)、自分が育った教会の無意味さ、或は自己矛盾的信条的要求から、曹洞禅は解放してくれることを強調した。一般的に言って、今のインタビューからすれば、アメリカの曹洞禅者は、信仰の概念と自分の信仰の立場について故意に「柔らかい」態度を採っている。
インタビューで非常に印象的なのは、禅の修行者は個人としての孤独なことであった。少数の例外的な場合を除いて、被面接者はすべて禅の修行は個人として実行していたし、家族が関与することは何もなかった。
普通の修行者(つまり、センター居住者以外の人)がセンターの活動に参加するのは、週何回かの坐禅会(例えば、夕方、土、日の朝)と集中的瞑想期間(2、3、5、或は7日の「摂心」)に限られることが多い。特に献身的な人は理事会の会合、共同作業(掃除とか建築の「作務」時間)、等々の管理上の仕事に参加する。
この研究によって現れてきた興味ある推論の1つは、修行方式と団体の結合力の相関関係である。直感として、上述の原子論的、非結合的傾向は、参加者の子供のころの宗教教育の遺産であるようにみえる。アメリカの禅修行者には、反教会的なの人が多いようである。アメリカの曹洞禅では、特に1番極端(或は「純粋」)な「只管打坐」―沢木興道、内山興正両老師の伝統で誦経、儀式経行、独参なしにただ坐禅だけをする―を強調することは、集会の組織化を最小限度に押さえ集会を大きくすることも極力押さえることと相関関係にある。そのうえに、この方式を強調するセンターの1つでのインタビューでは、禅仏教の知識的理解の記憶力の低迷とも相関関係することを示唆する。というのは、このセンターで「あなたの1番好む道元の教えは何でしょうか?」と聞いたら、だれ1人としてまとまった返事はできなかったのである。この中には、毎週の禅仏教の講義に出ている人も含まれていたのにである。つまり、曹洞禅で言う「只管打坐」や「身心脱落」の修行で用いられる何でも手放す態度は、概念的な学習をも手放すことを助長するように見えるのである。
また、上述の禅のストレス・マネジメント的な効果とは対照的であるが、インタビューにおいて目立ったことは、対象者が坐禅に対しての不思議な権限を付与することである。被面接者の唯一の共通点は、彼らが例外無しに坐禅に専念していることである。何故どうして坐禅をするのかは、はっきり説明できないにしても、坐禅をしなければならないことを皆がみんな強く強調する。いささか似たような話だが、アメリカの曹洞禅の討論のなかで重要なポイントの1つは、禅の修行はセラピー(心理的治療方法)でないということである。禅は全く精神的であり、超越的であると定義し、すくなくとも完全に心理的治療方法とは全く違うものであると、主張することはある禅の指導者たちにとって非常に大事なことである。ある曹洞禅の指導者たちは禅をストレス・マネジメントに役に立てるように広めようとするが、坐禅をメディテーションとして、或は禅自体をセラピーとして定義するのを拒否する指導者のほうが一般的である。被面接者達によるメディテーションの実践についての意見の数例は以下のようなものである。
それは私が最も生き生きするところです。私の本当の生命に目覚めるのです。坐禅をしている時、それ以外のときよりも私の生命を
より深く味わい、感じることが出来ます。坐禅していないときにはあまりに多くのことがひっきりなしに起こります。だから、坐禅
の時、もっと生き生きとした存在が私の生活の中にあります―。
ほとんどの面接において、坐禅の時にその人が実際に何をするか、という話題に時間をさいた。結局、「只管打坐」という枠組みは比較的容量の大きいことで、明白に異なった様々な方法と技術を含む。大多数の人は、呼吸を数える「数息観」、「瑞息観」、思考を逆方向に追跡すること、独特の非集中方法としての「只管打坐」などについて報告した。1人の修行者(実は経験の積んだ指導者だった)は、時々坐禅中にマントラ(呪言)を唱えることもした。ある修行者は公案を使っていたが、ほかの人は、先生に勧められるけれども、自分は公案に向いていないと報告した。
アメリカにおける曹洞禅という現象は、一瞥して分かるよりもっと深くて広いようである。3代目とか4代目とかまで発展してきたいくつかの法脈の指導者が、伝道に勤めている。この数世代の指導者たちは広範囲の組織的な環境のなかで、広い国土に散在するさまざまの規模のセンターで活躍している。これに加えて、より多くの小さなグループが形成されつつあり、一緒に坐禅をしながら資格のある指導者を招聘募集しようとしている。
それにしても、現段階では禅センターはあくまで反体制文化的な組織であって、既成社会の主流の政治的宗教的組織機関に反対する姿勢をとっているセクト(sect;新興宗教)だと定義できる。こういうセンターは、大体個人的目標をもって個人的修行に従事する個人の集まりである。その根本的活動様式を変えて、参加者の生活の「修行」以外の様々な生活側面をも含むものにならない限り、その町や都市である一定の、限られた大きさ以上には成長しないだろう。