現代日本における命
―死の受容を通じての命の考察―
現代日本における命
―死の受容を通じての命の考察―
戦後日本社会は家族形態、社会形態の大きな変化に伴い、葬送儀礼や死の看取りのあり方に大きな変化が生じてきた。葬送儀礼においては、人口の都市集中化、家族の核家族化に伴い、従来の地域を中心とした葬送習俗から、葬儀業者による葬送儀礼の産業化がみられ、また墓制についても、仏教における寺壇関係から、葬送の自由化の動きによる樹木葬・合同葬といった形態がみられる。葬儀を経ずして火葬する直葬や、孤独死の問題も現代社会の死のあり方を映し出している。死の看取りのあり方にしても、ほとんどの死が病院で迎えられる現在、死は隠蔽化される傾向にある。
また、生命倫理の問題として、回復の見込みがないとされる患者の延命措置、脳死患者からの臓器移植、戦後優生保護法(現母体保護法)の経済条項の追加による人工妊娠中絶の問題、さらには胎児診断の結果からなされる選択的人工妊娠中絶といった、生命観に対して検討を迫るような事態が生じてきている。
このような、地域社会で行う葬送儀礼から葬送の個人化への傾向、独死、病院での死の隠蔽性、生命倫理の問題、さらには、効率化社会の風潮、無差別殺人、自殺者が年間3万名を越えるような事態において、命そのものが軽視されているような状況に戦慄を覚えざるを得ない。西行は、
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
と詠ったが、年老いて小夜の中山を越えることはできないと思っていたのに、越えることができたのは命あってのことなのだと、「命なりけり」に命のありがたさが噛みしめられている。このありがたさとしての命のあり方が失われつつあるような状況において、日本古来の生命観をとらえ直すことは急務の課題である。
また、平成23年3月11日に起きた大震災により、多くの方々が亡くなられた。原子力発電所の事故により放出された放射線の生命への影響も懸念される。亡くなられた命をどのようにとらえ、遺族の方たちにどのように接していくかは国民全員が考える問題である。
そこで、本研究は、命をめぐる日本文化のあり方を文学・宗教・思想の側面から提示すると同時に、死の受容という観点から命を考察する。
文学においては、被災者を歌に詠むという日本の死の受容のあり方に着目して、慰霊・鎮魂を踏まえながら、文学において表現された死の受容について、古代から近現代まで、大戦における死の受容を踏まえつつ、その意義を探求する。
仏教においては、死の受容に対しての仏教のあり方を分析するため、チベット仏教と日本仏教との比較考察を行い、また山岳信仰から見た慰霊行為に沿って、仏教経典を資料とした山岳信仰の歴史的分析を行う。
哲学の立場からは、主として、死に向き合う態度について、また家族の死の受容に対しての研究を深め、生命倫理からは、グリーフ・ケアとの関連で、慰霊・鎮魂と遺族の死の受容、終末期における命のあり方、死の受容と他界観との関連についての研究を行う。
社会学においては、死をめぐる基底文化が変化しつつある社会で、そこに暮らす人々の死生観や死をめぐる儀礼の変化を分析する。
また、死の受容においては、死別の動揺からどのように立ち直っていくかということが問題になるが、心の平静のあり方について、ヨーガ思想を中心とした東洋思想の心身観からのアプローチを検討する。
そして、文学・仏教の歴史的背景として、古記録にみる死の受容について研究を進めていく。
以上の各分野の研究を総合して、現代社会において命を把握するあり方を提示する。
本研究の特色は、文学の研究者が多く分担者に加わっているところにあるが、それは日本の死の受容の特色を探究するために非常に重要であるという理由による。というのは、被災について多くの方が和歌に詠うように、日本では死を作品に表現することにより、受容がなされているように見受けられるからである。無住一円は『沙石集』巻5において「和歌の一道を思ひ解くに、散乱麁動の心をやめ、寂然閑静の徳あり」と述べているが、詠うこと、表現することにより、動揺を鎮め、悲嘆を乗り越えていく力が生じてくるということがあるといえるだろう。そこで、死の受容を通じて命を把握する手がかりとして、文学の研究を主題にしながら、その主題に対する哲学・思想・宗教・生命倫理・社会学のアプローチを行うところに、本研究の独創性がある。
研究組織は以下の通りである。
研究代表者 役割分担
山崎 甲一 研究員 研究総括、日本近現代文学
研究分担者 役割分担
谷地 快一 研究員 俳諧を中心とした日本近世文学
渡辺 章悟 研究員 山岳信仰から見た慰霊行為
相楽 勉 研究員 哲学・比較思想
井上 治代 研究員 現代の死者祭祀
竹内 清己 客員研究員 戦争文学
神田 重幸 客員研究員 日本近代文学
川﨑 信定 客員研究員 仏教チベット仏教と日本仏教との比較考察
大鹿 勝之 客員研究員 グリーフ・ケアにおける死の受容
番場 裕之 客員研究員 ヨーガ思想を中心とした東洋思想
榎本 榮一 客員研究員 古記録にみる死と老年観の変遷
平成24年度の研究経過は以下の通りである。
本研究の申請採択を受け、平成24年5月24日に打合会を開催、各研究者の研究計画を確認し、公開講演会・研究発表会の開催について協議した。研究者の研究調査については、井上研究員は、平成24年8月1日~8月2日に福島において、被災者の死の受容について調査した。また、竹内客員研究員が9月24日~9月27日、アイヌの宗教儀礼と戦災慰霊の調査、榎本客員研究員が11月2日~11月27日、京都において『小右記』にみられる邸宅や寺社の位置関係に関する調査、山崎研究員が平成25年1月23日~1月25日、修善寺自然公園、山中湖畔にある三島由紀夫文学館・徳富蘇峰などにおける、夏目漱石の修善寺の大患を中心とした日本近・現代文学における死生観に関する調査、および平成25年2月21日~2月23日、川端康成「雪国」の自然と死生観に関する調査を行った。そして、井上研究員が平成25年1月14日~1月18日、韓国・ソウルにおいて、ホスピスや高齢者の施設など看取りや死に関わる団体の会議に参加し、翌日から参加者の施設を視察している。
研究発表としては、平成24年10月20日の研究発表会において井上研究員が「東日本大震災による被災遺族の死の受容・葬送儀礼・
霊魂観―石巻調査より―」と題する発表を行い、参会者から大きな反響があった。
そして、竹内客員研究員が11月24日の研究発表会において、「アイヌの宗教儀礼と戦災慰霊」と題する発表を行った。この発表では、稚内、留萌、増毛の遺跡などの調査報告を行い、稚内にある、自決した真岡郵便電信局の9名の電話交換手の慰霊碑「9人の乙女の像」や、留萌にある、引き揚げ途中に攻撃を受けた小笠原丸、第二振興丸、泰東丸について恒久の平和を願い建立された黄金岬の平和の碑などを取り上げつつ、文学の果たす役割について、現代の日本と、樺太で服毒自殺した若き乙女の時代とをどのように関連づけるか、生者は死者を担えるか、という問題を提起した。
平成25年1月12日には、大鹿客員研究員が、「死の受容と他界観―臨死体験と死後の世界への信念―」という題目の発表で、臨死体験とその死後観への影響について発表し、相楽研究員が、「「死の受容」の哲学的考察」という発表で、「死」に関する哲学的考察を試み、そこから「意味に満ちた生」とはいかなるものかを考察した。
公開講演会は、11月24日に須藤宏明・盛岡大学教授による「自然災害と岩手の文学」と題する講演が行われた。この講演では、三島由紀夫『太陽と鉄』、宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』、釈迢空『砂けぶり』『水牢』『貧窮問答』、須知徳平『春来る鬼』が取り上げられ、「命をつなぐ文学というのは、死を描くことであり、現実を描くことである。現実に死があって、海に生き、山に生きていくことを描くことが、生きている人間の命をつないでいくことになりはしないのか。それが文学の役割ではないか」ということが語られた。
以下に、平成25年2月までに行われた研究調査ならびに研究発表会・公開講演会の概要を示す。
研究調査
東日本大震災による被災遺族の「死の受容」と「葬送儀礼」「霊魂観」に関する調査
(葬儀社、被災地域の寺院住職、被災遺族へのインタビュー)
井上 治代 研究員
期間 平成24年8月1日~8月2日
調査地 葬儀社(株)清月記(宮城県仙台市宮城野区日の出町)、観音寺(宮城県石巻市皿貝)、被災遺族宅(宮城県東松島市小松字若葉・宮城県石巻市小船越三反走仮設住宅)
8月1日午後、仙台到着後、仙台市宮城野区にある葬儀社(株)清月記へ向かった。震災直後、諸々の機能が機能不全に陥る中で、石巻でいち早く遺体の処置を行い、仮埋葬を行った清月記で、指揮をとった社長にインタビューし、続いて社員にインタビューを実施した。そこで実際の話に加え、写真・DVD付き全記録集『3.11東日本大震災・清月記活動の記録』を入手したことは大きな収穫であった。
8月2日は、石巻市の観音寺の後藤住職に「慰霊の桜」を植樹する活動について聞き取り調査を行い、そののち、2名の被災遺族に、各
2時間ほどインタビュー調査を実施した。石巻市の仮埋葬は、墓地の移転跡地やサッカー場などを一時的に使用し、その後、掘り起こして火葬した。仮埋葬がどのように行われたか、その実際を知ることによって、遺族が抱いた感情に近づくことができた。被災遺族からは遺体発見の様子、またその後、死をどう受け止めようとしているかを聞くことができた。さらに被災地のあちこちで起こっているという怪奇現象(霊が出る)の話を聞き取ることができ、有意義な調査となった。
研究調査活動
アイヌの宗教儀礼と戦災慰霊の調査
竹内 清己 客員研究員
期間 平成24年9月24日~27日
調査地 稚内、宗谷岬、ノシャップ岬、留萌
第1日・第2日、稚内。今日、日本最北端の町となった稚内は、敗戦まで樺太(サハリン)との連絡・中継の地として賑わった。この地をフィールドとしてアイヌの宗教儀礼と戦災慰霊の調査に入った。第1日:丘陵地の稚内公園の歴史的モニュメント群・天皇皇后行幸啓記念碑・氷雪の門・9人の乙女の碑・教学之碑建立誌など、又、開基100年記念塔・北方記念館を踏査研究。第2日:宗谷岬平和公園に宗谷海域海軍戦没者の碑・間宮林蔵渡樺の地・日本最北端の碑・詩碑宮澤賢治詠「はだれに/暗く/緑する/宗谷岬の/たゝずみと/北はま蒼に/うち睡る/サガレン島の/東尾や」・旧海軍望楼。祈りの塔など。
第3日:留萌。黄金岬の平和の碑。昭和20年8月22日、小樽に向かっていた緊急引き揚げ船小笠原丸、第2振興丸、泰東丸の3船が、旧ソ連軍潜水艦の攻撃を次々と受け、小笠原丸と泰東丸が沈没した。恒久の平和を願いこの碑を建立する旨示されている。
第4日:留萌から増毛へ向かう。忠魂碑・元陣屋秋田藩・津軽藩増毛勤番越年陣屋跡など踏査研究。
分担課題
「古記録にみる死と老年観の変遷」に基づく調査
(藤原行成の日記『権記』や藤原実資の日記『小右記』に記される
葬送儀礼や葬地の跡など、平安時代の葬送儀礼や葬地に関する調査)
榎本 榮一 客員研究員
期間 平成24年11月25日~11月27日
調査地 京都(化野、清涼寺、衣笠、紫野、岩倉、貴船神社等)
25日(日)。化野の念仏寺にいく。周辺より集められたという多くの石仏・石塔が祀られ、葬地の一つであったことが確認できた。嵯峨の釈迦堂・清涼寺に行く。この寺の本尊釈迦如来立像を拝観した。この像は奝然が一切経などと共に宋から将来したもので、藤原道長や実資など当時の貴顕が参拝したもので、感慨深いものがある。
26日(月)。千本閻魔堂・引接寺に行く。多くの石仏・石塔が集められ祀られている。上品蓮台寺に行く。清涼寺の釈迦如来像が、宋より将来されて初めに祀られた寺である。藤原実資は生まれてすぐ亡くなった子を、この寺の南に捨てさせている。この辺りが、葬地の1つである蓮台野の只中であったことがわかる。寺の東に船岡山がある。『権記』によれば、この辺りを通って一条天皇の遺骸が荼毘所に向かっている。北の山裾の道を登ると三条天皇陵があり、さらに登ると一条・三条天皇の火葬塚がある。一条天皇の山作所であり、記録とよく合致する。龍安寺の裏の後朱雀・後冷泉・後三条天皇陵を参拝した。山道を登る一条天皇陵は雨のため参拝を断念した。
27日(火)。平安時代の貴船神社であったとする奥宮に行く。岩倉実相院の脇にある冷泉天皇皇后昌子内親王の陵を参拝する。藤原実資の『小右記』に、土葬であったその葬送についての詳しい記述がある。
日本近・現代文学における死生観に関する調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成25年1月23日~1月25日
調査地 修善寺自然公園(文学碑)、三島由紀夫文学館・徳富蘇峰館ほか
1月23日。9時踊子号で東京駅出発。11時10分修善寺着。駅近くの書店で修善寺縁りの地方出版図書、地図、文献を数点求む。散策し乍ら、郷土資料館、桂川、筥湯、指月殿、菊屋旅館等を見学す。漱石縁りの独鈷の湯、修善寺を参拝する。
1月24日。修善寺大患の踏査。(虹の郷公園内にある漱石記念館は園内整備のため1月21日―25日間休園中)自然の森公園内にある漱石文学碑(五絶の漢詩と選文)と再度修善寺を徒歩で巡る。修善寺一帯の風光と町並、山々の空と自然とを踏査確認する。バスで天城を越え、昭和の森会館内にある伊豆近代博物館を見学す。井上靖、川端康成、梶井基次郎等の伊豆の自然と文学との関わり具合を学ぶ。中でも井上靖と老母との関係に示唆受けること大であった。
1月25日。修善寺の山と川と空の自然と大患との関係を再確認したあと、電車とバスにて山中湖の三島由紀夫文学館、徳富蘇峰記念館を見学。東京駅着19時17分。
韓国における「死にゆく人のケア」
―地域福祉を担う宗教団体に着目して―
井上 治代 研究員
期間 平成25年1月14日~1月18日
調査地 韓国・ソウル
筆者は死や葬送をめぐる問題を社会学的に研究しているが、その筆者が昨年の下半期、韓国メディアに3回もコメントを求められた。どれもテーマが「孤独死」である。韓国テレビ局が日本に来る意図は、日本が韓国の先を行く高齢社会であること、さらに2010年にNHKが「無縁社会」をテーマにドキュメンタリー番組を放送し話題になったことが意識されていた。メディアという一側面からではあるが、昨年から韓国社会でも高齢者の「孤独死」「孤立死」の問題が注目されてきたと言っていいだろう。
今年度の筆者の韓国研究のテーマは、樹木葬の変化の経過を追いつつも、「死にゆく人のケアのあり方」であった。現地調査では日数が限られていたため、同分野に携わる韓国研究者との情報交換が主な目的となった。初めてホスピス病棟を設置した江南聖母病院の視察や、看護教育に携わる教育者・研究者と意見交換をすることができた。
そういった中で、以前から注目していたことであるが、日韓の比較という点において興味深い視角を再認識させられた。それは宗教団体の福祉への関わりである。日本では終戦後の政教分離政策の徹底から、行政が宗教団体と協働することはない。
2013年1月15日にソウル特別市松坡区の福祉施設「松坡ケアセンター」を視察した。このセンターは1介護保険によるデイケアセンター、2高齢者福祉の拠点、3認知症高齢者の施設などの公的な福祉機能をもっている。15分の距離にある仏光寺(曹渓宗)が、国から資金を受けて運営を委託されている。このように韓国の地域福祉で注目すべき点は、公的施設の運営母体に民間法人が投入され、国の補助金による宗教団体の高齢者福祉・医療施設の運営がなされていることである。
宗教団体が公的な福祉領域に参入することになった要因には、1つは韓国政府が過去数十年の低福祉時代から一気に高福祉を目指すにあたって、福祉国家ではなく、既存の民間組織を活用し福祉共同体を目指そうとしていることがあげられる。さらにもう1つ、宗教団体の法人認定に関する一般的な法律は存在しないという韓国の特徴をあげることもできる。「民法」32条の「非営利法人」の認定が適用され、非営利活動の内容に応じて主務官庁が管轄することになる。実際には、福祉法人として登録されている宗教団体が多い。また一方で、宗教離れがすすむ現代社会にあって、宗教団体の福祉領域への参入が存続と教勢拡大の方策となっている。
筆者は今後、社会福祉に関与する宗教団体に着目しつつ、「死にゆく人のケアのあり方」を調査する予定である。今年度の研究交流を経て、次回はキリスト教系の高齢者施設が墓を所有し、死にゆく人の精神的ケアをしている施設を調査することになった。
川端康成『雪国』の自然、登場人物の島村・駒子の死生観に関する研究調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成25年2月21日~2月23日
調査地 新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢高半(旅館)の霞の間、および旅館の周辺地域
2月21日:予定通り上越新幹線で上野より出発、11時16分越後湯沢着。雪。曇天。雪。地元の書店で地方誌他関連書籍を求む。川端の当時見聞した西山通りの現在を確認す。湯沢民俗資料館と雪国館を見学。「雪国」執筆当時の村の生活や映画化に際しての幾多の写真パネルに学ぶ。略3hかけて学芸員の方からの解説と「雪国」関連の絵画・川端の遺品等を学ぶ。
2月22日:晴天、寒風。西山通りから布場スキー場、島村ロッヂ、鎮守の森、駒子の置屋跡(豊田屋)、湯坂~旧道への地蔵、主水公園内の雪国碑等を雪中徒歩で確認す。途中執筆の宿と部屋を高半ホテル内に見学、周辺の地形を確認す。
2月23日:雪終日降りしきる。塩沢町鈴木牧之記念館と縮の里にて、「雪国」との関連事項を実地に見聞、確認す。23日は予定通り18時14分に上野着。当地の自然と死生観との相関を実感出来た。
韓国における「死にゆく人のケア」
―地域福祉を担う宗教団体に着目して―
井上 治代 研究員
期間 平成25年1月14日~1月18日
調査地 韓国・ソウル
筆者は死や葬送をめぐる問題を社会学的に研究しているが、その筆者が昨年の下半期、韓国メディアに3回もコメントを求められた。どれもテーマが「孤独死」である。韓国テレビ局が日本に来る意図は、日本が韓国の先を行く高齢社会であること、さらに2010年にNHKが「無縁社会」をテーマにドキュメンタリー番組を放送し話題になったことが意識されていた。メディアという一側面からではあるが、昨年から韓国社会でも高齢者の「孤独死」「孤立死」の問題が注目されてきたと言っていいだろう。
今年度の筆者の韓国研究のテーマは、樹木葬の変化の経過を追いつつも、「死にゆく人のケアのあり方」であった。現地調査では日数が限られていたため、同分野に携わる韓国研究者との情報交換が主な目的となった。初めてホスピス病棟を設置した江南聖母病院の視察や、看護教育に携わる教育者・研究者と意見交換をすることができた。そういった中で、以前から注目していたことであるが、日韓の比較という点において興味深い視角を再認識させられた。それは宗教団体の福祉への関わりである。日本では終戦後の政教分離政策の徹底から、行政が宗教団体と協働することはない。
2013年1月15日にソウル特別市松坡区の福祉施設「松坡ケアセンター」を視察した。このセンターは①介護保険によるデイケアセンター、②高齢者福祉の拠点、③認知症高齢者の施設などの公的な福祉機能をもっている。15分の距離にある仏光寺(曹渓宗)が、国から資金を受けて運営を委託されている。このように韓国の地域福祉で注目すべき点は、公的施設の運営母体に民間法人が投入され、国の補助金による宗教団体の高齢者福祉・医療施設の運営がなされていることである。
宗教団体が公的な福祉領域に参入することになった要因には、1つは韓国政府が過去数十年の低福祉時代から一気に高福祉を目指すにあたって、福祉国家ではなく、既存の民間組織を活用し福祉共同体を目指そうとしていることがあげられる。さらにもう1つ、宗教団体の法人認定に関する一般的な法律は存在しないという韓国の特徴をあげることもできる。「民法」32条の「非営利法人」の認定が適用され、非営利活動の内容に応じて主務官庁が管轄することになる。実際には、福祉法人として登録されている宗教団体が多い。また一方で、宗教離れがすすむ現代社会にあって、宗教団体の福祉領域への参入が存続と教勢拡大の方策となっている。
筆者は今後、社会福祉に関与する宗教団体に着目しつつ、「死にゆく人のケアのあり方」を調査する予定である。今年度の研究交流を経て、次回はキリスト教系の高齢者施設が墓を所有し、死にゆく人の精神的ケアをしている施設を調査することになった。
川端康成『雪国』の自然、登場人物の島村・駒子の死生観に関する研究調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成25年2月21日~2月23日
調査地 新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢高半(旅館)の霞の間、および旅館の周辺地域
2月21日:予定通り上越新幹線で上野より出発、11時16分越後湯沢着。雪。曇天。雪。地元の書店で地方誌他関連書籍を求む。川端の当時見聞した西山通りの現在を確認す。湯沢民俗資料館と雪国館を見学。「雪国」執筆当時の村の生活や映画化に際しての幾多の写真パネルに学ぶ。略3hかけて学芸員の方からの解説と「雪国」関連の絵画・川端の遺品等を学ぶ。
2月22日:晴天、寒風。西山通りから布場スキー場、島村ロッヂ、鎮守の森、駒子の置屋跡(豊田屋)、湯坂~旧道への地蔵、主水公園内の雪国碑等を雪中徒歩で確認す。途中執筆の宿と部屋を高半ホテル内に見学、周辺の地形を確認す。
2月23日:雪終日降りしきる。塩沢町鈴木牧之記念館と縮の里にて、「雪国」との関連事項を実地に見聞、確認す。23日は予定通り18時14分に上野着。当地の自然と死生観との相関を実感出来た。
研究発表会
平成24年10月20日甫水会館402室
東日本大震災による被災遺族の死の受容・葬送儀礼・霊魂観
――石巻調査より――
井上 治代 研究員
(発表要旨)筆者の研究目的は、日本大震災の被災地・石巻市における死をめぐる人々の意識や行動を通じて、喪失観・葬送儀礼・霊魂観についての分析を行うことである。そのさい次の4つの点、すなわち①「喪失体験」:1年数ヶ月が経ったとき、被災遺族が喪失体験をどう語るのか、②仮埋葬:仮埋葬の実態と、近年において常態的に行なわれてきた火葬と違う葬法に対する人々の意識、③多発している「死者の霊が出た」という怪奇現象、④「慰霊の桜」を植樹する活動の意味に着目して現地調査を実施し、その結果から本稿では中間報告を記す。調査は6月6日~8日、8月1日~2日の2回実施した。
「喪失体験」についてのインタビューは、8月3日、Aさん(60代・建築業。娘の夫と孫が死亡)と、Bさん(60代・主婦。夫と娘の配偶者が死亡)の2名に実施した。その詳細は紙面の関係で割愛するが、インタビューを通じて現時点で見えてきたことを記すと、次のようになる。
地域社会で同じような境遇の人たちと共に人間性・社会性のある作業に立ち向えた人と、個人的に悲しみを抱えてきた人では、1年5ヶ月後の悲嘆のあり方が違っていた。大川小学校で孫を亡くしたAさんや、子どもと夫を亡くしたAさんの娘は、同じ境遇の人たちと一緒になって積極的にボランティア活動をすることによって、日々逆境に立ち向かっていた。一方で、積極的な地域活動はあまりないか、あるいはそういった活動に積極的に参加しなかった人は、個人的に悩む時間が多く、いまでも強い悲嘆を感じていた。さらに、同じ大川小学校のエリアで、子どもが助かった家族は、地域集団に入れず、引っ越したり、地域社会にとけ込めなくなっている状態が確認された。
「仮埋葬」については、4人に聞き取り調査を行った。①「身元不明の人」が仮埋葬されるというマイナスイメージあった。②急激な死、変わり果てた遺体、通常とは違う埋葬方法に戸惑った。3埋葬法ではなく、「仮埋葬」の「仮」に違和感があったのではないかといったような意見が聞かれた。現在、継続調査中である。
多発している「霊が出た」という怪奇現象については、阪神・淡路大震災ではこのような現象は起こらなかったということに着目して、聞き取り調査を行っている。
慰霊の桜に関しては、死者自信への慰霊というよりは、「未曽有の大災難に会い、大切な家族を失い、いまだに不明の人も多くいる。グリーフケアとしての桜」という、「死者」よりも「遺族」が対象として意識されていたことが興味深かった。
研究発表会
平成23年11月24日東洋大学白山校舎3303教室
研究発表アイヌの宗教儀礼と戦災慰霊
竹内 清己 客員研究員
(発表要旨)今日、日本最北端の町となった稚内は、敗戦まで樺太(サハリン)との連絡・中継の地として賑わった。この地をフィールドのアイヌの宗教儀礼と戦災慰霊の調査に入った。
丘陵地の稚内公園の歴史的モニュメント群は、天皇皇后行幸啓記念碑・御製「樺太に命をすてし/たをやめの/心を思へばむね/せまりくる」「樺太につゆと消えたる/乙女らの/みたまやすかれと/たゞいのりぬる」に導かれつつ、氷雪の門へ「人々はこの地から樺太に渡り樺太から/こゝに帰った/戦後はその門もかたく鎖された/それから18年望郷の念止みがたく/樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰/めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの/地の丘に......」とある。9人の乙女の碑「昭和20年8月20日/ソ連軍が樺太真岡上陸/....../「皆さんこれが最後ですさようならさようなら」の言葉を残して。
開基100年記念塔・北方記念館は海抜240メートル。樺太アイヌ、ウイルタ、ニヴフの事跡。大泊港・サハリン時間と日本時間の時計。
樺太年表。
横殴りの秋雨の中の調査となった。宗谷海域海軍戦没者の碑・間宮林蔵渡樺の地・日本最北端の碑、さらに宮澤賢治詠「はだれに/暗く/緑する/宗谷岬の/た」ずみと/北はま蒼に/うち睡る/サガレン島の/東尾や」(「宗谷〔2〕)海軍望楼。祈りの灯の鐘・世界平和の鐘・子育て平和の鐘。宗谷灯台。
ノシャプ岬へ、稚内灯台。横殴りの雨。稚内駅から稚泊航路記念碑・稚泊港北防波堤の由来航路。ここから賢治も白秋も樺太に渡ったのだ。
留萌の黄金岬の平和の碑「誓い戦争が終った夏、昭和20年8月22日、樺太(サハリン)から、小樽に向かっていた緊急引き揚げ船小笠原丸、第二振興丸、泰東丸の3船が、旧ソ連軍潜水艦の攻撃を次々と受け」とある。
増毛の忠魂碑、戦病死者名明治37年、増毛小学校開校133周年(明治11年開校、平成24年3月)、元陣屋秋田藩、津軽藩増毛勤番越年陣屋跡。
留萌に戻って。オビラウシ(小平町埋蔵文化在資料館、アイヌ語河口に崖のある川)今は廃館、花田番屋資料館鬼鹿沖に眠る泰東丸・働奨の海に誓う・3船遭難慰霊之碑。
ソ連の参戦において、スターリンがソ連による武装解除を要求した一線は、留萌と釧路を結んで北海道を2分割するものだった。
研究発表会
平成25年1月12日白山校舎第3会議室
死の受容と他界観―臨死体験と死後の世界への信念―
大鹿 勝之 客員研究員
(発表要旨)『日本霊異記』上巻第30「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁」では、膳臣広国が冥界に赴いた様を語っているが、この冥界来訪譚は広国が蘇生してから語ったものである。また、『日本霊異記』上巻第5「三宝を信しん敬ぎやしうまつりて現報を得し縁」では、紀伊きの国名な草くのさ郡こおのり宇治うじの大伴おおともの連むららじの祖先である大華だいけ位い(大化の改新で制定した19階うち7番目の位階)大部屋おおともの栖やす野の古この連の公が推古33年に死去して生き返った時、その時のありさまを妻子に語るが、そのありさまは、5色の雲が虹のように北に渡っていて、道を歩いて行くと、何とも言えぬよい匂いがたちこめ、道のほとりに黄金の山が見え、近づいてゆくと、黄金の光が顔に照り輝くばかりで、そこに、亡くなった聖徳太子が立って待っていた、というものである。
その他、『宇治拾遺物語』や『法華験記』にも蘇生譚が記されているが、このような蘇生譚に描かれる蘇生者の物語には、現代の臨死体験における体験者の報告内容に通じているものがみいだされる。
蘇生術の進歩により、これまでなら死亡していた患者が蘇生するようになり、その中には死亡を宣告された患者もいるのだが、その患者が蘇生した後に語る体験談は、多くの類似性をもち、またただの幻覚とかたづけられない現実性や、体験者にとってきわめて重要な意味を有することがわかってきたため、こうした体験が臨死体験(near-death experience)として研究の対象となった。ケネス・リングは、臨死状態に陥りながら蘇生した102名に面接調査を行い、1.安らぎや安堵感、2.肉体からの離脱、3.トンネルをくぐるような、この世から彼岸にあるといわれる世界への移行、4.光を見る、5.光の中に入るというような五つの段階がある、と述べている(Greyson ,Bruce ,Flynn ,Charles (ed.), TheNear - death Experience : Problems , prospects , perspectives, Charles C Thomas , 1 9 8 4 邦訳、ブルース・グレイソン、チャールズ・P・フリン編、『臨死体験―生と死の境界で人は何を見るのか』、笠原敏雄訳、春秋社、1991年)。また、日本人の体験では三途の川(のような川の意味)やお花畑との出会いが目立って多く、またインドでは、ヤムラージというヒンドゥー教における死の世界の支配者が登場してくるといった、文化による違いが指摘されている(立花隆、『臨死体験』下、文春文庫、文藝春秋、2000年)。
こうした臨死体験については、中毒性精神病に起因する主観的事実であるという主張や、脳の解離性幻覚作用とする主張、神経ホルモンによる海馬回の神経活動を誘発させることにより特徴的な臨死体験を引き起こすという仮説がなされているが、こうした主張では片付けられない側面も指摘されている(上掲『臨死体験―生と死の境界で人は何を見るのか』、72―248頁)。
さて、さまざまに解釈される臨死体験であるが、臨死体験の報告者は死んではいないという明白な事実からすれば、死んだ体験ではない。18世紀の哲学者ヒューム(David Hume , 1 7 1 1 - 1 7 76)の『人間本性論』A Treatise of Human Nature における議論に照らしていえば、いかに多くの臨死体験の事例が報告されようと、それらは生存者あるいはまだ生きている者の事例であるかぎり、来世の存在の蓋然性が増大することにはならない。臨死体験者は体験後死後の生命信仰が非常に強まったという報告がある(上掲『臨死体験―生と死の境界で人は何を見るのか』、336―338頁)ように、体験者にとって、臨死体験は死後の世界への信念について大きな影響を及ぼしていることがわかるが、その体験が生存者の語る体験であるかぎり、その体
験から直ちに死後の世界が存在するとはいえない。
しかしながら、死が近いとされる状態において何かしら非常に特殊な経験をするということを臨死体験の報告は物語っている。臨死体験者については、死に対する不安の減少という回答のほかに、死の恐怖の減少という報告も見られるが(Fox , Mark . Religion , Spirituality and the Near - Death Experience , Rougledge 、 2 0 0 3 , p p . 2 7 9 - 2 88 ) 、こうした報告は、「死は恐くない」という信念形成にとって非常に重要である。そして、死の受容と他界への信念との関係において、臨死体験の事例は、死を受容するあり方に示唆を与えるものとして考察していくことにより、さまざまな情報を提供するといえる。
研究発表会
平成25年1月12日東洋大学白山校舎第3会議室
「死の受容」の哲学的考察
相楽 勉 研究員
(発表要旨)本発表は、「死の受容」とはいかなる「生」のあり方か、それはいかにして実現可能なのかということを、キューブラー・ロス『死とその過程』における死にゆく者の心理学的省察と、ソクラテス、エピクロス、ハイデガーによる哲学的省察を手掛かりに考えた。
まず「池袋母子餓死事件」(1996年)の際に、母親が書き残した日記の記述の内から、救いを求めながら孤立してしまう心情に「死の受容」が拒まれた境遇を読み取り、そこに欠けているものを、ロスの「死の受容」考察に見出すことを試みた。
「死にゆく過程の五段階説」と言われる彼女の分析において最も重要な指摘は、どの段階の患者も「希望」を持ち続けることということである。そして「死の受容」という最後の生の実現には、「自己自身」との向き合いと、家族やカウンセラーという他者との「感情」の共有が必要だろうということである。それによってこそ、家族や世界から自分を引き離して幼児の様に「恐怖も絶望もない存在になって亡くなって行く」ことが可能になるのだろう。
最後に、ロスの考察を手掛かりに「哲学者」たちの死についての思索の意味を考えてみた。ソクラテスが刑死前に語った「希望」は、生き延びる望みというより「死の受容」というべきもので、アテネ市民や弟子たちとの関係の中で永遠に連なる安らぎとも考えられる。エピクロスの「死はわれわれにとって何ものでもない」という自覚も、不知の事に囚われるなということよりも「たったいま生まれたばかりであるように」生きる点にポイントがあるのではないか。最後にハイデガーの『存在と時間』で論じられる「死への先駆」の意味を考えてみた。「落命への恐れ」と区別される「死に対する不安」のうちに、ハイデガーは、自己自身に直面して行為に踏み出しうる身構えの「喜び」さえ見出した。それはロスの言う人生最後の「受容」の境地とは異なるが、「恐怖も絶望もない存在」に近い生と言えるのではないだろうか。総じて、「死の受容」の可能性を考えることは、いくらかでもよき「生」を求めることであり、少なくともロスの言う「人生の大きな環」に思いを致すことではあろう。
公開講演会
平成24年11月24日東洋大学白山校舎3303教室
自然災害と岩手の文学
須藤 宏明 氏(盛岡大学教授)
(講演要旨)最初に、三島由紀夫『太陽と鉄』というエッセイを取り上げた。絆が結ばれるには、共通の体験が基盤になっている。とりわけ、共通の苦の体験を元にして発せられ、享受される言葉は大きな力を有する。しかし、それは三島の言う「同苦の共同体」を前提にした言葉の力である。文学はそう簡単には、災害の苦しみを表すことはできないことの重要性を、震災後1年半が経った現在、認識しなければならない。そういう点において、絆という言葉は、重要な言葉であるだけに、細心の注意を払うべきである。
次に、宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』を俎上にあげ、自然災害をいかにして乗り越えていくのかを、作品を通して考察した。宮沢賢治がイーハトーブと称した岩手は、災害の多い所である。現在、イーハトーブは、一般的に単なる理想郷と捉えられている感がある。しかし、『グスコーブドリの伝記』でイーハトーブは、寒さと旱魃に襲われ、ブドリの犠牲死よって暖かさを取り戻す所と描かれている。賢治は、自然災害の中でいかにして生き抜き、理想郷を築き上げていくのかを、文学という媒体によって提示したのである。
続いて、釈迢空の関東大震災を詠った『砂けぶり』、昭和初年の東北大飢饉を題材にした『水牢』『貧窮問答』という口語詩から、苦をいかにして表現していくのかを問題にした。迢空は、本来は、短歌形式を中心に表現をおこなった歌人である。しかし、災害に関しての表現の多くは短歌ではない形式を使用している。その原因は、三島の言う「同苦」を持っていない読者、被災していない人達にどのように苦を伝えるのかという格闘にあったと考えられる。その格闘の結果、迢空は「非短歌」という4行詩『砂けぶり』、2行詩『水牢』『貧窮問答』という表現形式を編み出したのである。併せて関東大震災は、関東という大都市での震災であり、東日本大震災という地方での災害とは区別して考えねばならぬことを指摘した。
最後に、三陸沿岸で「ゴロウ」と称される死体と、沿岸に流れ着いた他所者よそものを題材にした須知徳平の『春来る鬼』という小説の考察をおこなった。この物語は、三陸沿岸に流れ着いた青年と村人との交流を、村と海の幸を願っておこなわれる火祭りを舞台に描いた小説である。村という共同体は他所者を受け入れることによって発展していくことを、この物語は提示していることの確認をおこなった。これは、平成の現在、まさに地方の共同体に求められているのではないかとの意見を述べた。
岩手は他の県に比して、自然災害の多い土地である。しかし、人々はその過酷な現実に目を背けることなく、対峙してきた。天災は避けることはできないという現実の中で、人々はどのように生き抜いてきたのかを文学は描いてきた。災害の中で人々は死を受容してきた結果の生である。文学はこれを描いてきたのである。このような結論をもって講演を閉じた。