平成12年10月14日開催
平成12年10月14日開催
高見順の見たビルマの民間信仰
百瀬 久 研究員
昭和17年月から12月までのほぼ1年を高見順はビルマで過ごす。欠落はあるもののこの時期は日記に詳細に記録されている 。 この体験は、2冊の著書、いくつかの小説、日記と重複する部分を持つ何編かの紀行を生んだ。紀行の中で高見はビルマ理解についていう。「ビルマを理解するには、ビルマが仏教国だといふので仏教のの面からのみ見たのでは駄目で、民衆信仰たる「ナット」崇拝を研究する必要がある。」(「祷りの国 ビルマ」)この高見の民衆信仰への関心は迷信深い母親に育てられたことに起因すると思われた。幼い日の高見の日記にはすでに「水天宮様」「金光教会へおまいり」「おえんま様」などが見受けられ、自らの育った環境への郷愁に似たものを高見はビルマの民衆に見たと推察するところから研究を開始した。発 表ではビルマ滞在中に書かれた日記(「徴用生活」「ビルマ従軍」)を中心に、民衆信仰と絡めて高見のビルマの民衆に向けられたまなざしについて考察した。
具体的には以下の項目を立てた。
1 年譜上の足跡の確認とビルマ入国までの旅程。
2 資料『ビルマ記』『共栄圏文化 ビルマ』について。
3 日記(前出)について。
4 高見のビルマ観について。
5 自伝的小説『わが胸の底のここには――「ある魂の告白 第1部」』について。
6 高見の自己と重ね合わせられるビルマ・ビルマ人について。
7 転向の代償の文学について。
6を結論として、それを導く要素に4・5・7を考え、その根拠としての2・3の読解と分析を行なうという順で考察を行なった。
転向者高見の社会改革の夢は弾圧についえたかに見えたが、それはビルマにおける大東亜共栄と形を変えて再構築されるにいたったと考 えられる。その根拠として考えられることは高見みずからを投影しうるビルマ・ビルマ人の姿があったことによる。英国の支配を受けた植 民地が、日本におけるみずからの経済的な階級であるプロレタリアートと重ねて高見の目に映ったことを資料から読み取ることができる。 さらにそれにとどまらず、仏教国でありながら深く民間に根づいていたナット信仰の実態が、自分を育てた母親の子供の成長への願いに現 れる迷信深さと重なって無意識的にせよ高見には受け止められていたこともまた、資料から抽出した。高見順は、戦時下においてビルマを 愛し英国植民地支配からの脱出を願ったが、そのまなざしは自身へ向けるものでもあったとして発表をまとめた。
助辞の研究と〈てにをは〉論
根上 剛士 研究所員
てにをは論には、伝統的歌学、即ち『姉小路式』、中院家の口伝を記した『歌道秘事口伝之事』、飛鳥井家の家説である『八代集手爾葉』など諸家のてにをは論と、『連歌諸体秘伝抄』『肖柏伝書』等の連歌論の系譜がある。これら中世の諸書の後に、明和以降の『古今集和歌助辞分類』『あゆひ抄』『詞の玉緒』などの優れたてにをは研究が続くのである。この近世前期のてにをは研究は、漢文学における漢文助辞の研究に影響された一面を持つと考えるのであり、特に『古今集和歌助辞分類』は、その助辞(てにをは)の説明に漢文の助辞を当てているのであって、当時の漢文学との関係があることは確かである。日本で毛利貞斎著『訓蒙助語辞諺解大成』(1708刊)等が出版されたことにより、助語の意識の発達が見られた。漢語の助辞の文典では、助辞とてにをはとを対比するものが多い。例えば、三宅緝明『助字雅』(1699跋)には、「漢文之乎焉哉。猶倭語之有天爾於波。」とある。また、『助字考』には、「実字 虚字 助字」の3分類がある。本発表では、森木久明著『助辞和名考』(岩瀬文庫蔵、写本1冊、1719成)について考察した。森木氏には『論語疑弁』(1714刊)などの著作があり、その中でも、「疑辞、嘆辞」などの用語で説明をしている。『助辞和名考』は、漢文の助辞に対し、例えば「乎」に胡・加・加奈、「哉」に加奈・也、「蓋」に伊大志・計大志というように、万葉仮名で「和名」を当てている。これは『古今集和歌助辞分類』の「なり」の条に、
秋上 秋の野に人まつ虫の声す也われかと行ていざとぶらはん (202)
此十首の如きは。也は語の已辞。又語之辞など註せし也字の義に相似たり。
とあるのと、事柄は逆であるが、発想は同じ対比である。また『助辞和名考』には、
也 慮氏曰意平、所以語己辞、緩於矣。而重於焉也。凡結絶之和名利。太古国人、以也誤為音他乎。故和名他利一和名奈利。此奈與他通音也。
矣 慮氏曰意直、所以結絶重於也也。太古国人、以矣誤為音奚乎。故和名計利。
ともある。さらに「焉」字に他流(たる)奈流(なる)計流(ける)を当てている。これらは、①「也」に「なり」「たり」の読み分けがあること、②「也・矣・焉」に軽重、緩直の差③「也・焉」に緩急の違いのあることを述べているのである。
このことは『古今集和歌助辞分類』の著者が、①和語の助辞「なり」に緩急等の微細な用法の差のあること②「なり」「なる」の相違は何か、ということに気付く端緒となったと考えるのである。ここに近世の学説の終止形接続「なり」と連体形接続「なり」説の根源があることを指摘した。