東洋における聖地信仰の研究:ヒンドゥー教と仏教における聖地巡礼成立の要件
東洋における聖地信仰の研究:ヒンドゥー教と仏教における聖地巡礼成立の要件
本研究は、単なる聖地の地理学的構造の研究にとどまらず、宗教思想的環境の研究も視野に入れ、文献学とフィールドワークの方法を用いて、統一的に信仰意識形成に与える環境と空間構造の解明に取り組むことを本研究の目的とする。この研究の組織は次の通り。
研究代表者 役割分担
宮本 久義 研究員 プロジェクト全体の統括・インド思想・宗教における聖地信仰研究
研究分担者 役割分担
橋本 泰元 研究員 インド中世民衆思想における聖地信仰研究
沼田 一郎 研究員 インド古代社会における聖地信仰研究
岩井 昌悟 研究員 インド仏教の聖地信仰研究
高城 功夫 研究員 仏教文学における聖地信仰研究
菊地 章太 研究員 聖地信仰の比較宗教学的研究
出野 尚紀 奨励研究員 ヒンドゥー教における聖地空間研究
聖地信仰の特質のひとつとして、さまざまな宗教の伝統が重層的に重なりあって聖地として信仰されるようになった場合が少なくないことが挙げられる。また聖地として認知されていく要因も信仰のみに帰するのではなく、どのような地勢的・宗教的環境にあったのかというトポロジーやその他諸々の問題も関係するであろう。さらには、これらの聖地を辿る巡礼という信仰活動が生じた。それゆえ、まず基本的な問題として、「聖地」を成立させる要件とは何か、「巡礼」を行うようになった理由は何か。また信仰意識とどのように関係しているのかを明確にしていく必要がある。平成19年度にスタートした本研究プロジェクトを始めるにあたり、参加者全員のコンセンサスをはかるため、討議を行い、共通意識を持つことから始めた。それ以後、平成20年度まで主として資料収集を含む文献学的な研究、および今までに各自が撮影、収集した写真資料のデータベース化に従事している。また、実地調査を行うと共に、商業的販売網に載らないものについても文献を現場で収集した。
今年度は引き続き主として資料収集を含む文献学的な研究、および写真資料のデータベース化に従事した。また高城研究員が吉野山・奈良巡礼地調査、岩井研究員がインド仏教聖地の実地調査を行った。
4月23日(水)に第1回運営委員会を開き、各員分担の再確認をし、第1回、第2回研究会ならびにラメーシュ.クマール・パーンデー博士の講演会の実施日時を決めた。
5月10日(土)に第1回研究会を開いた。分担者出野が「ヒンドゥー建築論書に見る寺院建立地の要件」、という題目で発表を行った。建築論書では、新たに村落・都市を造る際に、どの位置にどの神格の寺院を建てるべきかが明確に規定されており、それによって場所に恩寵が降り注ぎ、栄光ある場所になるので、現在では、場所を選ばず建立されたヒンドゥー寺院も建立時には、意味ある選定基準に則っていたはずである、という内容であった。なお、出野は10月11日に「ヒンドゥー建築論書にみる数理美の考察」と題する研究発表を、東洋学研究所の研究発表例会で行っている(3.1研究発表例会の項を参照)。
6月28日(土)にラメーシュ.クマール・パーンデー博士(インド・ラール・バハードゥル・シャーストリー大学、古典サンスクリット文学/インド美学)を招き、講演会を「聖地ヴァーラーナスィーの祭礼と儀礼」という題目で行った。当日は6310教室に60人近くの聴講者が集まった。英語での発表であったが、Power pointを用いて、地図や写真などを視覚的に分りやすく講演していただいた。(代表者宮本が随時通訳を務めた。)当日の講演内容は、ヴァーラーナスィーが様々な名前で呼ばれる色々な顔を持つ聖地であり、ガンジス川沿いの浄化の地、天界へ通ずる道の出発点の地として、重要な寺院と多くの祭礼。儀礼が行われている地である、という趣旨であった。そして、講演の最後にはたくさんの質問があった。
8月8日〜10日の間、分担者高城が吉野山・奈良巡礼地調査を行った。8〜9日は吉野の調査を行った。吉野は西行に代表される歌枕の地であるが、『万葉集』では、神仙が遊ぶ聖地として歌われている。その後、修験道の入峯修行の入り口として、蔵王権現堂や金峯山寺などが建立され、神仏両道の聖地となっていった。10日は斑鳩の調査を行った。法隆寺に太子信仰の原点を調べ、中宮寺の女人聖地を確認し、龍田神社を中心とする歌枕の聖地調査をした。
8月23日〜30日の間、分担者岩井がインド(ムンゲール、ブッダガヤー、サールナート)を訪れ、仏教聖地の現況を調査した。ブッダガヤーは釈尊成道の地、サールナートは初転法輪の地でありともに4大仏跡である。ムンゲールは、成道後6年の雨安吾地マンクラ山との関連が想定される地である。
10月11日(土)に分担者岩井が、東洋学研究所の研究発表例会において、8月のインド調査の報告を行った。今回調査した場所のうち、特にムンゲール、ブッダガヤーを中心にPower pointを用いて、現在ブッダガヤーの聖地がどのようになっているか、ムンゲールがマン
クラ山に相当するのかを発表した(3.1研究発表例会の項を参照)。
10月23日(木)に第二回運営委員会を開き、平成21年度の研究方針の概略を決めた。
11月8日(土)に代表者宮本が、東洋学研究所の研究発表例会において、「ヒンドゥー教の聖地形成におけるイスラームの関与―北インドの聖地バナーラスを事例として」という題目で発表した(3.1研究発表例会の項を参照)。
12月20日(土)に第2回研究会を開き、分担者沼田が、「ヒンドゥー聖地と法典類」という題目で発表を行った。
平成21年1月21日(土)に第2回研究会を開き、分担者橋本が、「カビールと聖地バナーラス」という題目で発表を行った。
2月2日には、坂田貞二教授(拓殖大学)を講演者としてお招きし、「牧童神クリシュナゆかりのブラジュ(牧草地)の巡礼―巡礼者が希求するもの、巡礼者を惹きつけるカー」と題する公開講演会を開催した。講演会後研究交流会を開催し、聴講者の学内外の研究者から様々な意見を得ることができた。研究調査および公開講演会の概要は以下の通りである。
研究調査活動分担課題
「仏教文学における聖地信仰研究」に基づく調査(吉野山・奈良巡礼地調査)
高城 功夫 研究員
期間 平成20年8月8日〜8月10日
場所 吉野山、奈良
今回の調査は、聖地奈良吉野を中心とした調査である。吉野の地は、吉野の宮に代表される古代の聖地であり、また仏教受容の広がりにより仏教的な聖地となる。また文学の面では、古今集をはじめとする歌枕の地である。花の吉野が定着していく過程を示している。その一役を担ったのが歌僧西行である。吉野を舞台としたのは源義経であり後醍醐天皇の南朝である。また修験道の金峯山の吉野が聖地としての文化の役割を果たしてきた。
8月8日は吉野の入回、金峯山寺、蔵王堂周辺の調査、とくに修験道の吉野入峯地の調査であった。信仰と大峯修行の聖地を調査研究するための基盤として重要である。そのあと吉水神社の調査、後醍醐天皇の聖地の調査をした。また南朝の巡礼の地を確認した。竹林院は墨客文人の巡礼の地、勝手神社などを調査した。西行の歌碑の調査もした。
8月9日は奥千本の調査である。金峯神社の調査や義経堂の確認をし、西行堂までの「とくとくの清水」に西行伝承歌を調査し、西行堂の西行木像や歌碑の調査をした。そのあと吉野水分神社の西行像を調査、さらに吉野一帯を調査して奈良に出た。
8月10日は奈良斑鳩の聖地調査をした。聖徳太子建立の法隆寺に太子信仰の原点を調べ、中宮寺の女人聖地を確認、龍田神社を中心とする歌枕の聖地調査をした。法起寺や法輪寺の十一面観音信仰を調査し、奈良の地をあとにした。いずれも奈良吉野の聖地巡礼の調査であった。
研究調査活動
仏蹟(ブッダガヤー、サールナート、ムンゲール)調査
岩井 昌悟 研究員
期間平成20年8月23日〜8月30日
調査地 インドブッダガヤー、サールナート、ムンゲール、ヴァーラーナスィー
宮本久義教授を研究代表者とする東洋学研究所・研究所プロジェクト「東洋における聖地信仰の研究一ヒンドゥー教と仏教における聖地巡礼成立の要件」の研究分担者として、筆者は仏教における聖地の成立の問題に取り組んでいる。研究方法として、仏教聖地を、必ずしも四大仏跡や八大仏跡に限らず、玄奘が『大唐西域記』に記す釈尊ゆかりの地一般に拡大し、それらの地が、どのようにして釈尊ゆかりの地として記憶され、聖地として崇められるようになっていったのか、その原因と展開のプロセスを探るという手法をとる。
今回の調査は、四大仏跡(ルンビニー、ブッダガヤー、サールナート、クシナーラー)の中の 2カ所、すなわち釈尊成道の地であるブッダガヤーと初転法輪の地であるサールナート、ならびに、四大仏跡や八大仏跡には含まれないが、釈尊の成道後第6年の雨安居地のマンクラ山との関連が想定されるムンゲール県を対象としたものである。
8月23日にインドに渡航し、デリーで一泊した後、24日の朝にデリーからパトナーに飛び、そのままパトナーから専用車にてムンゲール県に赴いた。翌日の25日に、ウレン(Uren)村、ピールパハール(Pirpahar)丘、スィータークンド(Sitakund)温泉を訪れた。またウレン村には26日にもブッダガヤーに向かう途中で再度訪問し、いくつかの点について再確認を行なった。
ムンゲール県は玄奘が「伊爛挙鉢伐多国」(Hiranyaparvata)と記す国に比定されている。玄奘はその国の大城の側、ガンガー河に臨んで伊「爛挙山」という山があると伝える。これを水谷真成氏は今のピールパハール丘ではないかと推定する。確かにピールパハール丘はムンゲールでもっとも高い丘であり、「伊爛筆山」に該当するとおばしきものも他に見られなかったため、妥当ではないかと思う。
玄奘はさらに、伊爛挙鉢伐多国の西の境、ガンガー河の南に「小孤山」があり、釈尊が「二月安居」し、薄句羅薬叉を降伏したところであると伝えている。この「小孤山」が今回訪れたウレン村に比定されている。ウレン村は小高い岩山に張り付くように家々が立ち並ぶ。ウレン村は、現在はムンゲールに隣接するラキーサラーイ(Lakhisarai)県に含まれていることからも示されるように、この村はムンゲール県とラキーサラーイ県の境に位置しており、玄奘の「國西界残伽河南」という記述と符合する。仏像・碑文・仏足跡などが出土することで知られており、今回の調査では仏足跡(?)や岩に刻まれた線描を実見できた。
26日の夜にブッダガヤーに着き、翌日の27日に、前正覚山、スジャーター村、モチャリン村のムチャリンダ湖、マハーボーディ(大菩提)寺を参拝した。前正覚山は釈尊が苦行をやめて2人の牧女の乳粥を受けた後、菩提道場に至る前に、はじめここを成道の地にしようと選んで登った山とされる。他の仏伝文学には全く言及されないが、唯一『根本有部律破僧事』が名前を出さずに言及し、玄美によって一前正覚山」として言及されている。菩薩がこの山で菩提を得ようとして坐るや否や山が砕けたと伝えられるが、その伝承にふさわしく、現に大きな岩がごろごろしており、まるで採石のために発破をかけたかのようである。現地の人はこの山全体を「ドゥンゲーシュヴァリー」(Dungeshwari)と呼ぶ。位置としては、大菩提寺からパルグ(Phalgu)河をはさんで北東に7.2kmほどのところ、ブッダガヤーではなくガヤーの西にある。
スジャーター村ではスジャーター・マンディル(スジャーター寺、スジャーターが乳粥を菩薩に捧げたとされる場所)、乳粥を受けて食し終えた菩薩が鉢を河に流して見つめた場所、スジャーターの家があったとされる場所のストゥーパの遺構を見学した。スジャーター寺は現在では2つあり、1992年の4月21日の寄進年が記されたミャンマーの方によるものは後から作られたのであろう。モチャリン(Mocharim)村は大塔のほぼ真南1.7kmほどのところにある。池があり、これが本来の、成道後の釈尊が大蛇によって大雨から守られた際にできたムチャリンダ(Mucharinda)池であり、大菩提寺の南側にある人工の池は本来のものではないとのことである。
28日にヴァーラーナスィーに赴き、サールナートに到着するや、サールナート考古博物館(Archaeological Museum Sarnath)を参観し、ダルマラージカ塔跡やダメーク塔で知られる遺構群と、その隣に新たに作られた、日本画家野生司香雪の描いた仏伝図の壁画で知られるムーラガンダクティー寺を訪問した。
29日は早朝日の出前にヴァーラーナスィーのガートに赴き、マーンマンディル・ガートから多くの観光客に交じってボートに乗り、ハリシュチャンドラ・ガートからダシャーシュワメード・ガートまでを撮影しつつ、見ることができた。その他、ヴィシュヴァナート寺院、インド亜大陸そのものを本尊として祀るバーラトマーター寺院などに参拝し、その日のうちに国内線でデリーに飛び、30日はデリー市内の視察として、インド門を見学してから、ラージガート(マハートマー・ガーンディーが茶毘に付された場所)を訪ねた後、帰国の途についた。
最後に今回の調査ではガイドを務めてくれたムケーシュ・クマール氏にたいへんにお世話になった。25歳の若者であるが、ブッダガヤーの出身であり、曽祖父や祖父から彼が聞かされていた現地の言い伝えを詳細に物語ってくれた。現地に伝わる物語は文献から知られるものと大きく異なっている。
公開講演会
平成20年6月28日東洋大学白山校舎6310教室
聖地ヴァーラーナスィーの祭礼と儀礼
ラメーシュ・クマール・パーンデー博士(S.L.B.シャーストリー大学教授)
ヴァーラーナスィーは約3,000年の歴史を持ち、世界の中でも古くて今に続いている数少ない都市の1つである。この都市にはたくさんの別名があるが、現在ヴァーラーナスィーと呼ばれているところは、中世以来様々に呼び名が変えられ、また最近になって、独立後に復興運動があって、正式名称がヴァーラーナスィーとなっている。『マハーバーラタ』という叙事詩に描かれたり、仏教のジャータカ(前世諄)に描かれている都市でもある。
ヴァーラーナスィーはバナーラスあるいはベナレスとも呼ばれている。バナーラスは中世以降用いられてきた名称である。ベナレスというのはそれを英語読みで呼んだかたち、皆さんが観光旅行で行くときに旅行会社がベナレスというので馴染みがあるだろう。さらに、インドのヒンドゥー教の巡礼者はカーシーという名前を使うときもある。カーシーというのは3,000年くらい前の王国の名前で、釈尊が今から2,500年前にその近くのサールナート(鹿野苑)に滞在し説法した時代にも、その名称が使われていた。もう1つ、カーシカーという名前もある。これは輝くものという意味である。
もう1つ、神話に関係する名称として、アヴィムクタというのもある。アヴィムクタとは、絶対に見捨てられない町、という意味。これにはシヴァ神が、この土地が非常にきれいだということで、移り住んできて、この土地から絶対に離れないという決意をしたという由来がある。
さて、ガンジス川沿いの聖なる場所を挙げてみると、①ダシャーシュワメーダ・ガート:伝説では十の馬祀祭が行われた場所②ローラールカ:元来は太陽神を祀る場所で、現在はシヴァ神を祀る③ケーシャヴァ:ブィシュヌ神を祀る④ビンドゥマーダヴァ:ヴィシュヌ神を祀る⑤マニカルニカー:火葬場、などがある。これらの場所を含んで、パンチャクローシー巡礼路がある。
ヴァーラーナスィーの重要な寺院。ガート(沐浴場)を挙げてみると、重要な寺院には、①カーシーヴィシュヴァナート寺院:ジョーティルリンガとしてのシヴァ神を祀る②サンカトモーチャン寺院:ハヌマーン神を祀る③カーラバイラヴ寺院:黒いバイラヴァ神を祀る④ドゥルガー寺院:シヴァ神妃ドゥルガーを祀る⑤マーナス寺院:ラーマ神を祀る⑥バーラトマーター寺院:母になぞらえたインドを祀る、などがある。また重要なガートには、①ダシャーシュワメード・ガート②マニカルニカー・ガート:火葬場③ハリシュチャンドラ・ガート:火葬場④アッスィー・ガート:最も上流の沐浴場、などがある。
ヴァーラーナスィーの祭礼と儀礼について挙げてみると、以下のものがある。
①ハヌマーン生誕祭
②ブッダ生誕祭
③ラーム・リーラーとダシャハラー
④ナッカタイヤー:羅刹女シュールパナカーの鼻削ぎ
⑤バラト・ミラープ:ラーマが弟バラタと再会する祭礼
⑥デーヴ・ディーパーワリー:神々の灯明祭
⑦ナーグ・ナタイヤー:クリシュナ神の大蛇退治
⑧マハーシヴァラートリ:シヴァ神の大夜祭
⑨ドゥルパド・メーラー:伝統的音楽形式ドゥルパドのコンサート
ヴァーラーナスィーはインド中に敬われ、尊ばれてきた巡礼の中心地である。巡礼者は国のすべての地方から訪れてくる。ある者はガンジス川に沐浴しに2,000kmも旅行する。ヴィシュヴァナート(シヴァ神)にガンジス川の水を捧げ、巡礼者の死を尊ぶためである。はじめの頃は巡礼者は徒歩でヴァーラーナスィーに向かった。また途上で他の巡礼地を訪れた。
太古のヴァーラーナスィーは考古学的な遺跡によって知られているだけでなく、様々に変容されたインドの文献によっても知られている。この地は、ヒンドゥー教のシャイヴァ派、ヴァイシュナヴァ派、その他の哲学的思想がそれらの祭礼と儀礼とともに共存する、東洋の学問の中心地なのである。
公開講演会
平成21年2月2日東洋大学甫水会館202室
牧童神クリシュナゆかりのプラジュ(牧草地)の巡礼
―巡礼者が希求するもの、巡礼者を惹きつけるカー
坂田 貞二 拓殖大学教授
天界のヴィシュヌ神が、牛を飼う部族の長の子クリシュナに化身して、牧草豊かなヴラジュの地に降誕したとする神話・伝説が、インドにある。その地は、首都デリーの南南東150キロほどのマトゥラーとヴリンダーバンを中心に、ほぼ円形をなす。その外周160キロほどに点在するクリシュナ神ゆかりの聖地を20曰くらいで時計回りに巡るのが、ブラジュ84里巡礼である。ヤムナー川の流域の畑、牧草地や丘陵地帯が広がる。聖地には、クリシュナが生誕した地、牛に草を食ませた草地、乙女らと戯れた川、悪王を滅ばした城ほかがある。それぞれの聖地に付随する小聖地も巡るから、全コースは、300キ口を超えよう。
毎年、酷暑期がおわって最高気温が35度くらいに下がる8月、クリシュナが降誕したとされる時期に、家族、村人のグループ、宗派の高僧・聖地案内僧に導かれた人々などのヒンドゥー教徒が、近隣はもとより、1,000キロ坂以上離れた東インドや西南インドからも、ブラジュを巡礼するために来る。20人くらいの小集団、200人くらいの中集団、数千人の大集団が、巡礼宿や仮設テントを宿に歩む。途中と宿泊先の聖地で、僧から聖地由来諄を聴き、神への讃歌をみなで唱し、仮設舞台で再現されるクリシュナの生涯のエピソードをオペラで観る。こうして人々は、巡礼先で人格神クリシュナを身近に感じる。
ブラジュ84里の巡礼が盛んになったのは、15世紀以降らしい。北東インド出身のチャイタニア師、南インド出身のヴァッラバ師らとその弟子たちが、クリシュナ神ゆかりの地に教学と布教の道場を設け、説法・讃歌詠唱・歌舞劇を通じて民衆教化に努めた。それによって心の平安を得て、その活動を支えてきたのは富農層と商人層である。かれらは、クリシュナのお姿が見えるブラジュの地を、農閑期にして商いの薄いときに巡り歩くことを望む。初老の夫妻が多い巡礼者は、家を子らに託して俗事。雑事から開放された心の休日を過ごすことにもなる。余裕のある人は、周りの人を誘い再度巡礼する。旅行業者も、諸宗派の師と連携して集客する。
古来の牛飼いの童子クリシュナは、21世紀のいまも多くの信徒を惹きつけている。
このように詳しく報告できるのは、1986年にヴリンダーバンから出立した巡礼団に入れていただき、独自の観点をもつ日本の3人の研究仲間とともに巡礼したからである。
牛に草を食ませに行った幼いクリシュナが、日暮れどきに戻ってくる。その姿を見た母のさまを16世紀の詩人スールがこう詠った―
母君ヤショーダーは嬉しげです 「クリシュナちゃんは牛のお世話ができたようね」
そのときクリシュナが戻りました 母はたりよって御子を抱きしめます。
ここでの母の心は、ともに讃歌を唱する巡礼者の心でもあろう。