平成24年10月13日 東洋大学白山校舎第2会議室
平成24年10月13日 東洋大学白山校舎第2会議室
遠藤周作とキリスト教 ―罪と悪―
行武 宏明 奨励研究員
(発表要旨)「日本人に合うキリスト教」の確立をその課題とする遠藤文学にとって、罪と悪は避けることのできない概念である。両概念はカトリック作家としての遠藤周作にその文学的昇華を要求する。そして、遠藤は誠実にその要求を果たした。本発表はそうした遠藤文学から看取しうることを看取する試みである。
罪とは神に対する人間の反抗である。遠藤は罪を「他人の人生を恣意識的に変化させること」と規定する。遠藤によれば、それぞれ全ての人生は神的なものであり、それを自身の身勝手な思惑から歪めることは、究極的には神に対する反抗である。遠藤によれば、こうした罪規定は日本人にも受容可能なものである。
遠藤によれば、罪には救いが潜在している。罪とはより高次の生を求める人間の足掻きであり、例えその表面的事態が否定的様相を呈したとしても、それは神的な行為である。それ故、罪は常に神による救済可能性をもつ。
そして、罪において潜在する救済実現の決定的契機こそ、「永遠の同伴者」としての紙=イエスである。共感・受容・赦しという「永遠の同伴者」の本質が、罪人という弱者を、救済され強めれた人間へと変容させる。
悪とは、全ての人間に潜む醜悪故に醜悪をなす傾向、または専ら死をのみ意欲する根本的傾錯である。罪の余剰、あるいは過剰として、悪は遠藤(文学)を動揺させる。キリスト者であり、作家でもある遠藤は、この、神の栄光すらも届かぬような暗黒である悪が、それでも神、すなわち「永遠の同伴者」によって救済される様を抽出しようとする。
『スキャンダル』において、遠藤は悪の内実とそれにとらわれた人間の姿、そして救済を描く。遠藤は、死が新たな次元の生への通過儀礼である示し、そうすることで、死の欲求である悪を生の1契約とみなし、どれ程の悪にでも生が「同伴」することをもって、悪の克服と「永遠の同伴者」としての神の調和を図ろうとする。
しかし、遠藤の意図が十分に物語られているとは言えない。本発表では、「文学者としての限界」と「キリスト者としての限界」に阻害されることによって、遠藤は彼の標榜する悪の克服を文学として昇華できなかったと考える。遠藤は悪を描ききることが出来ず、またこれと対決することができず、それ故、悪の克服は思い描くことはできても、それを物語ることはできなかった。
悪に対する遠藤の限界を考察するとき、そこに湧き上がると思いとは「優しさの限界」である。遠藤の掲げる「永遠の同伴者」、すなわち共感・受容・赦しを本質とする神は、悪、すなわち全ての人間に潜む「心の中の真黒なもの」に対し、本質的に無力である。その無力を踏まえ、なおも悪と対峙することは我々の課題である。
新羅浄土教研究方法論
―新羅仏教パラダイムの視座から―
愛宕 邦康 客員研究員
(発表要旨)法然は末法の世に適う凡入報土の義を確立するための手段として、浄土教の独立を模索した。そして、「三重の選択」と「仏の八選択」からなる選択本願念仏理論を確立し、専修念仏を提唱する。今日、我が国における浄土教学研究は、このような教学的特色を有する浄土宗、そして、法然を信奉し続けた弟子親鸞を宗祖に据える浄土真宗の隆盛により、両宗派の宗学研究の方向性に沿って行なわれる傾向にある。
詰まるところ、我が国の天台宗系浄土教や、法相宗系浄土教に多大なる影響を及ぼした新羅浄土教が、これまで唐浄土教の模倣などと軽視されて来た原因も、唐浄土教から我が国の浄土教への中継としての価値しか評価されなかった原因も、この両宗派の宗学研究の方向性に立脚するものと言ってよい。
たしかに浄土宗学や浄土真宗学の視座から鑑みれば、凡入報土に消極的や否定的な浄土教の方向性が、極めて劣位に映じたとしても、ある意味、それは整合性を伴う解釈かもしれない。しかし、我が国の浄土教は時機相応不相応という観点から、称名念仏以外の全ての行を選捨するという選択本願念仏理論によって方向付けされた極めて特殊なものであり、諸学融会のバランスの中で構築された新羅浄土教とは、明らかに趣を異にしている。逆に新羅浄土教の視点に立てば、持戒や発菩提心すらも絶対視せず、称名念仏以外の諸行を選捨するという我が国の浄土教こそ、常軌を逸したものに映るだろう。
そもそも筆者は、新羅の弥陀信仰は、メシアニズムとしての弥勒下生信仰を絶対的機軸とする国家体制の下、地方貴族や百済系、高句麗系移民を含めた一般民衆を取り込む一手段として、弥勒信仰を阻害しない範囲で容認されたに過ぎないと見ている。我が国の浄土教を「選捨する事により単一化された弥陀浄土教」と表現するのであれば、新羅浄土教は「選捨する事により複合化された弥勒浄土教」とも言うべきものであったと見ているのである。
すなわち、専修念仏というパラダイムシフトを経験した我が国の浄土教学研究の方法論によって、新羅浄土教を概観するという作業は、まさしく並び難き水火を同座に及ばせようとする所行であり、その研究には浄土門の視座でなく、法然が廃捨した聖道門の視座が必要となる。やはり求められるべきは、浄土宗学や浄土真宗学の方法論とは一線を画した新羅浄土教研究独自の方法論であり、早急なる新羅仏教パラダイムの構築であろう。
Kamalaśīlaの無自性性論証
―実世俗知による論証の成立について―
計良 龍成 客員研究員
(発表要旨)インド仏教後期中観派の学者Kamalaśīla (c. 740-795)は、主著と見なされる『中観光明論』(Madhyamakāloka)の中で、一切法の無自性性(niḥsvabhāvatā)論証を行う。後期中観派の2心理(二諦satyadvaya)説によると、無自性性を論証する論証因(hetu)を述べる推論(anumāna)は、その推論の言葉・推論式自体は世俗的存在であるが、その推論の結果として生じる知は、それ自体も勝義的存在ではないものの、勝義についての理解を助けるものであるので、「勝義」(parama-artha)という複合語の解釈の1つ、所有複合語(bahuvrīhi)の解釈に基づいて、それも勝義と、見なされている。
さて、インド後期中観派の無自性性論証についての従来の研究は、この勝義と見なされる無自性性論証(のみ)を研究対象として扱い、無自性性論証のそれ以外の解釈の可能性については、殆ど考察されることはなかったと思われる。ところが、『中観光明論』に説かれるKamalaśīlaの中観思想を分析すると、その勝義と見なされる論証とは別の無自性性論証も解釈として受け入れていたのではないかと思われるのである。
そこで、本発表では、その勝義と見なされる論証とは別の無自性性論証とはどのような論証であり、学説上どのようにして成立するのかを明らかにするために、無自性性論証における論証対象(sādhya)、即ち「勝義として無自性であること」(=勝義の自性の否定)に含まれる否定に関するKamalaśīlaの解釈の分析と、その論証が成立するための学説上の基盤を与える二真理説とそこ組み込まれる彼の三性(trisvabhāva)三無性(trividhā niḥsvabhāvatā)の解釈の分析とを行った。それらの分析により、彼が解釈として受け入れたと思われる、勝義と見なされる論証とは別の無自性性論証とは、勝義の自性の定立的否定(paryudāsa)を論証する、実世俗知に依拠した無自性性論証であることが分かった。他方、その論証は、チベット仏教のカダム派の学僧Phya pa chos kyi sengge (1109-1169)が、Kamalaśīla 等インド後期中観論者達の無自性性論証を解釈して提示した、世俗知に依拠した無自性性論証の解釈の1つに、結果として、内容的にほぼ一致することも確認することができた。