日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
戦後の日本において、死にまつわる諸相は隠蔽されて今日にいたっている。それについては、病院死が在宅死を大きく上回り、ほとんどの死が病院という閉鎖された空間で迎えられていることが第1にあげられよう。この病院死において、死と家とのつながりが失われ、近隣にも関わる死の社会性が喪失している。第2には、森謙二が指摘するように、葬送の領域にまで市場の原理が入り込み、葬儀業者や石材業者、そして宗教者までもが葬送の領域を商品化し、営利活動として展開されてきていることがあげられる(『墓と葬送の現在』、東京堂出版、2000年)。葬送儀礼にまつわる様々な事象は、今日、墓園・香典返しカタログ商品・仏壇・葬儀など、高度に産業化しつつある。葬儀も斎場で行われ、納棺から火葬まですべて業者が行うようになったが、その一方で、家や地域で行われてきた集団としての葬儀の形態が失われつつあり、それとともに死にまつわる習俗も見られなくなってきている。そのため、こうした集団で行う葬儀に参与することによる、地域内で共通の死生観に与ることや今日取り沙汰されるグリーフ・ケアの役割も葬儀において失われてきている。さらに問題となることは、葬儀を行わずして病院の霊安室から火葬場まで直行する「直葬」という事態が増えてきていることである。これには宗教観など様々な理由があろうが、葬儀業者の葬儀費用は高額で、最近の不況の影響で葬儀費用がまかなえないためこうした事態が生じているともいえよう。
こうした事態において、弔うことによる死の受容がなされないまま、遺族の衝撃や悲嘆が深刻な影響を及ぼすことが懸念される。そして第3に、今日ようやくターミナルケアや死生学の重要性が叫ばれてきているものの、悪性新生物や心臓疾患が死因の上位を占めるなか、医療従事者がもはや治癒の見込みがないことを直視せず、濃厚な医療をつづけてきたということも死の隠蔽性に関わってきている。さらに第4に、死や死別の悲しみは合理的に了解され得ない事柄とされるにもかかわらず、宗教教育のタブー視や科学的・合理的思考の重視も死を遠ざける要因となっている。
しかし、私たちの日常を支える基層文化においては、生と死が渾然一体となっている事実には変わりはない。異界や霊魂といった事象は、自然科学や現代性によって一見否定されているかに見えるが、現代社会の営みにおいて、葬送儀礼がなくなったわけではない。葬送の習俗にしても、たまよばい、耳ふさぎといった葬儀習俗が各地に見られ、また葬送が商業化された現在においても、一周忌や三周忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌といった法要が行われる。これは、今日では形骸化しているともいわれようが、死後の魂が祖霊となることに通じている。また、テレビでは霊能者とおぼしき出演者が人気を博している。異界や霊魂は今日も生き続けているのである。
『パイドン』『パイドロス』『国家』といったプラトンの対話篇には死後の魂が大まじめに語られている。それは時代の制約として片付けられるものではなく、すべてを永遠の相のもとに見る必然として魂の不死性が論究されるのだ。魂の不死性という主題は今日でも臨死体験と関連して議論されるなど議論の対象となっているが、祖霊の存在、代々続く幸福への願いなど、日本の伝統習俗にも、死後も引き続き存在する魂は根づいている。それを閑却することは精神の貧困化につながる。
そこで本プロジェクトにおいては、私たちの日常を支える必至な事柄として、葬送儀礼をとらえて、異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・生命倫理・社会・比較文化の研究をおこなうことによって、行きすぎた近代性や死に対する隠蔽性について批判吟味して、本来あるべ健全な日常性への復帰に寄与しようと思うものである。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里 巧 研究所長 研究総括・葬送儀礼・死霊観の精神史的研究
研究分担者 役割分担
竹内清己 研究員 戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂
原田香織 研究員 能・狂言にみる死後の魂の存在
野呂芳信 研究員 詩作における死と魂
朝比奈 美知子 研究員 葬送儀礼と死生観に関する比較文学・比較文化的研究
大鹿勝之 客員研究員 宗教・習俗にみる死生観・倫理観
川又俊則 客員研究員 葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究
次に、今年度の研究経過を報告する。
まず平成22年5月8日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は研、究分野におけるテーマ設定と研究計画について話し、相互に研究内容の確認を行つた。また、研究発表会の日程と担当者について協議した。
各研究者の研究経過は以下の通りである。
中里 巧 現在、アイヌ文献を収集し、フィンランドカレワラやイヌイットとの関連を調べている。研究分担「死霊観の精神史的研究」に関連して、平成22年9月5日、日本宗教学会第69回大会(於東洋大学)において、パネル「精神的苦悩と宗教体験の諸相―思想史的・臨床的アプローチー」のなかで「マザー=テレサの間―神の不在とイエスの遍在―」と題した発表を行った。研究成果については、東洋学研究所紀要『東洋学研究』第48号に「北方文化における血の復讐」と題する論文を執筆した。また、11月27日〜29日、北海道立アイヌ総合センターおよび樺太関係資料館にアイヌ文化の葬制儀礼・死生観、および北方の生活文化の調査を行った。
竹内清己 今年度は北方の戦地における死生について研究を進め、旭川と室蘭への調査を中心に研究を行っている。文献研究として、旭川に関しては、徳富直花『寄生木』、森鴎外「北遊記」、金田一京助「近文の一夜」、坂東三百『兵村』、島木健作『東旭川村にて』、井上靖『幼き日のこと』、『旭川市史』、『旭川第七師団』、『旭川・アイヌ民族の近現代史』など、室蘭に関しては、葉山嘉樹『海に生くる人々』・『鴨猟』、人木義徳『海の文学碑』、富盛菊枝『イタドリの丘』、山田秀三『登別・室蘭のアイヌ地名を尋ねて』、『室蘭市史』、『室蘭製鐵所100年史』、「全国戦災史実調査報告」、『室蘭戦災誌』、『室蘭空襲と艦砲の日』などを研究した。また、平成22年10月8日〜11日、旭川のアイヌ屯田兵・第7師団跡と戦争死および葬送、同様に室蘭のアイヌ・屯田兵・製鋼・製鉄所と戦争死および葬送について実地調査した。
原田香織 能楽にみられる異界と墓標について研究を進めている。葬送儀礼や、墳墓については、能楽の場合用例が皆無に近い。わずかに『卒塔婆小町』において、卒塔婆に腰掛ける老女小町と高野聖との問答が見られるのみである。生ある者の墓標へのこだわりについては、舞狂言の一連の作品に「しるし」としての墓標を願う詞章があるが、墓標はあくまでも祈祷・祈念という呪力を発揮する磁場としての「しるし」となろうから、それが霊界の入日となるか否かという点については、不明である。墓標がなくとも、霊的な世界の入口としての仏壇、仏具、形見の品というものはあろうし、そちらが霊界に果たす役割は大きい。さらに、墓標とともに経典が重要な鍵となり、読経を実行する僧は、まさに法を説き明かす者として不可思議に彼岸との間を揺れる存在である。結局、あの世とこの世とを分ける空間の境界線があり、交信の場の「しるし」としての墓標が何らかの機能を果たすことに疑いはないが、それが明確に何であるかを、地水火風などの意味をもつ墓標の意義を巡り考察を進めている。
研究調査としては、8月9日〜11日、鬼無里周辺・戸隠・平維茂将軍塚・安楽寺・今井神社等の調査において、謡曲『紅葉狩』の舞台ともなった戸隠山中の鬼無里界隈を踏査し、紅葉の住んだという伝承のある内裏屋敷跡、鬼女紅葉の供養塔、謡曲と関係の深い春日神社を確認した。また戸隠神社、『平家物語』関係の木曽義仲の家臣今井兼平の塚、紅葉山伝説の将軍平惟茂関連の上田市の別所温泉の将軍塚、善光寺を踏査した。
野呂芳信
今年度は主に萩原朔太郎の散文「復活した耶蘇の話」の内容および思想の分析に着手し、また川端康成の掌篇小説屋「上の金魚」にも着目して、その内容分析を試みた。前者は朔太郎の死生観、キリスト観の集大成のような内容であるが、その分関連する他文献も多く、内容解釈にかなりの困難を抱えている。今後更なる調査・考察が必要である。後者については一種の死と再生、解放の物語として分析が可能であり、これまでに筆者が行ってきた川端の小説読解とそこに見られる思想などと関連付けて、新たな読みの展開を行う。
朝比奈美知子 狂気の作家と称せられるネルヴァルにおいてあらわれた「収集」のテーマを近代文明の表徴としての「分類」へのひとつのアンチテーゼとして機能していることを分析した。パリのさまざまなモニュメントの文化誌を、時代資料と文学作品の両面から探り、近代化の功罪を検討している。大鹿勝之補陀落渡海(ふだらくとかい)とは、南海にあるとされる観音の浄土をめざして、小さな船に乗って船出した実践行のことであるが、際だって多くの僧が渡海した補陀落山寺・熊野那智の海岸の特異性について、8月9日〜11日、熊野参詣の対象となった熊野本官大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山と関連づけて、熊野の特色から探究するため調査を行った。調査対象地は上記熊野三山、那智の滝、那智の海岸、補陀落山寺、熊野三所大神社などであった。社寺および山々の様相と海の眺望から、熊野の特色を窺うことができた。
川又俊則 仙台市泉区根白石地区で平成14〜15年に民俗調査を行ったが、8年後の年中行事、寺檀関係、地域変化を探るため、10月16日〜18日、仙台市周辺の寺院や霊園において調査を行った。夫婦双系の先祖を一区画に収容する事例が徐々に増えつつあることを確認した。現時点では東京のように直葬(宗教者を介さない葬儀)の事例は多くないものの、今後の可能性は否定できないこともわかった。
以上の研究成果に関して、12月18日の研究発表会で大鹿客員研究員・竹内研究員が、1月22日の研究発表会で原田研究員と代表者中里が研究発表を行った。
以下に平成20年内に行われた研究調査、研究発表会の概要を示す。
研究調査活動
分担課題「宗教・習俗にみる死生観・倫理観」に関する研究調査(補陀落渡海と熊野参詣に関する調査)
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成22年8月9日〜8月11日
調査地 熊野那智大社、補陀落山寺、白浜、熊野本宮大社、熊野速玉大社
補陀落渡海(ふだらくとかい)とは、南海にあるとされる観音の浄土をめざして、小さな船に乗って船出した実践行のことである。補陀落とはサンスクリット語「ポータラカ」の音写で、観音菩薩が住む浄土を指す。この補陀落渡海の結果、中には沖縄に漂着した事例も記録されているが、多くは入水往生したとされている。補陀落渡海の出帆地としては、那珂湊や室戸岬、足摺岬などがあるが、熊野那智の海岸からの渡海が顕著である。この熊野那智からの渡海の特異性について、熊野参詣の対象となった熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山への参詣を通じて熊野の特色から探究しようと調査を行った。
初日8月9日は熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝に赴く。熊野那智大社では本殿の他宝、物殿において『那智山熊野権現参詣宮曼陀羅』などを調べる。また那智の滝(1の滝)の威容を見る。この滝は「熊野那智大社別宮飛滝神社」と呼ばれ、大己貴命(おおなむじのみこと)が祭られているが、滝が御神体となっている。
2日目8月10日は午前中JR那智駅に近い熊野三所大神社、その隣にある補陀洛山寺で調査。補陀洛山寺は補陀落渡海の出発点となったが、25名の渡海者が刻まれた記念碑、復元された渡海船、裏山にある、渡海僧と『平家物語』に入水が記されている平維盛の供養塔を調べる。また那智の海岸のあり方を把握する。午後は白浜に行き、三段壁からの海原の様子を調べ、権現崎にある熊野三所神社を調査し、権現崎から海の風景を捉える。
3日目8月11日は熊野本宮大社、明治22年の洪水でほとんどの社殿が流されてしまった旧社地の大斎原、そして熊野速玉大社に向かう。熊野速玉大社では宝物殿において玉侃など、古神宝類などを調べた。
以上、社寺および、山々の様相と海の眺望から、熊野の特色を窺うことができた。
分担課題「能・狂言にみる死後の魂の存在」に基づく調査
(能『紅葉狩』における鬼女紅葉伝説や平維茂を中心とした調査)
原田 香織 研究員
期間 平成22年8月9日〜8月22日
調査地 長野鬼(無里・戸隠・平維茂将軍塚・安楽寺・今井神社)
8月9日(月)初日は、謡曲『紅葉狩』の舞台ともなった戸隠山中の鬼無里界隈の踏査を行った。鬼無里全体は道が細く狭く地形は山であり、そこに住人が点在するという村落地帯であったが、鬼無里全体に紅葉伝承が残っていた。平惟茂と呉羽(のちの紅葉)という鬼との合戦場として荒倉山の途中にある鬼(紅葉)の岩屋には奉謡の札があり、鬼無里には紅葉の住んだという伝承のある内裏屋敷跡、鬼女紅葉の供養塔、謡曲と関係の深い春日神社を確認した。また、一般の民家の墓地の横にある鬼の塚には五輪塔と家来たちの塚があった。旭が原には山の神を祀り、柵神社や鬼無里神社と、鬼女紅葉の伝承が場所ごとに満載であった。また紅葉と関連の深い毒(ぶす)の平があり、木戸には小さな能舞台があった。大昌寺には紅葉狩伝説にまつわる絵が残り、松巌寺にも鬼女紅葉の墓と家来の塚があった。地名も、東の京、西の京と紅葉の伝承を伝えていた古い山奥の空間であった。
8月10日(火)2日目は、創建以来2000年の歴史を誇る戸隠神社を踏査した。中世文学にかかわりの深い山岳修験道の場でもある戸隠神社は、天台密教・真言密教と神道とが習合しており、思想としては能楽にも関連の深い天岩戸伝承の天手力雄命と深くかかわる。総称としての戸隠神社は、広い地域にわたり、宝光社・火之御子社・中社・九頭龍社・奥社の5社から成るが、その規模は比叡山・高野山と並び称せられるほど大きく「戸隠十三谷三千坊」という。かつては女人禁制の修行の場であった。太々神楽など芸能にかかわる歴史も深い。親鸞上人や西行法師の伝承もあり、歴史の深遠さを物語る地である。
8月11日(水)最終日は、まず、『平家物語』関係の本曽義仲の家臣今井兼平の塚を訪ねた。それは長野市川中島今井集落のほぼ中央にある。ここには今井兼平にかかわる今井神社、および神社横に今井兼平の墓があり、兼平山切勝寺がそばにある。中世の土塁が残り、複雑な歴史の一端をのぞかせていた。また、初日の紅葉山伝説の将軍平惟茂の関連の上田市の別所温泉の将軍塚、安楽寺も踏査した。最後に長野市の中心部に位置し、さまざまな信仰を集め、日本中世文学および能楽と関連の深い善光寺(謡曲『柏崎』、狂言『宗論』など)を踏査した。仏像関係が興味深く非常に有意義であった。
分担課題「戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂」に基づく調査
(旭川第七師団と室蘭製鉄所、北海道の文学風土に関する研究調査)
竹内 清己 研究員
期間 平成22年10月8日〜10月11日
調査地 旭川、輪西、室蘭
旭川のアイヌ・屯田兵・第7師団跡と戦争死および葬送、同様に室蘭のアイヌ・屯田兵・製鋼・製鉄所と戦争死および葬送について実地調査した。
8日、井上靖記念館、借行社・彫刻記念館、北鎮記念館、護国神社にて調査。9日も第7師団の跡を踏査、再度北鎮記念館、護国神社の資料閲覧、さらに東旭川の旭川兵村記念館および旭川神社に屯田兵資料を調査した。
10日、噴火湾内の室蘭湾の室蘭岳の山麓、本室蘭、本輪西の周辺を踏査した。南部陣屋史跡、室蘭民俗資料館で資料閲覧。11日は対岸の測量山から外海、エトモ半島の史跡、自鳥大橋記念館、さらに室蘭製鋼所・室蘭製鉄所の艦砲射撃の被害と慰霊の施設を調査した。
分担課題「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(仙台市内および仙台市周辺の寺院等における年、中行事寺・檀関係・地域変化等の調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成22年10月16日〜10月18日
調査地仙台市内および仙台市周辺都市近郊における葬送儀礼の変化を地域の変化等を視野に入れながら調査を行った。
第1日。仙台市へ移動。その後、三ヵ寺で調査した。8年前に調査した時点と比べ、墓園区画を拡大し、新檀家(ニューカマー)を当時から積極的に受け入れている寺院は、その後も受け入れを続けていた。バイパス道路の整備も進み、寺院への案内看板数も増えた。
第2日。仙台市内の五ヶ寺および仙台いずみ墓園で調査。夫婦双系の先祖を1区画に収容する事例がこの8年間の間に徐々に増えつつあることが判明した。現時点では東京のように直葬(宗教者を介さない葬儀)の事例は多くはないものの、今後の可能性は否定できないことも分かった。市営霊園であるいずみ墓園も区画数が拡大し、エビタフ(墓碑銘)も2000年以降のものにはペットの彫刻、絵、詩など自由度がそれ以前よりはるかに高まっていることが見て取れた。重要な年中行事は維持されているが、全体的に簡素化傾向が見られた。
第3日。移動日。人口増の調査地では儀礼等が都市化が進み、寺院はそれに対応していた。
分担課題「葬送儀礼・死霊観の精神史的研究」に基づく調査
(アイヌ文化の葬制儀礼・死生観、および北方の生活文化の調査)
中里 巧 研究所長
期間 平成22年11月27日〜11月29日
調査地 北海道立アイヌ総合センター・樺太関係資料館
11月27日北海道立アイヌ総合センターにおいて、展示ならびに文献を調べる。展示説明についてはすべて、2日間で筆記記録する。文献は、つねに新しいアイヌ文献が示されているのでいきわめて便利である。
11月28日旧北海道庁にある北海道立樺太関係資料館で、展示を写真撮影して、記録していく。アイヌなどの先住民族を巻き込む戦争の悲惨や樺太の教育環境など、きわめて子細な説明が多く、大変参考になった。また、北海道立文学館と北海道立近代美術館にも行く。文学館においては、千島・樺太文学というジャンルがあるのを知る。展示してある関連文献を、ことごとくノートに筆記記録する。こうした文学作品をとおして、地域を追体験できると思う。
11月29日北海道アイヌ総合センターにおいて、やり残している未記録分の説明について、筆記記録をしていく。凡庸な作業であるが、筆記記録なくして研究はない。
研究発表会
平成22年12月18日東洋大学白山校舎6311教室
死と海の風景に関する若干の考察
大鹿 勝之 客員研究員
死は単なる個体の死亡に局限されず、残された者にさまざまな像をもたらす。その像の1つとして、風景があげられる。死者の事を浮かべるときに海の風景が浮かんできたり、逆に海の風景に見入っていると死者のことが浮かんできたりする。また、死にまつわる風景は遺された者にとって多様な様相を帯びる。普段何となしに一緒に通り過ぎていた街の風景が拒否すべきものとなったり、逆にその風景がとても親密になったりすることもある。今回の発表では、その風景のあり方に注目し、海の風景や補陀落渡海を取り上げながら、考察してみた。
ベルク(Augustin Berque)は『日本の風景。西欧の景観そして造景の時代』(篠田勝英訳、講談社現代新書、講談社、1990年)において、海岸風景について、日本ではキリスト教世界のヨーロッパよりも早い時期に美化が行われたこと、ヨーロッパにおける近代の海洋風景の発見、明治以後の西欧の風景図式の日本への影響といった展開を説明している。また、ヨーロッパにおいて海岸の画趣が中心的なテーマになるのは、ロマン主義の時代をむかえてのことだったと、カスパール・ダビッド・フリードリッヒの『リューゲンの断崖』を例に挙げている。そして日本では西欧に門戸を開いた後も、海岸の捉え方には根本的な変化がもたらされなかったことを指摘している。
さて、風景に見入っているとき、そこには見る主体は主題とならず、主体―客体という捉え方は問題にならないのではないだろうか。ジンメル(Georg Simmel)は、風景が地上に拡散した自然諸現象の併存を特殊な仕方で統括することによって生じ、それは個別的なものではなく個別的なものがすべて合流するところの普遍的なものを意味するという。この点で、風景を見るということは対象を観察するという仕方とは異なり、またその点で観察対象から離れたところに観察主体が立っているという捉え方も当てはまらなくなる。さらに、日本語では「右手に富士山が見えます」といったように見る主体が表出されない。富士山が主題となっている。そこで、風景を見るということにおいては見る主体、誰が見ているかは問題とならず、風景が存在として立ち現れていて、こうした現れ方が、死者を浮かべるときに風景が浮かんでくることにはたらいているのではないか、ということができる。
補陀落渡海は南方浄土にあるとされる補陀落世界に船出する実践行であり、その多くは入水という形態であった。この補陀落渡海の際立った出帆地として和歌山県熊野那智の海岸があげられる。平成22年8月に調査した那智の海岸は、現在海水浴場となっているが、穏やかな、包み込むような悠然たる様相を呈していた。こうした海の風景と補陀落渡海との関わりについての、また死と風景との関連性についての詳細な検討が今後の課題となる。
研究発表会
平成22年12月18日東洋大学白山校舎6311教室
戦争死と葬送の賦――北海道旭川の第七師団と室蘭の製鉄・製鋼所を巡って
竹内 清己 研究員
〔発表要旨〕戦争は出征として外地で戦われるべきものだが、当然内地が発進の地で、″死生″の砦となる。葬送の賦を語ってやまない。北方、南方においてそれは極まる。旭川は最北の師団の第七師団で栄えた軍都、いわば北方の防人の街だった。厖大な出征兵士を発たせ厖大な戦死者を出した。室蘭は最北の製鉄・製鋼所で栄えた工都で、いわば軍需軍備の街だった。ため米軍の艦砲射撃に集中的に見舞われ多大な戦災死がもたらされた。
事前―。まず、蝦夷ガ島と呼ばれた時代からの原住民アイヌ民族の事跡、ここに開拓移住したヤマト民族の事跡をつぶさに知るべく、旭川市史、室蘭市史に照らしつつ多くの文献にあたる。ついで旭川と室蘭の文学作品を読みあさる。明治6年の北海道開拓使次官の黒田清隆の屯田兵創設の建議。8年黒田は旧松前藩と宮城、青森、酒田の3県及び管内士族などを琴似村に移し、第1大隊第1中隊を編成。以来32年根室に対する東・西和田村、室蘭に対する輪西村、厚岸に対する南・北大田村などを設置、旭川には上川の永山村、旭川村、当麻に順次置かれた。28年の日清戦争では臨時第七師団が置かれ、第1軍に編入され戦勝した。32年移転先を上川原野の鷹栖村近文に決定、軍都と栄える。日露戦争では第3軍に編成され、旅順203高地の戦いに参加。以後第七師団は、大正6年満州守備、7年シベリア出兵、9年尼港派遣、サガレン州派遣、昭和3年済南事件で支那駐屯、6年満州事変派遣、14年ノモンハンに出動、12年支那事変で北支、中支、南支に転戦、16年ハワイ方面決死攻撃、マレー方面奇襲攻撃、ミッドウエー、ガナルカナル島転戦玉砕、17年にはキスカ島、アッツ島を奇襲占領するも玉砕。戦局極まり内地決戦の様相となり、師団は19年に帯広へ移転、留守師団は第7七師団を編成し鹿児島へ、沖縄戦の主部隊となる。
一方室蘭は、明治6年アイヌ語に発するモロラン(小さな下り路)の元室蘭(現在の崎守)から、対岸のエドモ(突き出ている崎)の新室蘭へ市街地を移動、20、3年輪西に屯田兵設置、石炭の積出港として札幌新道を拓き、北炭(北海道炭砿鉄道、北海道炭砿汽船)が39年日本製鋼所を設立、続いて輪西製鉄所(のち富士製鉄、日本製鉄所)が操業。日露戦争後兵器生産に方向転換し日本製鋼で大正7年国産第1号航空機(複葉機)エンジン「室○号」を完成し、やがて戦艦大和や武蔵の主砲を製造するなど軍需産業として戦争の近代を担った。ゆえに北方まで制空、制海権を奪らた米軍によって爆撃自在にされるに至る。
旭川巡礼―。10月。第七師団跡の春光台の実地調査。(子細略)北鎮記念館で資料閲覧、館長の案内を受ける。護国神社。鎮座地=旭川市花咲町1丁目、創設=明治39年5月5日、祭神=明治戊辰の役以来大東亜戦争に至るまで北海道及樺太関係の殉国英霊6万3000有る余柱を祀る。神は北方の殉国の将兵だった。東旭川へ。旭川神社の境内に旭川兵村記念館。
室蘭巡礼―。調査の目的を報せてあった義弟の車で調査に入る。新日鉄配給所防空壕跡の崖下に慰霊碑。碑面「第二次世界大戦が終局に近い昭和20年7月14日15日の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達152名の尊い命が失われた。当町では終戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのような過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来たがこの度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである。」ここを振り出しに南部陣屋の室蘭市民俗資料館。館長の学芸員の案内を受ける。以下略。
事後―。『旭川第七師団』に加えて『最強旅団の運命』などを購入。『室蘭戦災誌』に艦砲射撃による死者の実名を見出す。回想の中に中島町の捕虜収容所の所長で、職制の部下のあった事件の責任を負つて絞首刑となった平手大尉の北見の墓を参った記事を読む。これまた葬送の儀だろう。第七師団の戦死者は外の師団にくらべて必ずしも多くはないだろう、室蘭の爆死者は本土空襲より少ないのは歴然としている、しかし、北方の特殊性から来る悲惨は大いに強調しておかなければならない。
研究発表会
平成23年1月22日東洋大学白山校舎6302教室
謡曲『紅葉狩』をめぐる異界と墓標
原田 香織 研究員
〔発表要旨〕謡曲『紅葉狩』は、観世小次郎信光の作品であり、5番目物で、紅葉狩りをして酒宴を催す前半の上薦である美女が、後場において突如として鬼神と化して平維茂を襲うという急展開を見せる現行の人気曲でもある。
『紅葉狩』の世界は謡曲から展開し、これを元に多くの古典芸術が成立した。歌舞伎『紅葉狩』・神楽『紅葉狩』ヘと展開する。また、鳥山石燕『紅葉狩』(『今昔百鬼拾遺』)など、絵画や後代の文学へと影響を与えている。
謡曲の詞章においてはこの舞台設定となっている地域は限定されておらず、「紅葉の山」及び「このあたりに住む女」という表現であるが、アイ狂言においては「信州戸隠山の紅葉」と明確に場所が限定されている。
実際に現地踏査をしてみると、長野県戸隠地域には、この紅葉山の伝承にかかわる地名・墓標・鬼女伝説などが存在する。つまり信州戸隠山という山岳修験道の場所は、一方で鬼女伝説をもつ異界の場であることがわかる。長野県戸隠地域の荒倉山にある毒(ぶす)の里、釜背負岩、舞台岩、紅葉の化粧水と呼ばれる小川、紅葉が隠れ住んだといわれる鬼の岩屋、鬼無里村には、紅葉の部下ともいわれる「おまんの墓」、紅葉の墓(五輪塔)、紅葉が護持したという地蔵尊を伝える松巌寺には「紅葉の墓」、鬼の塚(岩穴)や維茂が戦勝祈願したという社等である。伝承でありながらも、古びた墓標がある点から、この地域に土着した盗賊団と体制側との戦闘等の云い伝えがあったことがわかる。
その伝承の出典は、近代の作品で、活字本でもある斎藤一柏・関依川編『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝』(明治19年6月集英舎印刷)に拠っており、戸隠山に流された美女紅葉は、やがて盗賊団の首領として活躍する鬼女となり、朝廷から派遣された武将平維茂に退治されるという内容である。女主人公はやはり妖怪変化の類となっている。
文字化される過程において、戸隠地方の土着の鬼女伝承および武将平維茂の武勇伝でもある鬼女退治が重ね合わされている。山岳がもつ怪異性、異界の場としての境界線の先にあることは、『今昔物語集』以後の中世説話などにも確認できるが、山と女性との関係は、謡曲『安達原』の鬼女、『山姥』などにも見られる。
小松和彦氏は、享保9年信『府統記』に見られる平維茂の鬼人退治の話や『戸隠山絵巻』に登場する「九しやう大王」、『諸寺略記』の「九頭一尾の鬼」などをあげており、紅葉の物語が作られる前提となった材料が存在していたことを指摘している。
しかしながら、『戸隠山絵巻』は謡曲『紅葉狩』の影響下にあることはすでに大島由紀夫氏が「『戸隠山絵巻』考」(『伝承文学研究』昭和62年7月)で指摘している通りで、謡曲が先行し、その後の紅葉狩伝承の起点となっている。
山岳修験道にまつわる鬼神の存在は、山という霊域としての磁場のなかで霊力を発揮し、仏教的な修行の場であると同時に戒律を破るべく、人を死へと至らしめる誘惑を秘めた異界の存在として立ち現われる。現実と幻想との間にあるこの異界こそが、鬼神退治諄という体制側の規範、勝者と敗者とを分けた歴史の物語性のなかに虚構性と伝承性を保ちつつ、鬼女の物語として現実世界に定着していくのである。
研究発表会
平成23年1月22日東洋大学白山校舎6302教室
古代北方社会における血の復讐と死生観―サガ・イヌイット伝承・カレワラ・アイヌ伝承―
中里 巧 研究所長
〔発表要旨〕古代アイスランド社会における血の復讐は、「聖なる義務」であった。「血の復讐」という概念は、狭義には、アイスランド古法『グラウガス』や一群のアイスランド=サガ作品のうちに見いだすことができる言葉である。カナダイヌイットにおけるアタナルユアトAtanarjuat伝説は、長兄を殺した者に対する復讐の物語である。医師・効民俗学者・文献学者であったエリアス=リョンロット(Elias Lonnrot 1802ー1884)が、フィンランド各地で収集した神話や民話を含む口頭伝承民謡を編纂した民族叙事詩である『カレワラ』 kalevalaにも、第31〜33章クッレルポの復讐などの復讐物語が散見される。さらに、金田一京助採集・訳『アイヌ叙事詩―ユーカラー』には、英雄のユーカラとして「虎杖丸(いたどりまる)の曲」が所収されている。「虎杖丸の曲」は、部族間の復讐物語であり、アイヌ文化における復讐概念を調べるとき、中核となるテキストの1つである。こうした広義の血讐と死生観や葬制儀礼の関連について、これまでの調査をとおして発表する。
古代アイスランド社会における血の復讐の要点は、復讐の連鎖が無限にいたり古代社会の安定そのものを壊しかねない恐れが多分にあったということである。サガ・イヌイット伝承・カレワラ・アイヌ伝承を相互に比較してみて、古代アイスランド社会における血の復讐は、復讐の連鎖が持続するないしは悪無限化する事例として、むしろ特異である。キリスト教移行後、中世アイスランド社会において血の復讐をおこなうことは禁止され、国王が一括して代理報復をおこなうように改められた。問題はしかしながら、そのような改革や手続きは、たんにうわべだけのことであつて、復讐はより陰湿に社会の裏側において私的制裁ないしは私刑というしかたで、さらに続いていったのではないか、という仕方で、提示できるだろう。また、素朴な疑間として、そもそもいつたいなぜ、古代アイスランド社会さらには北方ゲルマン社会においてこうした特異な血の復讐が、そもそも起こってきたのかと、間うことができるだろう。
カナダイヌイットにおけるアタナルユアト伝説は、弟が兄を殺した者たちに制裁を加えることによって、兄を殺した者たちに2度と平和を乱すことをしないという約束をさせて、さらにシャーマン儀礼をとおして悪霊を追い払うことによって、大団円を迎えている。『カレワラ』におけるクッレルポの復讐は、復讐を果たした後、クッレルポ自身が自殺することによって終結する。自殺による終結というこれまた特異な復讐物語ではあるが、自殺による終結によって復讐の連鎖の悪無限化は起こらない。アイヌの「虎杖丸の曲」は、チャシ乱立時代の部族間抗争の英雄諄であり、非道な殺数を含んで入るものの、これもまた復讐の連鎖の悪無限化は生じない。
ただし、イヌイット伝承・カレワラ・アイヌ伝承など、伝承上はたしかに復讐が何らかの仕方で終結しているけれども、意識の深層や神々の世界との関連ではいつたい、この復讐をめぐる構造がどうなっているかということが、さらに疑間として提示できよう。