明治期における近代化と〈東洋的なもの〉
明治期における近代化と〈東洋的なもの〉
本研究は、東洋大学研究所プロジェクトの研究である。
研究目的
(1)明治期日本に西洋文化の導入によって新しく現われたものを、思想・宗教・文学・歴史・経済の各領域に即して研究し、〈東洋的なもの〉の特徴を取り出す。
(2)このようにして取り出された特徴を踏まえて、〈東洋的なもの〉の可能性を考察する。
研究組織
研究分担者 役割分担
末次 弘 研究員 研究総括・倫理思想領域の研究
竹内 清己 研究員 文学領域の研究
吉田 公平 研究員 儒教領域の研究
竹村 牧男 研究員 仏教領域の研究
白川部 達夫 研究員 歴史領域の研究
穐本 洋哉 研究員 経済領域の研究
田峙 國彦 客員研究員 明治期における仏教と倫理思想との関係性
前原 有美子 客員研究員 明治期女性論における西欧近代思想と〈東洋的なもの〉
渡違 郁子 客員研究員 井上円了と全体性の哲学
本研究は、上記目的達成のため、各研究員の個人としての研究調査・文献研究を進めると同時に、研究会・公開講演会における研究成果を発表や討論をする中で、異なる課題の相互理解を深めていった。研究計画の最終年度にあたる本年度は、明治期を研究する代表的な学外研究者を招いて公開講演会を開催し、講演会における討論をもとに、各研究者が担当分野における考察を深めた。また、3年間の研究成果の発表として研究会を開催し、発表と討議において相互の研究内容の確認と意見の交換、様々な指摘がなされた。そしてこの研究発表と討論を元に、かつ統一テーマとの関連を明確にしながら、各研究者が論文を執筆し、また、3年間の間に行われた公開講演会の記録と併せて、研究報告書をまとめた。研究報告書は280頁強になる。今年度の研究会については、本研究プロジェクトのメンバーが集まり、次の通り行われた。
研究会 平成18年9月10日午後1時〜午後7時東洋大学白山校舎文学部会議室
研究報告 テーマ「井上円了の哲学と全体性――相含説をめぐって」報告者 渡邊 郁子 客員研究員
研究報告テーマ「清沢満之における無限と外部性――今村仁司氏の理解と結びつけて」発表者 田時 國彦 客員研究員
研究報告テーマ「日本農業の近代化――継承と変容――」発表者 穐本 洋哉 研究員
研究報告テーマ「近代の陽明学運動」発表者 吉田 公平 研究員
研究報告テーマ「明治期における倫理思想」発表者 末次 弘 研究員
研究報告テーマ「日本の近代化と土地均分論」発表者 白川部 達夫 研究員
研究報告テーマ「詩の別れ――新国学と明治文学との相渉一面」発表者 竹内 清己 研究員
また、7月22日には奥田晴樹・金沢大学教授を講演者に招いての公開講演会を開催した。概要は以下の通りである。
公開講演会
平成18年7月22日東洋大学白山校舎6307教室
明治憲法制定の歴史的背景
奥田 晴樹・金沢大学教育学部教授
文政8年(1825)2月、徳川幕府は異国船打払令を発し、頻々と来航する欧米船舶の排撃を指示した。勤仕する水戸藩領でも深刻な事態となっていた異国船来航問題に重大な危機感を抱いた、正志斎会沢安は、翌3月、「新論」をまとめた。同書は、来航する異国船から守らなければならない「国体」の何たるかを説き、そのための政治、そして精神改革の必要を提起した。天保10年(1839)11月に始まったアヘン戦争は、幕府に異国船打払令を撤回させる一方、海防強化のために諸藩や民衆に新たな負担を求める論理を模索せしめた。それは、嘉永6年(1853)6月のペリー来航後、「四民共力」政策として具現した。しかし、身分制を前提とし、反対給付を随伴しない「四民共力」の掛け声では、海防強化はもとより、幕府権力への依頼調達は到底覚束なかった。
万延元年(1860)3月の桜田門外の変後、当時情報の質量で他を凌駕していた幕府周辺の洋学者の間で、「四民共力」を真に実現する政治や社会経済の改革が探究され始めた。それは、文久元年(1861)12月にまとめられた加藤弘蔵(のち弘之)「最新論」(のち改稿し「郊卿」と改題)と神田孝平(のち孝平)「農商弁」として結実した。加藤は「上下分権」(のち君民同治)の立憲政体、神田は経済と財政の基盤を商工業におく市場経済の導入を提議した。当時、幕府の文久遣欧使節の一員として渡欧の途上にあった福沢論吉も、欧州での見間を基礎に、慶応元年(1865)8月頃から執筆を開始した写本「西洋事情」、とりわけそこでの「文明の政治」の基本認識を形成したものと見られる。
加藤に、会沢の「新論」を強く意識した「最新論」の構成を隣国・清の政治改革論に変え、「鄰艸」と改題させることとなる意見を述べた西周助(のち周)と津田真一郎(のち真道)は、オランダ留学からの帰国直後、慶応3年(1867)10月の大政奉還に遭遇した。徳川慶喜は、彼らの献策を容れて「公議政体」構想を持して、薩長両藩などの討幕派に対抗した。この「公議政体」構想は、加藤の立憲政体導入構想の政治的軟着陸案だったと見てよかろう。それは、加藤の「最新論」同様、諸藩の存続を許容したものだった。しかし、福沢は、それに先立つ慶応2年(1866)11月の時点で、廃藩を前提とした「大君のモナルキ」を構想していた。これは、丸山真男が誤読したような徳川絶対主義(主君独裁」)ではなく、イギリスを手本とした、加藤の「上下分権」に相当する「立君定律」の政治態様だった。ここに、幕末における立憲政体導入構想の思想的到達点が認められる。
慶応4年(1868)間4月に制定された明治新政府における最初の国家組織法は、会沢の万邦無比の「国体」ではなく、加藤の万国普遍の「政体」の語を選択して、「政体書」として定められた。こうして発足した太政官政府は、明治5年(1872)5月、左院の建議を容れて「下議院」開設の法制化を決定したが、明治6年(1873)5―10月政変に向かう政局の変動で棚上げとなってしまう。しかし、10月政変の翌11月には、政変勃発の一因に国家組織を規律する憲法の欠如が認識され、その定立を企てて政体取調が着手される。そこでは、大久保利通の上院単独開設案と木戸孝允の上下両院併設案が対峙していた。ここに、明治7年(1874)1月に提出された下野参議らの「民選議院設立建白書」が、その当然の前提たるべき憲法でも、国会でもなく、いきなり下院開設要求であった、政治的意味があろう。明治7年の佐賀の乱から台湾出兵、そして北京談判に至る政治的激動は、明治8年(1875)2月の大阪会議で収拾され、中断していた政体取調が再開されて、同4月の「漸次立憲政体樹立の詔」の決発をみ、ここに立憲政体の導入が国家意思として確定されたのである。明治5年以降、国民教化の担い手として組織された教導職の説教テキストには、″啓蒙”の言説の影響が、肯定・否定の両面で認められる。加藤は、国体論に立ち立憲政体の導入を拒否する説教テキストを前に、立憲政体こそ万国普遍の真の「国体」なり、と説く「国体新論」を明治6年に著述し、明治8年に公刊した。一方、そこには、万国普遍の「国体」を各国実際の「政体」の上位概念と認める論理が登場している。それは、後年の穂積八束の憲法学説で、国史貫通の「国体」と各時代相応の「政体」へと換骨奪胎される発想の原型と見てよかろう。その発想はまた、説教テキストの中にその片鱗を見え隠れさせていたものでもあった。ここに、立憲政体導入の国家意思確定化を囲続する思想的条件の一端を垣間見ることができよう。