2009年度 公開講演会 発表報告
開催日:2009年12月5日 場所:東洋大学白山キャンパス6301教室
2009年度 公開講演会 発表報告
開催日:2009年12月5日 場所:東洋大学白山キャンパス6301教室
漢詩人岡本黄石の生涯―その詩業と交友―
講演者:武田庸二郎・世田谷区立郷土資料館学芸員
〔講演要旨〕
岡本黄石は、政局の混迷を極めた幕末維新期に彦根藩の家老として活躍した人物である。備中松山藩の儒学者で黄石とも親交の深かった川田甕江は、かつて京都で梁川星巌に面会した時、「あなたの門下生のうちで詩をつくるのがうまい人は誰ですか」と星巌に質問した。星巌はこれに答えて「奇を諄せ、巧を弄するは其の人少なからず。若し夫れ忠厚側但、君を愛し、国を憂え、三百篇の遺意を得る者は其れ唯だ彦根藩岡本大夫か」と述べたという。「三百篇」とは、四書五経の1つ『詩経』を指す。『論語』には「詩経三百篇の中には、当時の為政者(あるいは人情・風俗)を褒めたものがあり、誹るものもある。言う所はそれぞれ異なるけれども、国を憂え、俗を痛む偽りのない気持ちから出た言葉で、些かの粉飾もない。故に、詩経は思い邪なしの一言で言い尽くせる。」といった趣旨のことが書かれている。星巌は、『論語』が説く如く、詩というものが美辞麗句を並べた絵空事ではなく、これにより人を教化・育成し、政治が正しく行われるよう導くものでなければならないと弟子たちに指導した。そして、こうした自らの考えを忠実に受け継いだのは、門人数多くあれど、岡本黄石しかいないというのである。国の為、藩の為を思い、国事に奔走したにも拘わらず、何ら報われることもなく政界から身を引いた黄石は、残りの半生を在野の一漢詩人として後進の育成に当たった。そして、その門からは、日下部鳴鶴、巌谷一六、比田井天来、増村朴斎、田辺松披といった一流の芸術家、教育者が輩出した。それは黄石の薫陶宜しきを得た結果であり、彼が星巌の言葉通り、真に「三百篇の遺意を得る者」であったことを証明している。
また、西洋文明の流入によって漢学不要論が盛んに叫ばれる中、中村正直、川田甕江、三島中洲といった彼の盟友たちとともに衰微しつつあった斯学を支え続けたのであった。因みに、以下の詩は哲学館に漢学専修科が新設された明治30年、岡本黄石が賦して井上円了に贈った七言律詩(原漢文)である。
漢学講義録に題す。哲学館主井上文学博士の嘱。
百年斯道 式微の時/振い起ちて誰か能く独力もて支えん/緯地経天
正気を存じ/肴仁飯義 良知を養う/上聖を師模して始めて本を開き/迪を後人に啓いて終に基を定む/都鄙 今より斉しく益を受く/要ず看ん 済世の偉男児
一般に仏教哲学者・英学者として知られる井上円了も、当時の斯学を支えるに功があった。黄石はそうした円了のことを頼もしく思い、暖かい眼で見守ったのであった。