2001年度 公開講演会 発表報告
開催日:2002年3月10日
2001年度 公開講演会 発表報告
開催日:2002年3月10日
親鸞における宿業
講演者:佐藤 正英 教授 (共立女子大学)
宿業は仏教における基本概念の1つであるが、親鸞の場合は唯円『歎異抄』に伝承されている言葉から宿業をめぐる独自の思念を窺うことができる。
「異義条々」第3条(蓮如本『歎異抄』第13条)は本願ぼこりの異義をめぐる論議であるが、この条には宿業にふれた親鸞の言葉が3つ引用されている。短いがいずれも含蓄に富んでいて、解釈は容易でなく、本文の論脈にそって精密に行わなくてはならない。
第1の言葉は「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」である。
宿業は前生以前における自己の業(カルマ)つまり行為をさす。行為は身業・口業・意業から成る。現生における自己の悪なる行為は、大小を問わず全て自己の前生以前の行為の応報である。念仏者はそのことを知らなくてはならないと親鸞はいう。悪とは貪欲・瞋恚・愚痴・無慚・無愧を伴う在りようであり、従って世俗世界における私たちの行為はすべて悪なる行為である。
世俗世界における行為は私たちには近代市民社会の道徳にかなったよい行為もあればそれに反した悪い行為もあり、自発的意志に基づく自己の能動的な在りようであると考えられているが、ここで親鸞が語っているのは、仏教の基本にどこまでも忠実な捉え方である。世俗世界における自己の行為は世俗世界の道徳にかかわりなくすべて悪なる行為であり、前生以前の行為との因果関係にあるのが真にして実なる在りようであるが、それは仏の眼差にのみ映っている在りようであって、私たちには知れない、と親鸞はいう。
第2は「わが心のよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも100人、1000人をころすこともあるべし」という言葉である。自己が今・此処で他者を殺害しないという在りようをもっているのは、自己の心つまり意業が善つまり無貪・無瞋・無痴・慚・愧を伴う在りようであるからではない。自己の意業は善であると私たちが思っていても必ずしも善でないことがあること、たとえ善であるとしても善業と悪業との因果関係は私たちの思念を越えたところがあること、さらに今・此処で他者を殺害することが、世俗道徳からすれば悪であるとしても、仏の眼差からすれば必ずしも悪とはいいきれないこと、の3つの理由によってである、と親鸞はいう。
第3は「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひをもすべし」という言葉である。
親鸞における宿業は、私たちを運命論的な無気力に導くものではなく、「いかなるふるまひをもす」る自己の冥さに出会わしめる概念である。