平成24年11月17日 東洋大学白山校舎6201教室
平成24年11月17日 東洋大学白山校舎6201教室
ネワール仏教の仏像開眼儀礼
――ダシャカルマ・プラティシュターについて――
藤森 晶子 院生研究員
(発表要旨)ネパールのカトマンドゥ盆地に古くから住むネワール人により信仰されているネワール仏教では、寺院の仏像を塗り替える際、または新たに仏像を安置する際に、「ダシャカルマ・プラティシュター」(daśakarmapratiṣṭhā以下DP)という儀礼が行われている。ダシャカルマ・プラティシュターは、ネワール仏教徒の人々が行なう10種の通過儀礼であるダシャカルマとプラティシュターが組み合わされたものである。11・12世紀頃にネワール人僧クラダッタにより記された『クリヤーサングラハ・パンジカー』Kriyāsaṃgrahapañjikā「尊像などへのプラティシュター」pratimādipratiṣṭḥāにはdaśakriyāという10種の通過儀礼と九種の灌頂について述べられており、現在のネワール仏教のプラティシュターはこの儀軌の影響を受けていると考えられている。
本発表では発表者が観察した2011年2月11日、12日の2日間、カトマンドゥ市のテク(Take)地区にあるブッダバリ・バハBuddhavarīBahā寺院の本尊、燃灯仏に対する12年に1度の塗り替え行事の際に行われたDP を取り上げてその次第と特色を報告した。この儀礼ではネワール族の少女の通過儀礼の1つであり、ベルの実を使った神との儀礼的な結婚である「イヒ」も同時に行われた。
1日目は、ネパール仏教儀礼に見られる基本的な儀礼を組み合わせて僧を聖化させ儀礼の場の結界などの準備的儀礼を行った後、ダシャカルマの誕生式から還俗式までの8種の儀礼が行われた。誕生式により新しく仏を誕生させた後、命名式やお食い初めなどを行う。更に剃髪式により仏を比丘とさせたのち還俗式を経て仏を還俗させ1日目が終わる。
2日目は、イヒを受ける少女と仏に対し牛乳などの五甘露などによ
り灌頂を行ったのち、イヒの少女とベルの実、金剛界自在女と仏の結婚式を行う。更にDP の中心である本尊へのプラティシュターにより仏の魂入れを行い、その後、宝冠や金剛杵などを用いて8種の灌頂を行い儀礼は終了する。この8種の灌頂はネワール仏教のヴァジュラーチャーリヤのみが受けるネワール仏教の金剛阿闍梨の資格を得るための灌頂に含まれているものと同様である。以上のような次第をもつDPでは「ダシャカルマ」という10項目の通過儀礼により仏を人間と同じように見なし成長させ、その後ネワール仏教僧と同様の8種の「灌頂」を行うことで金剛乗へ入門させ聖化される。
基撰とされる『金剛般若経賛述』の仏身論
林 香奈 奨励研究員
(発表要旨)慈恩大師基が撰述したとされる著作の中に、『金剛般若経』の注釈書である『金剛般若経賛述』がある。基には『金剛般若経』関連の著作として、『賛述』のほかに『金剛般若論会釈』と『玄記』の3部があったとされ、『賛述』と『会釈』の2部が現存しているが、いずれも偽撰が疑われている。しかし、先行研究でも詳細な検討はなされていないため、本発表では『賛述』の真偽を考察した。
『賛述』の記述は簡潔で、やや意味が不明瞭な部分もあるが、基の思想と一致する箇所も多く見られる。いくつか例を挙げれば、『賛述』では法相宗特有の三時教判を用いており、その説明の一部は基の『大乗法苑義林章』と同文である。また、一乗の解釈についても『義林章』や『法華玄賛』で見られる基の解釈と一致するほか、科分でも基と同様に、玄奘訳『仏地経論』に従った用語を用いている。
『賛述』の成立時期については、文中に太宗(在位629―646年)を「先帝」と表現する箇所があることから、これを信頼するならば高宗(在位649―683年)の時代、すなわち基の在世中に執筆されたことになる。仮にこれを疑うとしても、義浄が訳出した『能断金剛般若経』に言及していないことから、基の没後間もない時期の成立である可能性が高い。また、基は菩提心を起こす条件として、「十徳」という独自の項目を挙げるが、『賛述』にはこの十徳に関して、基の著作よりも詳しい記述がある。さらに、『法華玄賛』と基の弟子である慧沼の『金光明最勝王経疏』にのみ見られるたとえが、『賛述』でも用いられている。『賛述』には基の著作と比べると内容的に整理されていない部分も散見され、基の真撰とは判じがたいが、筆者は『賛述』の著者が基と非常に近しい関係にあり、『賛述』は『勝鬘経述記』のように基の講義録だった可能性もあるのではないかと考えている。
『賛述』では仏身論においても、基の立場との類似性を見ることができる。法身を理、報身を智とする箇所は、基の著作における自受用身と四智との関係を彷彿とさせる。ただし、『賛述』では四身説が用いられず、自受用身、他受用身、変化身といった用語も見られない。もともと『金剛般若経』では法身に焦点が置かれているため、極めて不自然とは言えないかもしれないが、真偽問題と合わせて考える時には注意を要するであろう。『賛述』には浄土に関する記述もあるが、基と同時期に活躍した善導の指方立相を批判しているように思われる内容であり、その点は『義林章』などに通じるものがある。