平成15年1月22日
平成15年1月22日
釈尊の雨安居地
岩井 昌悟 研究員
釈尊は成道してから入滅するまでに45回の雨安居を過ごしている。釈尊が何年めの雨安居を何処で過ごしたかが明らかになるならば、釈尊の生涯、特にその遊行教化の生活についてわかってくることも少なくないであろう。
釈尊が何年目の雨期を何処で過ごしたか、または、年次に言及せずに釈尊が何処で何回の雨安居を過ごしたかを伝える伝承(以降「雨安居地伝承」)が存在する。この伝承についてはすでに以前から知られていて先学による研究もあるが、紹介と整理に留まっており、その資料的価値を定めるには至っていない。
雨安居地伝承を伝える文献には、年次の情報とともに雨安居地を示すものとしてはパーリの『マノーラタプーラニー』(アングッタラ・二カーヤ・アッタカター)」、「マドゥラッタヴィラーシ二ー」(ブッダヴァンサ・アッタカター)と漢訳資料の『僧伽羅刹所集経』などがある。雨安居の回数のみの伝承を記す文献には『八大霊塔名号経』とプトンの『仏教史』などがある。文献によって細部が多少異なるが、全体的には一致が見られるので、相互にまったく無関係に成立したものとは見がたい。しかし、雨安居地伝承は原始仏教聖典(パーリのニカーヤと律、及び、漢訳の諸阿含経と諸律)の中には言及されず、後世の注釈書などの文献のみに伝えられているため、単純に考えればそれほど古く遡れる伝承ではない。この伝承の資料的価値を決定するには伝承の根拠の解明が必要である。
雨安居地伝承が原始仏教聖典中の記述を根拠にして形成されたのではないかという仮説から出発し、まず原始仏教聖典中に記されている釈尊の雨安居に関する記述を集めてリストを作成し、雨安居地伝承との比較を行った。その結果、年次を示す雨安居地伝承が年次を決定するための根拠が原始仏教聖典中に見出せないこと、雨安居地伝承に挙げられたいくつかの地については原始仏教聖典中にその地で釈尊が雨安居を過ごしたとする記述がないこと、そして、原始仏教聖典中に記された事件を雨安居地伝承が示す年次にしたがって配置すると齟齬が生じるケースがあることなどがわかってきた。これらは、雨安居地伝承が必ずしも原始仏教聖典中の記述に基づいて形成されたものではないことを示している。
しかし、この研究は未だ途中の段階であり、雨安居地伝承の資料的価値を決定するには到っていない。結論を得るためには、原始仏教聖典に記された雨安居地を、パーリと漢訳の対応経典間の異同の問題も含めて、より精密に調査する必要がある。雨安居地伝承がどのようにして形成されるに至ったか、ヴァリェーションを生み出した要因に部派の影響があるのかといった問題にも取り組む必要があろう。
14人のダライ・ラマ
渡邉 郁子 研究員
チベット仏教の特徴のひとつに転生活仏―業による輪廻転生と異なって、化身(活仏)としての生まれ変わり(incarnation)を指す。仏陀のみならず高僧をも化身(活仏)と見倣す―がある。特に、14世紀以降のチベットにおいては転生活仏制をとって社会システムの一環として積極的に受け入れてきた。761年の仏教の国教化以来、9世紀には「1人前の僧には七戸の奴婢が与えられる」という記述が示すとおり、僧とは生活や地位などを確実に保証する身分とされ、教団はその拡大により、チベット社会のあらゆる面での中心になっていった。
11世紀頃には教団の多くは、それを支える有力な施主と結びついて、特定の氏族に属する、「氏族教団」となった。更に、利権をめぐる教団への氏族の介入で、形の上では師資承襲をとった“おじ・甥相続”による教団経営が行われた。これは教団の活性化にはつながらず、より優れた僧を輩出するのに有益だったのは、14世紀頃からカルマ派に始まる、僧主導の転生活仏制よる相続であった。諸氏族教団間の抗争に対する策として、16世紀にゲルク派はこの制度を採用し、4代目のソナム・ギャンツォ(1543―88、ダライ・ラマ3世)を活仏に選んだ。彼が1578年青海でアルタン・ハーンから、”ダライ・ラマ“(モンゴル語ターレイは「海(ギャンツォ)」)の称号を受けて、ダライ・ラマ制が成立した。以来、現在までに14人のダライ・ラマを誕生させた。ダライ・ラマ4世は唯一のモンゴル人ユンテン・ギャンツォ(1589―1617)。5世カワン・ロサン・ギャンツォ(161―82)は、明の支配のなかグシ・ハーンより、チベットの聖俗の全権を譲り受けた。ここにダライ・ラマ政権が成立した。
本発表では、ダライ・ラマ制とその政権成立にみる内外の政治的絡みからチベット仏教の1つの姿を明らかにするために、ダライ・ラマ4世を取り上げた。4世については、従来の諸研究ではあまり紹介されず、多田等観著『チベット』でも「特に記すべきことはない」とされる。28歳で亡くなり著作もわずかで、その生涯については知られるところが少いが、5世の著作によってはいくつか興味深いことが明らかになった。I転生者探し①委員会の設置②2回の神降しによる神託③受胎時の不思議な夢④居住地の周辺の奇瑞⑤誕生した赤ん坊の特徴、Ⅱ転生者の選定⑥家系⑦選定のテストと第4世襲名、Ⅲモンゴルでの準備教育開始⑨モンゴルからチベットヘの旅、Ⅳ内外政治との関係⑩モンゴルをも巻き込んだ、ゲルク派とカルマ派の抗争に巻き込まれていく⑪28歳の死(スネルグローヴは毒殺と見ている)など。4世の生涯を通して、ダライ・ラマとは、ひとつには聖と俗の抗争の中にあって両者のバランスを取る役割を果たすものと考えられる。本発表で十分扱えなかった点は別の機会に行いたい。