平成11年12月18日
平成11年12月18日
理性の終焉とその後
丁 海昌 客員研究員
哲学者たちは、理性という概念をめぐって展開された伝統的なロゴス中心思想の妥当性を扱う主題として、「哲学の終わり(the end of phi-losophy)」という言葉を用いる。哲学はいま、過去に記録されたと同様に、またしても転換期を迎えているのである。もっとも今回の変移の特徴について見解は分かれるであろう。哲学の役割を問う現代の議論は、異分野に日配りする監督者としての、また文化の功罪を断ずる法廷の判事役としての理性を探ることから始まる。人間は自己のおかれた周囲の状況を幾度となく反省しながら、以下に列挙するものにより形成されてきた哲学の、輝かしくも長い歴史の最後となる細道をたどっているのである。すなわち、プラトン以来つねに哲学を先導してきた理性、理性を宿している人間、究極的には理性の権化とも言うべき合理性、がそれである。しかしながら、長きにわたり受け入れられ、支配的であった人間の観念―合理性と自由意志をもって自己意識する存在、自然を征服しうる存在―の観念が消え去ってしまったら、いったい人間には何が残されているのであろうか。
いまわれわれに必要とされるのは、啓発的哲学(edifying philosophy)の典型ともいうべきソクラテスが提示しているように、別の視点にたって理性をもう1度活き活きと理解し直すことである。必要とされるのは、非常に厳密な秩序の内ではたらく有機的全体なのではなく、非常に異なり対立する諸要素に介在する過程の目的として形成された全体の概念である。
対話を通じての啓発的哲学者の代表者で、アイロニーの実践者であり、自己創出の活発な源泉であったソクラテスは、連帯の共同体への社会的な希望の化身である。おそらく理性は、ソクラテスによって示されるように、異なった観点で理解されるべきであろう。また、死が生と関連していて、実存や死の衝撃や非合理性が生と合理性に依存していることを知ることは、理性の概念を再び活き活きとするために必要である。理性をハイデガーが言うような「思想の最も頑強な敵対者」と見ず、論証できないものを包含する機能として広範囲に理解し、また反対の事例もまた生じることを知る力のうちに理性を理解することにおいて、われわれは理性を再構成する可能性を見る。