平成16年6月12日 東洋大学白山校舎1205教室
平成16年6月12日 東洋大学白山校舎1205教室
古典インドにおける酒の弊害
沼田 一郎 研究員
〔発表要旨〕古代インドにおいて、アルコール飲料すなわち酒の摂取は一般的に行われていた。しかし、現存する宗教文献において、それを消極的にでも推奨した例は僅少である。西暦紀元前後頃に成立した『マヌ法典』は、古代インドにおける生活規範のスタンダードを確立したが、そこでは飲酒に関は「五大罪」の1つに数えられている。このような罪の類型化は「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』に初出する由来の古いものであると同時に、仏教の四波羅夷・五戒との共通性を指摘することもできるであろう。
「マヌ』全12章の中でも、第7章は王の職務あるいは日常生活の規定を集成したものである。その中で、酒は王に災いをもたらすものとして強く忌避されている。賭博、女、狩猟、暴力、言葉の暴力財物の奪取と並んで最も忌むべきものとされている。
カウティリヤ『実利論』には、酒の弊害について以下の項目が述べられている。
知覚の喪失、狂人のようになる、陰部の露出、学識・智慧・生気・財産・友人を失う、立派な人々と離れ有害な者と交際する、財産の浪費、楽器や歌への熱中。
仏教文献においては「飲酒」は5戒の中に含まれる。この点では『大智度論』第13巻がよく知られているが、5戒のそれぞれについて具体的な比喩譚をまじえつつ解説する中で特に飲酒については詳細に言及している。その具体的な弊害として『智度論』は35の項目を列挙するが、その冒頭の6項目は原始仏典『シンガーラの教え』のに言及されるものをそのまま継承している。そして、これらは『実利論』の記述ときわめて類似しているのである。
禁酒という普遍的なテーマであるから正統異端の区別を超えたある程度の一致は当然であるということだけではないように思われる。インドの宗教者の間で共有されていた酒に対する認識が、このような場面で現れているのではないだろうか。
仏教はどのようにして仏教になったか
森 章司 研究所長
〔発表要旨〕釈尊がその悟りの内容を説き始められた文字通り最初期の仏教は、その生活面においては必ずしも仏教らしさを打ち出していたわけではなかった。要するに今ではBrahmanismと呼ばれる宗教に属する修行者も、あるいはshramanismと呼ばれる宗教に属する修行者も思い思いに、衣においては真っ裸でいたり、上半身裸であったり、あるいはぼろ布をつけていたり、樹皮や獣の皮を着けていたり、頭は剃ったり、螺髻にしたり、伸ばし放題にしたり、食においては乞食したり、落ちている果実を拾って食べたり、畑でとれるものは食べなかったり、あるいは午前中に食事をしたり、あるいは夕方に食事をしたり、住においては樹下に住んだり、郊外の閑静な場所に集まってそれぞれが草屋を建てて住んだり、あるいは夫婦で隠居生活のような生活をしたり、あるいは苦行的な生活をしたりして、区々さまざまであった。したがって最初のころは姿形を見ただけでは、どの宗教の修行者という区別はつかなかった。例えば32相の中の肉髻相から想像されるように、釈尊も最初は剃髪せずに螺髻にされていたかも知れない。
しかし律蔵に規定された仏教の修行者像は、麻・綿・絹・麻・ウールなどで作られた黄色いこざっばりした衣を着、乞食やお呼ばれなどさまざまな方法で食を得て午前中に済ませ、僧院で集団生活し、頭を剃って、多くは鉄で作った鉢を持ち、四依法的な苦行的生活は単なる努力目標ないしは頭陀行としての特殊な修行とされるようになった。いわば摩訶迦葉のような修行者は仏教サンガの中では異色となった。
これに対してバラモンの修行者は林住期と遊行期に分かれ、前者は樹皮で作った上衣と多くは鹿皮で作った外衣を着、頭は螺髻にして、アーシュラマに集まってそれぞれが草屋を造って、隠居生活のような生活を営み、後者はまさしく一処不定の生活で夕方に乞食し、糞掃衣を着て、樹下に住み、頭を短髪あるいは頂髪にしていた。彼らは自然のままの木の枝を杖とし、瓢箪や木で作った鉢を持ち、水瓶を持ち、物を天秤棒のようにして運んだ。
またジャイナ教の修行者は髪の毛をむしり取ったから、頭はもやもやとしていたし、裸であり、極めて厳格な禁欲的生活方法を取った。
このように律蔵が作られたころには、一目でこれは仏教の修行者、これはバラモン教の修行者、これはジャイナ教の修行者というふうに見分けられるようになった。これは互いに他を意識しながら、差別化が図られた結果である。
仏教は苦行と楽行を捨てて中道の道を選び取ったが、苦行とはいわば遊行期のバラモンやジャイナ教的な生活あるいは修行方法であり、楽行とはバラモンの林住期的な生活方法を指したものではないかと考えられる。このように徐々に仏教は仏教らしくなっていったのである。