令和7年10月18日(土) オンライン(Google Meet)
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近世期における入院関係儀礼と禅宗清規
金子 奈央 客員研究員
今回の発表では、中国・日本撰述の諸清規・関連文献と比較しながら、鳳林承章の日記『隔蓂記』に記される三名の新命住持の入院関連儀礼の事例から、「公帖」にかかわる儀礼、住持交代儀礼の復興に着目した。
取り上げる事例は、17世紀に入院した①覚雲顕吉、②雪岩(厳)梵寅、③春葩宗全の3名である。『隔蓂記』の記載によれば、入院関係儀礼は、「公帖開帖」と「入院・開堂(上堂)」の儀礼の日が別日となっている。
中国撰述の禅宗諸清規では、公権力からの辞令である「勅黄」や「帖」について、開堂上堂時の「公帖」類の薫香・法語・宣読について多くが記している。
そのうち、『叢林校定清規総要』には、「勅黄を捧げ持った專使の到着を待って、仏殿に勅黄を据え、勅使とあわせて皇帝に感謝を捧げる儀を行う」[『続蔵』63:598b.16-21]という記述があり、近世期曹洞宗の学僧である面山瑞方の「日本ノ今時ハ、将軍ノ釣帖ハ勅命ト同ジ、ユヘニ釣差ノ寺ハ、右ヲ少シ改換シテ、其ノ式アルベシ、…」[『曹洞宗全書 清規』:203(85)上段.8-9]という指摘があることから、これが日本の禅林における公帖儀礼のモデルとなったと考えられる。
日本成立の諸清規・関連文献においては、蘭渓道隆の「常楽寺法語」以降、開堂上堂時の公帖の薫香・法語・宣読は基本的に受容されている。一方、新命住持の「公帖開帖」儀礼が明確に示されるのは、15世紀末頃の成立とされる『略清規』、『南禅清規』「入院雑記」における15世紀末の金渓梵鐸の南禅寺昇住の際の記録であり、おそらくは中世の五山制度下における入院の次第を反映した可能性がある。取り上げた3事例の公帖開帖儀礼は、上記二清規に記された次第に近い。
取り上げた3事例のうち、③春葩宗全の「入寺開帖」においては「住持交代立香」が復興したと『隔蓂記』には記される。
『勅修百丈清規』には前住持と新命住持との交代儀礼が記されており、無著道忠も『庯峭餘禄』第1巻「入院」内にて「交承之禮」として考証している。無著は前住持と新命住持とが立ち位置を入れ替える役職交代の次第と同様の儀礼としてこれについて触れ、14世紀に活動した相国寺の空谷明應和尚と太清宗渭東堂を事例として取り上げている[『庯峭餘禄』(中文出版社、1977/1986年):1108]。この儀礼は、15世紀半ばの講義録『百丈清規雲桃抄』にも確認でき、上記した『勅修百丈清規』の解説に加えて、「今日本有退居寮 新命与東堂交代礼、空谷和尚 再住相国太清在東堂、交代行礼」[『百丈清規雲桃抄』:212(二.31ウ)]という書込があり、相国寺第2世であった空谷明應の再住の際、前住の太清宗渭と交代儀礼が行われたと記録がある。
『隔蓂記』には、上記した「住持交代儀礼」の復興や、相国寺における百丈忌の開始などの記事が確認できる。こうした動きの背景には、鳳林承章の儀礼や清規に対する厳格な態度の他、元和元年(1615)「五山十刹諸山法度」・寛文5年(1665)「諸宗寺院法度」において幕府から求められていた「先規」遵守の姿勢の浸透も関わっているのかもしれない。
能海寛請来のチベット語文献について
渡辺 章悟 客員研究員
今回の発表は、能海寛の生涯と彼が将来したチベット語文献についての研究報告である。能海寛は師である南条文雄の意を受け、日本人として初めてチベットに入蔵し、チベット仏教を日本に知らしめようとしたアドベンチャーである。しかし、彼は不幸にして志半ばでかの地で消息を絶ち、帰国を果たせなかった。そのため、同時期にチベットに入国し、多くの成果をもたらした河口慧海や寺本婉雅に対して、ほぼ世間に知られることなく、研究されることもなかったが、近年出身地の島根県金城町を拠点として能海寛研究会が結成され、能海寛の1次資料やそれら資料の整理がすすみ、研究が着実に進められてきた。
筆者はかねてより哲学館の草創期の仏教学の先駆者として能海寛に興味を持ち、その生涯と当時のチベット仏教の研究を目指していたが、これまで本業とするインド大乗仏教の研究と直接かかわることがないため、なかなか研究を開始するまでには至らなかった。
しかし、ようやく研究環境が整ったこともあり、能海と彼が日本に送り届けたチベットの文物について、研究する機会に恵まれた。能海の重要性は、彼が日本で初めてツォンカパ伝やポン教の研究を行った先駆者であることだが、そればかりではない。
能海は中国やチベットの周辺からチベット仏典を入手し、それを日本に送っていたが、それらは、主に能海の故郷である島根県浜田市の金城歴史民俗資料館と大谷大学図書館に保管されている。それらの中で、西蔵語訳の『般若心経』、『金剛般若経』、『八千頌般若経』といった般若系統の経典類や、『金光明経』、『賢劫経』といった大乗経典の西蔵語訳写本類は極めて重要であり、資料的価値も高い。しかも能海はこれらの写本のいくつかを研究しており、特に西蔵語訳般若心経の翻訳は、歴史的に初めての日本語訳であり、その他の写本についても、現存する研究こそ残されていないが、その一部は現存する書簡類などから窺い知ることができる。まさに日本人として初めてチベット仏教を本格的に行った人物として重視されるべきでなのある。
筆者は今年度からこの研究を東洋学研究所のプロジェクトの一環として開始しているが、この小論はその中間報告である。