明治期における近代化と〈東洋的なもの〉
明治期における近代化と〈東洋的なもの〉
本研究は、東洋大学学術振興資金による研究所プロジェクトであって、本研究の研究目的は以下の通りである。
(1)思想・宗教・文学・歴史・経済の各領域に即して、明治期日本に西洋文化の導入によって新しく現われたものを研究し、〈東洋的なもの〉の特徴を取り出す。
(2)このようにして取り出された特徴を踏まえて、〈東洋的なもの〉の可能性を考察する。
以上の研究を研究目的とする。この研究組織は次の通りである。
研究分担者 役割分担
末次 弘 研究員 研究総括・倫理思想領域の研究
竹内 清己 研究員 文学領域の研究
吉田 公平 研究員 儒教領域の研究
竹村 牧男 研究員 仏教領域の研究
白川部 達夫 研究員 歴史領域の研究
穐本 洋哉 研究員 経済領域の研究
田崎 國彦 客員研究員 明治期における仏教と倫理思想との関係性
前原 有美子 客員研究員 明治期女性論における西欧近代思想と〈東洋的なもの〉
渡邊 郁子 客員研究員 井上円了と全体性の哲学
本研究は、目的達成のため、各研究員の個人としての研究調査・文献研究を進めると同時に、研究会・公開講演会をとおして、研究成果を発表し、討論をするなかで、異なる課題の理解を深めていった。
昨年度末は竹内研究員が伊勢・松阪に調査を行ったほか、2月16日に研究会を開催し、穐本洋哉研究員(題目:「近代日本農業水利秩序の考察」)、白川部達夫研究員(題目:「自由民権期の土地所有論と均分思想(1)―地租改正段階―」)、前原有美子研究員(題目:「福沢諭吉の「啓蒙期」女性論における近代化と〈東洋的なもの」〉)の3名による発表が行われた。今年度の研究会については次の通り、本研究プロジェクトのメンバーが集まり行われた。
第1回研究会 平成17年5月25日東洋大学白山校舎3204教室
研究報告テーマ「鈴木大拙の「自由」論について」報告者 竹村 牧男 研究員
第2回研究会 平成17年12月10日 東洋大学白山校舎第3会議室
研究報告テーマ「依田鉄之助・『胡蝶の夢』の構成について―土地均分論の歴史的重層」発表者 白川部 達夫 研究員
第3回研究会 平成18年2月12日東洋大学白山校舎文学部会議室
研究報告テーマ「我が国の戦後農業水利秩序について」 発表者 穐本 洋哉 研究員
研究報告テーマ「狩野亨吉の唯物論的倫理学について」 発表者 吉田 公平 研究員
また、6月25日には末次弘研究員の講演と共に、学外から森川輝紀・埼玉大学教授を講演者に招いての公開講演会、12月10日には槇滉二・尾道大学教授を講演者に招いての公開講演会を行い、参会した学内外の研究者との質疑応答のもと、研究交流がなされた。国内出張における研究調査報告と公開講演会の詳細は以下の通りである。
研究調査活動
本居宣長における近代化への志向性に関する調査
竹内 清己 研究員
期間 平成17年2月26日〜2月28日
調査地 松阪・本居宣長記念館、伊勢神宮
松阪
平成16年11月24日、本研究プロジェクトの講演会における講演〈「恋〉から〈恋愛〉へ―国学と近代文学を結ぶ試金石―」で扱った本居宣長の延長線上に、今回の実地調査を行った。宣長の「遺言書」にある所謂両墓制、つまり代々家の信仰である浄土真宗による樹敬寺の墓の確認、これを「空送(カラタビ)」にして本葬された国学者としての山室妙楽寺の奥津城の確認を行つた。さらに「本居宣長記念館」に入館し展示資料・宣長住居鈴屋を調査したあと、生家跡を訪ねた。
伊勢
宣長少年時の数年伊勢の今井国家の養子となった。その折に何度も参拝した神宮の記録に宣長国学の目覚めを見いだす。斎宮の遺跡、外宮、内宮を訪ねた。参宮路を歩行確認した。
帰路、伊勢の一宮、桑名に立ち寄り、国学の再生として読める泉鏡「花歌行燈」の実地踏査を行った。
研究調査活動
教育勅語成立をめぐる井上毅と横井小楠に関する実地・資料調査
末次 弘 研究員
期間 平成17年9月13日〜9月15日
調査地 熊本沼(山津・横井小楠記念館・熊本県立図書館)
教育勅語(明治23年発布)の起草者・井上毅は熊本藩の下級武士の家に生まれたが、早くからその学才が認められ、藩校の給費生に選ばれ、儒学を修める。その後彼は江戸・長崎でフランス学を学び、1871年、政府に出仕し、フランスの法政調査のため渡欧し、帰国後、憲法草案・教育勅語の草案と、重要な役割をした。その彼が22歳の時、横井を沼山津に訪ね、大きな影響を受ける(『沼山対話』)。
13日、12時過ぎ熊本に着き、横井記念館のある沼山津に行く。沼山津は郊外にあって、健軍という電車の終点からさらに20分以上歩かねばならない。着くと月曜日、休館だった。市内に戻り、第5高等学校記念館を訪ねる。
14日、横井記念館に行く。副館長からいろいろ話を聞く。昼すぎ、市内に戻る途中、図書館による。特別新しい資料に出会わなかったが、井上の生家跡に記念の碑があることを教わる。
15日、井上の記念碑をやっと見つける。午後、徳富蘇峰記念館を訪ね、「国民の友」現物の何部かを見ることができた。
研究調査活動
柳田国男、国木田独歩ら新国学運動成立および明治期の文学に関する調査
竹内 清己 研究員
期間 平成17年11月3日〜11月5日
調査地 竜野、福崎(柳田国男・松岡家顕彰会記念館、柳田国男生家他)、姫路
明治30年民友社から刊行されたアンソロジー『抒情詩』に、国木田独歩は「独歩吟」、松岡=柳田国男は「野辺のゆきヽ」を載せた。この2人が小説家と民俗学者にわかれてゆく。独歩の父の故郷は龍野、国男の故郷は福崎、同じく播州ということで姫路を軸にその文化風土を踏査してきた。
福崎駅から歩いて30分、市川という川を越えれば新国学発祥の地と言うべき辻川、辻川の鈴ヶ森神社という播磨風土記に神々の集う聖池と記される森に「柳田国男・松岡家顕彰会記念館」と移築された「柳田国男生家」があった。松岡五人兄弟、すなわち鼎(医者)、泰蔵(養子となった井上通泰・歌人)、国男(養子となった柳田国男)、静男(海軍大佐)、輝夫(松岡映丘・日本画家)を産んだ辻川の里には、国男の『故郷70年』に記された跡が様々にうかがえた。ここをつぶさに歩かなければ知れぬものを体験できた。生家跡地、子供の頃預けられ本を読みまくった「大庄屋三木家」など。近隣に少年期の横光利一の住んだ跡地を知ったのは望外のことだった。
龍野は本竜野駅からやはり20分揖保川を越えてすぐだった。ここは明治象徴派の詩人三木露風の故郷でもある。その遺跡が数々あった。城下町の作まいは感激に値する文化風土であった。辻川の「民俗学の道」同様に、「文学の小径」童「謡の小径」、さらに三木清を産んだこの地は「哲学の小径」を作って人文を大切にしていた。独歩の父国本田専八の屋敷跡(武家資料館の傍ら)が特定されており、さらに常照寺に独歩の祖父国丸の墓を見いだしたのも望外の喜びだった。海に開けた姫路、山陰中国山地に近づく福崎、龍野の山峡(やまかい)の気の対照のうちに播州の地理的歴史的文化風土を知った踏査であった。
研究調査活動
依田鉄之助の記念誌『胡蝶の夢』に関する調査
白川 部達夫 研究員
期間 平成17年11月4日
調査地 長野県佐久市八幡・依田俊家
依田俊家に伝えられた明治7年に政府へ土地均分を建白した依田鉄之助の記念誌『胡蝶の夢』を拝見してコピーすることができた。同誌は建白書を掲載していることがわかっていたが、その全貌が紹介されたことがなかった。今回の調査で、昭和2年に鉄之助の長寿の記念に作ったもので、孫の前書きでは、子孫は鉄之助がいち早く土地国有論を提起したことを誇りに思い、同誌冒頭にこれを掲げたことがわかつた。昭和初年の歴史意識の中で、鉄之助の事績が回想されていることは重要なことで、今後の検討に示唆を与えるものであった。
研究調査活動
加賀藩十村役岡部家文書の調査
白川部 達夫 研究員
期間 平成18年1月26日〜1月27日
調査地 石川県立歴史博物館、石川県立図書館(石川県金沢市)
明治2年10月の越中ばんどり騒動の直後の土地均分風間の研究のため、加賀藩能登の十村で騒動の御用留を残した岡部家文書を調査した。明治2、3年の新川郡御用留以下の記録を撮影し、均分風間を取り締まる藩の触を確認できた。また石川県立図書館では、関連論文を検索コピーすることができた。これによれば富山県立図書館にも関連文書があることがわかり、近日調査する必要を感じている。
公開講演会
平成17年6月25日東洋大学白山校舎6202教室
「漱石の倫理観」
末次 弘 研究員
漱石の倫理観を彼の作品ではなく、講演をとおして観ることにする。新しい全集版に収録されている14の講演のうち、ここでは「文芸と道徳」、「模倣と独立」、「私の個人主義」の3つを取り上げる。
明治44年8月18日、大阪で行われた講演・「文芸と道徳」において、漱石は江戸期の道徳(浪漫的道徳)と明治維新以降の道徳(自然主義的道徳)の特徴を取り出し、比較している。そのなかで、維新以降の日本は近代社会になり、科学的精神も発達したことで、道徳も現実に存在する人間から出発して、「個人」を本位に考えるようになったことを、漱石は肯定的に評価している。しかし、このような道徳は次のような問題を含んでいることも指摘されている。第1に人間はそれがどのようなものであれ、「理想」を追求する存在である以上、理想を排すべきではないこと、第2に「個人」は好き勝手に走る怖れのある厄介な存在であること。「個人」とは手放しで肯定されるような存在ではないという深い洞察が漱石にはあったのだ。
大正3年12月12日、第1高等学校で行われた講演・「独立と模倣」において、漱石の理解する「個人」は他から孤立し、何の制約もなく存在する抽象的な個人ではないことが示される。〈人間は「模倣」と「独立」という2つの傾きを有し、模倣をとおして自分たちの文化に合一することで1人の人間となり、人間全体を代表しうるようになるが、独立によって自分を他者たちから差異化し、1個の独自な存在、その人自身となる。〉模倣は他の人を手本としてなされる以上、そこにあるのは「他人本位」である。これにたいして、独立に基づく言行はその基準を自分自身で創らねばならないので、「自己本位」に立たねばならない。人間における「模倣」と「独立」の問題は「他人本位」と「自己本位」との問題にほかならない。
大正3年11月25日、学習院で行われた講演・「私の個人主義」において、漱石は「他人本位」からなぜ、またいかにして「自己本位へ転じたかを自分の英文学研究に即して語り、さらに「自己本位」と個人主義の関係を論じている。そこで主張される「自己本位」の「自己」とは持って生まれた個性にぶつかり、それを発展させるさい、自分の自由と同時に他者の自由をもみとめ、尊重する「自己」である。このような「自己」を「元」ないし「主」とする「自己本位」こそ漱石の個人主義にほかならない、あるいは「自己本位」を核とする人生に対する根本的な態度が彼の「個人主義」であると言えよう。漱石の個人主義とは他者の自由を根底においてい承認する厳しい、時には孤独な態度であり、そこに彼の倫理観が示されている。
公開講演会
平成17年6月25日東洋大学白山校舎6202教室
教育勅語の成立をめぐって
森川 輝紀・埼玉大学教授
戦前教育の絶対的理念となった教育勅語の成立の意味を、日本の後発した近代国家の視点から考えてみる。教育勅語は、近代化にかかわるいかなる″論点”にかかわって成立したのかを、元田永学と井上毅、森有礼との対比を踏まえて明らかにする。特に従来、研究蓄積の薄かった元田永年の側からいかなる近代にかかわる″論点”が提示されていたのかを考えたい。
従来、元田永年は教育学の分野では、保守(反動)の儒教主義者、仁義忠孝を繰り返す陳腐な老儒者というイメージで捉えられており、研究対象として取り上げられることもまれであった。しかし、元田が天皇の側近奉仕者の立場で、教育勅語の成立に大きな役割を演じたことは無視できない。そこには、彼の独自な″思想”、ないしは無視しえない″論点”の提示があったと考えられる。元田の教学論は①朱子学的実学主義②人間の観念的な「平等性」③近代の競争・利欲社会を抑止する「道心」主義の3点の特質をもっている。朱子学的実学主義によって、近代の制度を「仁」の具体例として組みこみ、かつ「仁」の具体化は国別によるとして国体論と儒学とを結合する。さらには、天皇の絶対性を天祖の徳の体現者におくことになる。これらは、近代への架橋の可能性を持つものであった。立志修養を前提に、全ての人間の聖人の道への到達という朱子学的気質変化論もまた、近代の立身出世イデオロギーを支えることになる。さらに、近代の多数決主義に普遍性を認めず、「道心=天祖の徳=知仁勇=仁義忠孝」の形成にその保証を求めることになる。日本近代において「正義」の実現は何によって担保できるのか。これは、対立する森有礼、井上毅と共通する課題となる。森は専門職の持つ倫理に、井上は「相譲の徳義」にそれを求めている。元田は、仁義忠孝主義を近代の課題に対応して主張し、それ故に存在感を持ちえたと考える。
森の国民教育構想を排除して、元田は井上とともに教育勅語案作成にかかわることになる。2人の最後の争点は、教育勅語の位置づけをめぐってであった。政治と徳育を相対的に区別する井上と政治=徳育とする元田の対立は、いわば元田の「勝利」で決着する。井上の懸念した通り、1930年代以降、教育勅語は徳育の手段から、絶対的理念として国家・国民を支配していくことになったといえる。
公開講演会
平成17年12月10日東洋大学白山校舎第2会議室
北村透谷と東洋思想―漢文共鳴圏について―
根林 滉二・尾道大学教授
遅れて出発した日本が、急激に近代化を図る時、明治の知識人たちは、急いで西欧の文化や思想、文学等にその行動の理筋を求めた。が、それとともに、己の生の背景や生の論理構築のために、すでに血肉化している、内なる漢文教養圏、漢文共同体の論理に支援を求めたところがあったようである。時に、生確立の理念として、時に政治や文学の理筋としてそれらは探られた。
北村透谷の文学や思想確立の彿いは、そういった希求や援用の一象徴例に思われるところがある。周知のように透谷は、若き日、自由民権運動に参加、壮士的気概で政治活動を行っていた。だが、運動末期、資金を求めて強盗に走る運動から離脱、反転して文学や思想に自立を図った。その時、キリスト教や西欧の思想や文学に依るとともに、中国の思想や文学に自らのアイデンティティを求め、理筋を探った気配がある。そしてそれらは、思いの外、深々としたものがあるように思われる。本報告はその一端の提示を企図した。
その様相を辿ると次のようである。透谷に限らず、一般に日本人は1種の共通教養としての漢詩句や漢字、漢文学使用がある。とりわけ透谷は、早くに壮士的気概表出に、漢詩を作り、史記、三国志、陶淵明、李白等に志の表出を求めている。いわば、常凡的、一般的な教養としての漠詩文使用である。それらは基調としてまずある。その中、前記のように透谷は政治から文学へ走る。政治で果たしえなかった志を文学にかけようとした。志士としての昂揚した気と文学とが交錯した時、透谷がまず、己の文学的詩情表出に援用したのが、美文をもってなる『文選』の世界であったようである。それらは、初期透谷評論群の文脈リズムに多く使われている。が、そういった昂揚的なるリズムだけでは、論理は成立しない。透谷が内なる精神の自立を求め、次に探ったのが、王陽明の行動と内化の論であったようである。致良知、知至善、知行合一の世界である。だが、平板な行動学に己の内景を語りつくせぬ。透谷に、他界なる志向、更には、世を遁れる逍逢士的世界への志向もあった。その時、透谷が理筋として、あるいは心の放椰として求めたのが、老荘の世界、とりわけ『荘子』の世界であったようである。心を追って、「心宮内」の「秘宮」を透谷が求めた時、「太虚」の世界、「不道」の世界から、荘周「胡蝶」の夢、万物斉同、無為自然の世界などへの憧れとその限界の透視である。
かく、精神の確立や救抜をこういった東洋思想に求めた透谷の理筋が見て取れてくるのである。漢文共鳴の世界とその内化、離脱の内景は、明治の他の文学者や思想家、幸田露伴、夏目漱石、森鴎外、永井荷風等に、今1つ探ってみる必要があるかもしれない。日本近代化の1つの道程としてである。